arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1863日目と『レイテ戦記』87と畑

2026/10/17土曜日

3時過ぎに覚醒し、読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

福栄中将以下約100名の司令部はその後準備に手間取り、1/5夜、10隻のバンカーに乗ってバリティを出航。
但し、丸木舟の搭載能力に誤算があり福栄中将、和田参謀長の乗った大型バンカーだけ辛うじてボゴ(パロンポン対岸)に辿り着いた。
が、上陸地点でゲリラに銃撃され、福栄中将、和田参謀長共に負傷という惨憺たる結束に終わっている。
護衛の百六十九大隊長西村茂中佐も戦死。
これらは皆後になってわかった事だが、この護衛兵力を連れて行った事が統帥違反となった。
出発したのかしないのか、何の連絡も無いので、友近少将がリバティまで行ってみると、海岸の塩焼小屋で金子参謀がつくねんとしている。
参謀の乗った舟は岸を出てすぐ沈んだ。
泳いて帰り、新しくバンカーを都合して再航を図っていると言う。
福栄師団長の乗った舟は大型。
水平線上に没するのを見たから多分セブに着いただろう。
金子参謀の口から護衛として西村大隊長、2人の中隊長と共に兵若干を連れて行った事が明らかに。
友近少将の復命を聞いて、鈴木軍司令官は激怒。
命令は師団司令部の渡航を許しているだけである。
兵力を濫りに動かすのは越権且つ重大な軍律違反。
そもそも福栄中将の行動が違反。
事を荒立てない為恰好をつけてやったのに、勝手に護衛を連れて行くとは何事か!と激怒。
↑福栄中将て、ウィキにも何処にも出て来ない。
画像は発見したが。
鈴木中将を怒らせる為の工作員じゃね?

が、その後、BC級戦犯の本で発見。

戦犯として処刑されている。


1/7, 鈴木中将は大本営と方面軍に経過を報告。
福栄中将の「親補職を免じ、中央部に於いて捜査処分せられ度」と上申。
この頃、カンギポットには感度の悪い手廻し発電の3号無繊機しか無かった。
電報はセブ経由で送られた。
しかし、この時は米輸送船がリンガエン湾沖に到着。
方面軍は戦闘に入っていた。
人事に構っている暇は無かった。
返事は無く何の手続も取られなかった。
鈴木軍司令官は福栄中将から百二師団の指揮権を取り上げ、和田参謀長と共にセブ市に於いて待命を命じた。
しかし、大本営からいつまで経っても返事が来ない。
放って置く訳に行かないので陸軍刑法に触れないよう罰目を定め福栄中将、和田参謀長を遡って重謹慎30日に処し、師団の指揮権を復活せしめた。
3/24, 友近少将がセブに帰着した際、言い渡した。
2日後の3/27, 鈴木軍司令官もセブに帰着。
福栄中将を面責。
中将も陳謝の意を表明。
一応蹴りは着いた。
が、「何だか両者共釈然たるものが無かった様である」
と友近少将は付け加える。
事件は師団長の事実上の戦線離脱。
レイテ島で起きた最大の不祥事。
惨憺たる敗戦にも拘らず軍司令官と兵団長の間でインパールのような決裂が起こっていないのは鈴木軍司令官の俊敏さはなくても、穏健な統帥の結果と言える。
↑牟田口「  」

 

