arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー895日目と醤油の仕込み

2024/2/24土曜日

5時半に起床。

まずは豆麹を出麹。

今年最後の豆麹作りが終わったので発酵機の掃除。

そのまま天日干しに。

次に洗濯。

久しぶりに晴れた。

気持ち良く洗濯物干し。

最後に、今年最後の醤油の仕込み。

水と塩をよーく混ぜたところに先程出来たばかりの豆麹を入れ、更に混ぜ混ぜ。

ついでに他の醤油の瓶も櫂入れ。

これは2/15に仕込んだもの。

そして昨年3月に仕込んだ醤油。

これまでに仕込んだ醤油。

しめて8瓶。

全て櫂入れした。

やることやったら読書。

 

昨日から佐々木譲著「幕臣達と技術立国ー江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢」を読んでいる。

江川英龍に関してはもう何冊も読んでいるので復習となった。

中島三郎助に関しては余り知らなかった。

エンジニアなのな。

浦賀奉行の与力だった父の跡を継いだ直後にモリソン号が浦賀に来航。

浦賀奉行の戸田氏栄と共に乗り込み、まずは退去交渉。

そして、浦賀の船大工も連れて行ったので船内を見学し構造を見分。

マリーナ号が下田へ向かったあと、早速蒼隼(そうじゅん)丸を建造。

佐賀藩から入手した図面も参考にしたそうだ。

1853年にペリーが浦賀沖に現れた際も応接掛としていち早く番船で接近。

最も大きなサスケハナ号に近づきフランス語で書かれた退去を求めるメッセージを掲げた。

そして、後日乗艦する機会があった際は船の構造や大砲の仕組みについて色々と質問。

特に蒸気機関の動く様を観察し寸法を測ったりしていたそうだ。

誰よりも相手の軍備に詳しかった三郎助は幕閣に「嘉永上書」として意見書を提出。

日本でも軍艦を建造し、国際情勢の調査に海外派遣すべき、と上申。

また、羽田沖の浅瀬に台場を増設し相模から江戸湾にかけては大名家を封じ砲台を築かせ、軍艦数十艘を繋留させて警備に当たらせよと主張。

更に軍艦に関して大小30の軍艦を建造。

うち6隻は蒸気船であること。

30隻のうち2/3は江戸湾警備用とし残り1/3は浦賀奉行所所属とする、と具申した。

これらの意見を勘案し幕府は長年続いていた大船建造禁止令を解いた。

三郎助は35歳の時、長崎海軍伝習所伝習生に選ばれた。

同期に矢田堀景蔵や勝麟太郎等、小野友五郎が居る。

修了間際、伝習所総督の永井尚志に呼ばれ専修課程でもう1年学ぶように言われたそうだ。

一方勝麟太郎は落第。

留年することに。

1859年、咸臨丸のアメリカ派遣が決まった際、三郎助は乗組員に選ばれず。

同じく伝習所で優秀な成績だった榎本武揚と小野友五郎、赤松大三郎も選に漏れた。

三郎助は1861年、幕府の軍艦操練所頭取手伝いを辞し1863年、富士見御宝蔵番客御車鑑頭取り手伝いに任命された。

その後、勝麟太郎軍艦奉行になるとそりが合わない三郎助は辞職。

隠居するも矢田堀景蔵から軍艦組に戻って来て欲しいと言われ軍艦組出役で徳川海軍に復帰した。

戊辰戦争では榎本艦長の開陽丸に乗り函館へ。

2人の息子と共に壮絶な戦死をした。

 

11時半から昨夜以来の食事。

ラーメンを調理。

お腹が満たされたら午後も読書。

テニスに行く予定だったが参加者が7名と多かったので辞退。

これも、神様が読書に専念した方がいい、と言っているような気がしたのでそうする事に。

 

16時半から入浴。

17時半から夕食作り。

カレーを作った。

夫は飲み会で不在。

18時からウォッカ梅酒ロックとスルメで晩酌後、カレーを食べたい。

 

歩数計は3403。

充実した一日だった。