福栄中将は聯隊長時代、中支の台児荘で似たような事件を起こした(この場合は所命の位置に進出しなかった)
この種の行為の常習犯。
事件の噂はカンギポット周辺から脊梁山脈の中まで広まりレイテ島上の兵士の士気に影響があった。
鈴木軍司令官自身が脱出したと誤り伝えられて、多くの遊兵に戦線離脱を正当化する口実を与えた。
脱出したのは師団司令部だけで、隷下諸隊はレイテ島に残された。
第二次転進部隊(丸山正寅参謀指導の第百七十一大隊=田辺大隊、四十一連隊)は1/5まで。
カンギポットに着かなかった。
四十一連隊は「抜」に欺されたと言っている。
福栄中将は戦争初期シンガポールで起こった俘虜虐殺事件の責任を負い戦後B級戦犯として銃殺されている。
中将の為に弁ずれば、次の2つの点が挙げられる。
一つはその管区の一般状勢に関するもの。
パナイ、ネグロス、セブ島はレイテ島のような農業島では無く早くから開発されていた。
セブ島は早くスペイン人の植民が進んでおりセブ市はフィリピンの謂わば京都。
鉱業、製糖業が盛ん。
パナイ島はルソン、ミンダナオに次ぎフィリピン群島3番目の大島。
その首都イロイロは人口9万、マニラ、セブに次ぎ繁栄した島である。
ネグロス島西北部は殊に製糖が盛ん。
昭和19年末で尚多量の砂糖のストックがあった。
その砂糖から製するアルコールは日本本土の物動計画に繰入れられた。
百二師団の任務にはこれら物資の確保が含まれていた。
またパナイ島には有力なゲリラ根拠地があり、ピサヤ地区ゲリラの中心でペラルタに指導された蜂起があった。
11月末、各所で通信線切断、親日フィリピン人に対するテロが起こった。
12/19にネグロス島バコロド水源地が攻撃され飛行場の一部が占領された。
福栄中将のレイテ進出が遅れたのはこれら匪情が作用。
レイテ作戦に従事する一方、これらの事件について留守部隊からの報告を受け、無電で命令を発令していたと言われる。
無論、命惜しさが先であるが、レイテ戦は山が見えた。
ここで軍司令部と心中するより早く警備地に戻りパナイ、ネグロスの資源地帯を確保するのが結局三十五軍の為になる、と言う判断は一応条が通っている。
12/20、リボンガオから帰着した金子参謀は、司令部がイロイロ、バコロドの留守部隊と無電で連絡。
大発と機帆船を12/28, 29日にビリヤバに送るよう手配しているのを見た(セブの船舶司令部は軍の指揮下。自由になるイロイロ、バコロドに連絡した)
金子参謀はまた付近に軍の杉本参謀、加登川参謀が居たのを記憶。
杉本参謀は転進中百二師団と合流したと信じられていた。
が、ピナ山から一緒だった。
リボンガオ三叉路付近に軍の貨物廠があり、後方参謀であった中佐は司令部が米軍に急襲された時、そこに出張中。
行方不明と考えられていたが、そのまま軍輜重隊と共に東方山中の百二師団の陣地へ退避。
杉本参謀は後に軍司令部に帰って、福栄中将独断渡航計画をうすうす感づいていた、と言っている。
が、ピナ山からずっと一緒だったとすれば、計画を熟知し了解を与えていたのではないか、と友近少将は疑っている。
3/25, 友近参謀長(この頃は和知参謀長がルソンへ帰還。参謀長に復していた)
が福栄中将、和田参謀長に会い罰目を言い渡した後、懇談した時の2人の話に拠ると杉本参謀には師団長の意図は明白に話してあったと言う。
同参謀も賛成。
自分も一緒にセブへ連れて行ってくれと頼んだくらいだった、と。
杉本参謀が軍司令部に帰る時、次の諸点を口頭で伝えてくれと頼んだと言う。

今日はここまで。

 

4時に起床しパソコン作業。

メールのチェックをし、返信後、5時過ぎに畑へ。

希望の星のへちま✨

葉っぱが星みたいやん!

いつものように液肥を施肥したら、5時40分に帰路に。

帰宅後、再びのパソコン作業。

6時半から朝の家事。

昼食の豚骨ラーメの下ごしらえ。

まだ麺類が苦手な末の孫用に炊飯の予約と納豆の用意もした。

9時に孫達が来訪。

暫し、癒しの時を過ごした。

孫達が公園へ遊びに行ってから、再び、シナリオのチェック。

先週のリハーサルでの反省点を踏まえ、既に修正済だが、更に修正点を発見。

関係各所に変更の調整をメールで依頼。

12時に御一行が帰宅。

急いで、とんこつラーメンの仕上げ。

野菜たっぷりの豚骨ラーメンは大好評。

孫達のお替りも続出。

420gの中華麺は目出度く完売した。

自分は納豆ご飯と昨日の煮物メインでお腹を満たした。

午後も13時半から、関係各所にメールの一斉送信。

防災訓練を何とかスムーズに進行させる為に必死ですわ。

16時半から夕食の用意。

イカとメカジキ、鶏むねの西京味噌󠄀漬け、キャベツのゆで卵サラダ、大根おろし、残り物の味噌汁と煮物、ウォッカ梅酒ロック。

目玉はサラダに降り掛かった炒り胡麻。

自家製の胡麻はマジで美味しい♥

わいが良く視聴する農業動画のひろちゃんも言ってた。

おつまみは色々あったが、調理しながら、食べて呑んで、無い。

ウォッカ梅酒も半減。

キッチンドリンカーの何が悪いねん!!

酔わないからええねん!

ブログもちゃんと編集出来てるからええの。

今から明日の防災訓練の準備するんやで。

 

歩数計は4205。

充実した1日だった。

 

 

 

 

オートファジー1862日目と『レイテ戦記』86と畑

2026/10/16金曜日

2時にトイレに行ったあと、眠れなくなったのでそのまま読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

この間、カンギポットの日本軍の中で悲しむべき事態が。
1/5, 百二師団長福栄真平中将がバンカー10を仕立てセブへ脱出。

百二師団は元々セブ、ネグロス、パナイ島など、所謂ビサヤ諸島の警備旅団を編成し直したもの。
訓練装備兵共に劣弱。
レイテ島決戦の増援部隊として余り大きな期待をかけられて居なかった。
留守部隊の司令部はネグロス島バコロドにあり、河野旅団長の下に、四個大隊、つまり、兵力の三分の二を残してきていた。
11/23, 友近少将が師団司令部を訪問した際、福栄中将は「我々は一体いつ帰れるんだい」と言って少将を憤慨させた。
食物の文句ばかり言っていたとも言われる。
方面軍の25日付命令はビサヤ諸島及びミンダナオ島での自活自戦。
従って元々警備師団である百二師団をセブ、ネグロスに帰す方が万事円滑に行く。
軍としては異存がある筈は無いのだがただその帰り方が穏当でなかった。
12/19, リボンガオで師団参謀金子中二少佐に与えた軍命令はマタコブ北方に転進であった。
しかし師団はその後電報も寄越さず連絡将校も派遣せず行方不明になっていた。
友近少将の『軍参謀長の手記』によれば、師団の消息が最初にわかったのは12/29。
軍獣医部の鈴木礼吉大尉が12/28, カンギポット東麓で水牛を集めていると、偶然師団司令部が西北に進軍しているのに遭遇。
軍後方杉本森雄中佐も下士官数名と共に同行。
杉本参謀も12/19のリボンガオ襲撃以来行方不明になっていた。
しかし、中佐はもう暫く百二師団と行動を共にする、と話し鈴木中尉はそのまま別れて帰った。
杉本参謀の行動も少しおかしい。
軍司令部の位置が分かれば直ちに復帰すべきが当然。
友近少将は直ちに鈴木大尉を迎えに出した。
杉本参謀は同日夕刻部下と共に帰着。
百二師団からは連絡将校ご着いてこない。
杉本参謀が師団参謀長和田俐大佐(牧野師団長実弟)の私信を持って来ただけであった。
和田大佐は十六師団長牧野中将実弟。
友近少将とは陸士同期。
心安立ての処置であるかそこには奇怪な事が書いてあった。
「福栄閣下はピナ山以来、軍と連絡が取れないようになってから深く考えられた末、自分の師団はレイテに在る軍の為に補給の世話をした方が全般の為宜しいと判断。先ず師団司令部は之と行動を共にして退却して来た西村大隊(百六十九大隊)と共にセブに帰還するに決せられ、既に機帆船、漁船、大発等の手配致し有りて、12/30夜、ビリヤバに於いて乗船するに決定しあり、故に此の点了解の上、軍司令官に対し宜しく取り計われ度」
これは勿論、重大な独断専行。
福栄中将の判断が仮に妥当であるとしても、上級兵団たる軍に意見具申して命令を持つのが順序である。

どうしてこんな行動に出たか、恐らくレイテ島進駐以来の福栄中将の本心が表に出たものであろう。
杉本参謀に聞くと、「薄々気配は察していたが詳しくは知らない」と言うことだった。
何れにしても軍に連絡者も出さず、私信一本で行動を決めるのは我儘。
軍律違反。
師団長ほ表向きは天皇の親補職。
軍法会議に掛けるのにも慎重を要する。
↑天皇の任命責任が問われる。

また、福栄中将は鈴木軍司令官より一期上の二三期。
鈴木中将は幼年学校、陸士、陸大何れも首席で卒業した秀才だから上級兵団長になっいる。
そこに遠慮があった。
事を荒立てない為、次の命令を出す事に。


「福栄中将は師団司令部を率い、原駐地に帰り、原作戦地域の防衛のみならず、留守軍司令官として、ビサヤ、ミンダナオ地区の諸兵団、諸部隊をも指揮すべし」


これは、和田参謀長の私信の趣旨を西村大隊護衛の件を除いて全面的に認めたもの。
命令を持たせてやったところ、折り返し和田参謀長より私信で返事が来た。
「軍の御好意を感謝す。目下渡海準備の為忙しきを以てこのままお別れするから悪しからず」

軍としては「親心」を示したつもりだった。
が、あくまで連絡者を寄越さないとは何事だ。
和田参謀長が出頭すべきてはないか、と激怒。
そこへ、12/31、和田参謀長から再び私信。
「準備せる舟は皆米機にやられて12/30夜は出発出来なかった。師団長はバンカーでても渡るからと決意せられているが、あまりにお気の毒だから、貴官の配慮で装甲艇でも出してくれぬか」
友近少将もこれには腹を据えかね、「罷りならぬ。軍命令の如く自分の都合した舟で行け」と返事。
それに対する再返事。
「師団長はバンカーで渡海に決せられた。愈々お別れで或いは永訣になるかも知れぬ、従来永年の御好意を謝す」
カンギポットとセブ島北部とはカモテス海を隔てて相対。
その間40キロ。
↑対馬と韓国くらいか。

晴れた日なら水平線上にその山影を認められるくらい近い。
内海だから波は静か。
が、南へ向かう潮流がある。
11月中旬以来魚雷艇が出没。
殊にパロンポンに敵上陸以来、絶えず敵舟艇が往来。
哨戒機も飛来。
夜間突破しか無い。
が、丸木舟で行くのは大変。
和田参謀長の訣別の辞に誇張は無い。
↑バンカーのイメージはこれか。
https://blog.tirakita.com/2024/03/phillippines_ride.shtml#i-4

 

今日はここまで。

4時過ぎに起床しパソコン作業。

メールをチェックしたあと、返信。

5時過ぎに畑へ。

いつものように液肥を施肥したら6時に帰路に。

帰宅後、洗濯とシャワー。

ついでにおやつ作り。

カボチャプリンとポップコーン。

8時半から再びパソコン作業。

10時半に金融機関へ支払いに。

さいたま市自主防災組織補助金で購入の資機材代金の振込をする。

隊長が立て替え払い。

自治会会計の手続き上仕方が無いとはいえ無職が67万円の立て替え払いは、家庭内論争の元。

夫の口座から夫の名前で振込む事も考えた。

が、色々と問題がありそうなので自分の口座から払う事に。

帰宅後は、胡麻の天日干しの後片付け。

明日孫達が来るので、いたずらされないよう片付けてしまう事に。

衣装ケースにセットしたシートにはボウル一杯の胡麻が溜まった。

半分に分けた物を3段階の篩にかけ、出来るだけゴミを除去。

小豆の横に天日干し。

先日収穫したさつまいもと天日干しチーム結成。

12時過ぎにこの作業が終わり、ようやく昨日の昼以来の食事。

最近、何故か夜になると食欲が減退。

ま、おやつも盛大に食べてるからの。

4,5日前から夕食は食べていない。

夕食は食べていないけれど呑んでいる。

ツマミをお供に。

それはいいとして、漸く待ちに待った食事をしようと味噌汁をお椀に入れようとした所で防災無線から緊急地震速報。

大地震、だと。

取り敢えず、鍵とスマホと靴下を手に、身構えた。

が、いつまでたっても揺れは来ず。

何だったんだ?

程なく、気象庁の誤報と判明。

食事を摂ることに。

お腹ペコペコですわ。

食後は、頂いた柿とカボチャプリンをデザートに、地震情報をチェック。

夫によると、通りかかった幼稚園では、園庭の園児にマイクで園内に避難するように、と呼び掛けているのを聞いたそうだ。

少なくとも、市は知っていたんだろうね。この日この時間に"大地震"が来る、と。

大地震が起きる予定だったのが、起きなかった、と。

起きなくて良かった。

16時半から夕食作り。

マグロのネギとろろ、里芋と牛蒡の煮物、ローストくるみ、ウォッカ梅酒ロック。

 

歩数計は5328。

充実した1日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オートファジー1861日目と『レイテ戦記』85と畑

2026/10/15木曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

1/1付各紙は「比島戦局は当に紙一重」を告げ、陸軍神鷲のミンドロ島船舶撃破を伝える。
1/2, 小磯首相の放送はレイテ島が天王山なのではなく、フィリピン全体が天王山なのである、と訂正。
1/3付新聞で初めて「レイテ島必ずしも有利ならず」と実情を告げた。
1/2, 米ルソン島上陸船団の先頭はレイテ湾を発し6日朝リンガエン湾口に達した。
これは合計850隻から成る大船団で、その時最後尾の補給部隊はまだレイテ湾を出ていなかった。
レイテ島の1/1は静かだった。
西海岸カンギポット周辺に集結した第一師団、第百二師団、六十八旅団、高階支隊、カモテス支隊、伊東海軍陸戦隊など、約1万将兵はこの日、米の飯を炊いて正月を祝った。
宮城を遥拝。
島国の武運長久を祈り、南海の孤島に祖国の人柱となる決意を新たにした。
無論中に、こんか辺鄙な所で永久抗戦などという夢のような任務を負わされるのは真っ平だ、なんとかしてこの島から脱出しようと決意した者も居た。
↑職業軍人以外は皆そうやろ。

 

この時三十五軍の掌握していた部隊は1/2付報告では次の通り(方面軍宛「尚参電第八三九号」一月二日一九◯◯)
第一師団 2,500
百二師団 2,000
六十八旅団 4,000
四十一連隊(軍直轄)250
七十七連隊 18
軍通信 300
カモテス支隊 1,200
伊東陸戦隊 250
歩兵第五連隊(高階支隊)200
合計約1万。
最後の3つは「前進警戒兵力」と注されている。
恐らくマタコブ、パロンポンなど、軍司令官から遠い位置にあった為で、その兵力は凡その推定。
六十八旅団の4,000としているのも誇張である。
上陸したのが3,000でこの頃は2,000に減少していた筈である。
「右以外単独兵は尚相当数あり」と報告は付加。
山中に迷って連絡出来ずにいる者、或いは出来ても態と申告せず、単独或いは4,5人ずつ固まって「自活」し、住民の舟でセブかマニラに帰ろうと企図している者、つまり「遊兵」である。
この種の兵隊の存在がレイテ戦後期の悩みの種であった。
本来は作戦の結果、不活発な位置に置かれた部隊の正式呼称。
が、戦史家、ジャーナリストに依ってこの用法が固定。
そしてこれも何処の戦場でも必ず発生するものだが、この時期のレイテ島では「相当数」として公式報告に載せなければならない程増えていた。
「当面の敵情左の如し」と尚参電八三九号は続ける。
「『ビリヤバ』より『シラド』湾付近に約五ー六◯◯、逐次『パロンポン』付近より移動しつつあるも、活発ならず」(これは米七七師団による交替である。第一師団、六十八旅団とビリヤバで交戦した第七連隊はカナンガに帰る)
「バリティ以南『ロモノン』(パロンポン北方5キロ)附近までは、概ね確保するが如く、高階支隊は『バナハン山』付近を『パロンポン』防衛隊は同東方高地帯を確保しあり、該方面の敵は歩兵四ー五◯◯(砲を有す)集団(軍)戦闘司令所はカンギ峯南麓『ブカブカ』ニアリ」
3日付尚参電八四一号(5日一二二六発)はパロンポンの敵のサン・イシドロ、レイテ方面移動を告げる。
2日、二十六師団指導の為、オルモック方面に残して来た軍高級参謀中村貢大佐、後方参謀龍崎庄司中佐、山崎万造少佐が帰着し同時団のタリヤサン上流の集結状況が判明。
山崎参謀は第一師団の土居参謀と同期生、5日再び出発、ドロレス方面の今掘支隊の位置に達した。
同支隊にマタコブ南方のナグアン山に転進を命令。
同じ命令を二十六師団に伝える事を依頼して11日カンギポットに帰着。
これで軍の未掌握部隊はブラウエン方面の脊梁山脈中に居る十六師団だけとなった。
今掘支隊(二十六師団独歩第十二連隊)の行動については連隊副官東嶋大尉の帰還により、やや詳細に知る事が出来る。
支隊の残兵400は12/27, オルモック反撃失敗後、ドロレス東方の山地にあった。
1月上旬、米3日分と携帯口糧1日分を持ち三個梯団に分かれ転進開始。
オルモック北方にて街道を越え、パクサンガハン川下流の乱流湿地帯を渡って所命のナグアン山に達した。
この頃、この方面は米軍の作戦区域外になっていたから、転進は支障無く行われた模様。
ナグアン山はマタコブの真南、パロンポンの真東それぞれ10キロの位置にある。
標高400m、西方山地南部では高山であり、目標とし易い。
カンギポット周辺には既に兵が1万集結している。
そこへ糧秣装備を失った敗兵が増加しては混乱するので、一応この方面に兵力を収容。
逐次、カンギポットへ集める予定。
部隊は付近山中に十六師団及びオルモック湾北岸に漂着した兵、船員が、多数「自活」しているのを視認。
住民は逃亡。
が、折柄収穫期。
民家には米、トウモロコシ、モンゴ(小豆)などの蓄積があり、芋、バナナの畑もあった。
敵機、砲兵の散発的な攻撃を受けるので、昼間は壕生活を強いられる。
が、夜間は風通しの良い台地に上がって思い出話に耽る。
東嶋副官は、参謀達の食い競べの状況を伝える。
「ナグアン山麓の隣組、珍しくも米火すと豚と手に入り、常会を開催。(昭和20年1月)持寄り料理。
A家、部隊長、松田参謀、小生、川上少尉ー焼豚、いも、もち。
B家、野中大尉、望月中尉ー焼飯、ネギ汁。
C家、太田准尉、三神准尉、安倍准尉ー餃子、落花生。
D家、高橋曹長、大重曹長ー豚饅頭。
久し振りにご馳走、酒なき淋しさも忘れて一同団欒、朗らかに四方山話をした。一番人気のあった料理は三神の作った餃子、蒙疆を思い出して色々と花が咲く。さて大食家の番付と来れば、東の横綱、安倍准尉餃子40個平らげる」
これは恐らくこの時点でカンギポット周辺の何処の露営地でも行われた。
敗軍と雖も作戦が無ければ将校にはこの程度の閑日月は持つ事が出来る。
しかし、これらの食糧はそれぞれ当番兵や部下に収集させたもの。
永い間、戦闘と窮乏に堪えた後の陣中閑暇風景である。
怒らくこの食糧を集めた兵の口にはこの20分の1も入らない。
こういう不公平は何処の国の軍隊にもある。
将校にこれくらいの特権を与えなければ軍隊の機能を果たす事は出来ない。
しかし、敗軍と成るとこういう習慣は兵の心に不満を募らせ将校から離れさせる。
「遊兵」ばかり非難する事は出来ない。

今日はここまで。

 

4時半に起床し5時過ぎに畑へ。

ヘチマ 食べれる で検索したら20cm位の若芽は食べられる、とあった。

測ると15cm。

収穫して食べてみる事に。

いつものように液肥を施肥したら5時40分に家路に。

朝陽を浴びながら帰った。

帰宅後、シャワーと洗濯。

8時過ぎに買い物へ。

9時前に帰宅。

今日は大量に印刷する。

デカリュックを背負ってコミュニティセンターへ。

防災訓練の訓練が2つ減った事で、集合時間を遅らせる事に。

シナリオの修正版を作成。

雨天時のシナリオもあるので、元々12ページだったが、修正版は合計10ページに。

31名分を印刷し帰宅後、仕訳。

10時半からはそれらを配って回るお散歩。

帰宅後は、メールの送受信。

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後は、先日のリハーサルの反省と修正点の纏め。

今回訓練毎にタイムキーパーを決め、時間を測定。

幾つかの訓練は、想定時間の半分以下の時間で終わっていた。

想定より長く掛かったのは前半の放送施設を使用した訓練。

こちらは訓練毎に、開始や終了をトランシーバーで応答するのだが、トランシーバーの不安定な事。

交信出来る時と出来ない時がある。

交信出来ないと、そこで訓練が停滞。

徒に時間が経過。

最後は携帯電話で交信(笑)

トランシーバー要らないやん。

遠距離トランシーバー3万円✕8台=24万円

近距離トランシーバ2万円✕10台=20万円

合計44万円。

これだけの費用を掛けて、訓練で運用出来ない。

気が付いたら無用の長物。

遠距離トランシーバーに関しては隊長のもの以外は交信出来ていた。

一斉指示を出す隊長のが壊れてたら意味ないやん。

トランシーバーを使用した訓練が終了した直後から使えたけどな。

放送訓練もそうだけど、電波使う訓練は駄目や。

だから、本番に備えてシナリオを修正。

トランシーバーが使用不能の場合は、携帯電話で、それも駄目な場合は、近くに居る隊員が紙に報告事項を書いて伝令として走る。

近くに隊員が居ない場合は自ら走り、隊長に対面で報告、というバックアップ体制を取った。

 

16時半から夕食作り。

ガパオライス、ヘチマと蓮根と人参の塩コショウ炒め、ウォッカ梅酒ロック。

ブログをアップしたら食べる事に。

 

歩数計は8477。

充実した1日だった。

 

 

 

 

 

オートファジー1860日目と『レイテ戦記』84と畑

2026/10/14水曜日

3時半に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 


但し米側では12/27以降の空襲は1/9に予定されたリンガエン湾上陸の準備作戦と称している。
同日以降ハルゼーの第三八機動部隊は台湾を連日空襲。
台湾の飛行場を爆撃しルソン増援航空兵力の発進を不可能にする。
本土飛行機工場を破壊して新製品の積み出しを妨げようという計算だった。
12/30, 小磯首相は天皇に拝謁の為参内。
廊下で杉山陸相に会うと「総理、どうも統帥はレイテ決戦をやめるらしい」と言った。
首相は「冗談でしょう」と答えそのまま拝謁(これは彼の終戦後巣鴨プリズンにおける述懐。服部卓四郎『大東亜戦争全史』に拠る)
「退ろうとすると、陛下が『小磯、統帥部はレイテ決戦を止めて、ルソンで決戦する事に変更した』とこういわれるんです。『何か報告はあると思いますけれども、総理の知らない間にこういう事が起こっては、なかなか務めにくうございます』と言うことで、その場は済みましたが………」
同じ事を天皇は明けて1/2, 内大臣木戸幸一に伝えている。
天皇が統帥部はレイテ決戦を止めるそうだが、「レイテは天王山」と言った手前、どう国民に説明するつもりか、と訊くと、小磯首相は実は自分もたった今聞いたばかりです、と実情を申し上げ、日本の政治家の永遠の台詞「十分検討の上、善処致します」と奏上して退いた。
陸海軍統帥部がその決定を総理大臣、陸軍大臣に告げない秘密主義は蘆溝橋以来の癌であった。
が、形勢が悪化するとその弊害は一層大きくなった。
海軍と陸軍の間にも連絡は無い。
海軍が台湾沖航空戦の誇大戦果を取り消さなかった為、陸軍がレイテ決戦にのめり込んで行った。
↑レイテ戦の動画では、十四方面軍司令官の山下中将は堀参謀から真の情報を聞き、米側に損害は殆ど無い事を把握していた。だから、レイテ決戦に反対だった。


最高戦争指導会議はその欠陥を除く為に小磯が創設。
12/30は拝謁の後、14時から会議。
小磯は大将。
陸海軍首脳部と「俺、貴様」で話し合える仲。
梅津参謀総長に、もっと早く、非公式で良いから情報を教えてくれれば良かった、そうすれば今日の苦境に陥らずに済んだのに、と零した。
小磯首相「陸軍はちっとも決戦しないじゃないか、もっと活動したらいいじゃないか」
梅津大将「俺は陛下の幕僚長に過ぎない。戦場統帥は出先でやっているから仕方ない」
このような責任のなすり合い、所謂「無責任体系」が成立していた。
12/30の会議では「両統帥部としては深入りする事を避けた」(種村佐孝「大本営機密日誌」)
12/25, マニラから帰った第一部長宮崎周一中将は12/28の戦況を報告。
レイテだけでなくルソン決戦も放棄しなければならなくなった経緯を説明。
現地軍は決戦放棄に伴う反動心理から全面的に頭を切り替える必要に迫られているが、逐次鎮静に赴くだろうと付け加えた。
12/26, サイゴンへ帰った飯村総軍参謀長は即日罷免、第二方面軍へ転属。
但し作戦変更に伴うポスト変更は通常の処置。
必ずしも処罰を意味しない。
緒戦以来、大本営の作戦立案の実際に当たった服部卓四郎大佐も十三軍(中支)の聯隊長に転補。
しかし、それは昭和20年3月の事である。
第二方面軍では丁度司令官阿南大将の航空総監に転出が決定。
後任の選定が急がれていた。
即日罷免は総軍司令官寺内寿一元帥の感情的動機を思わせる処置である。
レイテ作戦続行が大本営の指導に拠ったか、総軍の主張であったかは微妙なところである。
直接方面軍が接触したのは命令系統から言っても総軍。
諸文献、特に山下大将に対して弁護的な回想にはいつも総軍が悪役として出て来る。
米軍上陸3日前に大本営にレイテ決戦を具申したのは確かに総軍(大本営は方面軍との調整は出来ていると思ったと言う)
11/12, タクロバンの敵航空兵力増加を見て、大本営の「英断」を請う電報を打っている。
それを押し切って、和知中将の三十五軍参謀長任命など、決戦続行を推進したのは今度は大本営。
「和号作戦」失敗後も「決号作戦」がカリガラに指向されているのだが、これらについては、余り戦史に現れる事は無い。
準公刊戦史とも言うべきは服部卓四郎『大東亜戦争全史』だが、その筆者服部大佐は当時の作戦課長に他ならず工合いの悪い事は隠蔽されている。
大佐は緒戦以来陸軍の作戦指導の実際に当たってきた。
が、宮崎部長就任に伴う方針変更、更に昭和20年2月の沖縄増強案について独断専行があって罷免された。
レイテ決戦続行も大佐の失敗とも言える。
大本営指導の線は『大東亜戦争全史』では隠蔽される。
憎まれ役は総軍が引受けなければならなかった。
が、それなら総軍が11月以後決戦続行に反対だったかと言うとそうでもない。
12/15, 米軍のミンドロ島上陸以後も、この敵撃滅という空想的プランを要請し続けたのは総軍。
ミンドロ島は総軍の退いたインドシナと南シナ海を隔てて1,200キロである。
内地との物資輸送路線は切断されると言う危惧の他、米軍が直接サイゴンに上陸を企図するのではないか、という恐怖もあった。
そもそもレイテ決戦の主張にも自軍の安全を考慮したエゴイズムが入っていた(昭和19年5月以来十四軍に対し、スル海、ボルネオ方面に配置を求め、レイテ上陸の近い10月まで七個大隊の派遣を要請)
宮崎中将の本土防禦計画は総軍には決戦放棄と映った。
出撃防禦が陸海軍の伝統的戦略。
日本本土は土地狭溢で決戦に適しない、と言った。
しかし、この主張も外地軍のエゴイズムも自己肥大が含まれている。
但し総軍はこの頃、資材10,000トンをルソン島或いは本土へ送る計画を立案中。
輸送船団は1月末、ハルゼーの第三艦隊によりカムラン湾で艦船諸共沈められた。
が、その計画実現までミンドロ島を確保せよ、というのだったら、目先に捉えられた考えながら、一応筋が通る。
宮崎中将は米軍の次の上陸地点を硫黄島、台湾、沖縄に想定。
総合航空作戦計画の作成を細田熈中佐に命令。
しかし、大本営は総軍の他にもう一つの面倒な外地軍、支那派遣軍を抱えていた。
折柄、軍参謀長以下東京に飛来。
四川攻略、蔣政権打倒の大作戦を具申。
米軍が次に台湾に来攻する場合、中国本土に上陸する可能性が生じる。
大本営としては、それに備えて在支軍を南に向けねばならない。
が、現地では、その危険性があるのなら両面作戦を強いられる以前に、四川作戦を実施。
各個撃破すべきである、と出来もしない事を主張。
宮崎中将はルソン島上陸後、四川攻略なんて大作戦をやる余裕は今の日本には無い、と言う事を支那派遣軍に納得させる事が出来た。

今日はここまで。

 

4時半に起床し5時過ぎに畑へ。

今一番元気なのがヘチマ。

食材じゃないから、攻撃されない。

攻撃が無いと、こんなにも元気!

いつものように液肥を施肥したら6時に家路に。

 

帰宅後、シャワーと洗濯。

朝の家事を済ませ、パソコン作業をしていると、夫が雨雲が来るよ!5mmの雨!と言う。

慌てて天日干し中の小豆と胡麻を屋内に入れた。

病院へ向う夫を駅まで送る途中、ポツポツ降った。

が、帰宅して間もなく止んだ。

今日もお便りを数カ所デリバリー。

そして、帰宅後、再びのパソコン作業。

防災訓練内容の変更により、今後、ポスターやシナリオ、終了後のアンケート案等を修正配付する。

作成後はメールで決裁。

許可を得た物から明日印刷、配付する事に。

更に、市から振り込まれる自主防災組織補助金の入金が確認されたので、購入決定している資機材を注文。

納期まで時間が掛かる防災倉庫は既に発注済。

AEDも12月納品希望で注文済。

この補助金は原則現金払いしか認められない。

事前に現金払いが可能か確認してからの注文。

これが、ネット注文の簡易トイレと目隠し用テントは大変だった。

何とか現金払い出来るお店へ注文。

自治体の補助金は名入れをして写真も撮って事業終了報告をしないと、だ。

防災倉庫はお店で名入れしてくれるが、他は無し。

購入物品の名入れ用のシールも防災隊長が作成。

勿論写真撮影も。

な?

何でも屋さんやろ?

 

会議の準備から仕切り、資料作成とそのコピーと配付に始まり、補助金申請や無線局登録関係手続き、外部会議への出席は勿論、物品の購入、検品、名札も作成したし、今回の防災訓練用のヘルメットやビブスも用意。

 

市の自主防災組織連絡協議会総会で自主防災組織を解散したところが5か所あったと報告があった。

そら、わかるわ。

隊長になったら最後。

雑務に忙殺される。

これ、籤引いて決める役職じゃない。

少なくとも、書記と会計、パソコン係と3名の部下付けないと。

自分は、嫌いじゃないからやってる。

 

16時半から夕食作り。

豚平焼き、やきそば、メカジキ西京味噌漬け、サラダ、味噌汁、ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

 

17時半に病院から帰宅した夫は早速食べていた。

自分は昼食べ過ぎなのか、お腹が空かないのでパス。

ツマミと梅酒で〆る事に。

 

歩数計は5416。

充実した1日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オートファジー1859日目と『レイテ戦記』83と畑

2026/10/13火曜日

2時半に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

二十八 地号作戦 昭和20年1月1日〜20日


昭和20年1月1日、東京の元旦は空襲警報で明けた。
大晦日23:20警報発令。
丁度昭和20年に入った24時解除に。
しかし、市民が防空壕で新年の挨拶を取り交わす暇もなく5分後に再び発令、30分で解除になった。
市民は頭上に少数の敵機が通過する音を聞いたように思った。
市民はこの元旦空襲を米軍の嫌がらせと信じた。
が、恐らくこれは、誤報。
迎撃に飛び立った友軍機の爆音。
↑何れにせよ、戦争が無かったら元旦に防空壕に避難するとか無かった。


12/27以来殆ど連日の空襲。
↑民間人に。

12/30には3時36分から約1時間。
↑わいの起きる時間だけど、一般人にはきついやろ。

未明の暗闇の中、防空壕て。
しかも極寒。
東京都民は大変だったな。
鎖国時代の徳川幕府の時の方がええな。

 

米B29が1機で2.8kg焼夷弾240個を投下。
↑民間人にな。


被害地域浅草区の蔵前一、二、三丁目、柳橋一、二丁目、桂町、浅草橋二丁目。
本所区の東両国一、二丁目。
日本橋区の浜町一丁目。
焼失家屋。
全焼196戸(内、軍管理工場津川製作所262坪)、半焼39戸、小火2戸。
被害人員、死者1, 重傷7(内、蔵前署員2)、軽傷5, 罹災者278。
(一色次郎『東京大空襲』に拠る。これは当時ある地方紙の通信員であった著者が区役所の記録から蒐集した数字である)
2.8キロの焼夷弾は集中攻撃用の新式小型油脂焼夷弾。
30数個が1つの弾体に収まり落下音は爆弾に似ている。
空中分解した時、破片がひらひら落ちてくる。
それに気を取られていると本体が地上に到達。

火花を吹いていた。
12/30,被害は下谷区(現台東区)御徒町、黒門町、練塀町、二長町、竹町、浅草区(現台東区)小島町、雷門公園、六区、本所区(現墨田区)吾嬬町一、二丁目、向島一帯に拡がった。
焼失家屋680戸。
他に本郷区(現文京区)湯島四丁目、妻恋町、江戸川区小松川に軽微な被害が認められた。
明けて1/3, 東海、名古屋地区が90機による爆弾と焼夷弾攻撃を受けた。
24時現在で全焼2,211戸、半焼72戸、死者48,重傷85, 罹災者一万人。
浜松に焼夷弾300が投下された。
全焼78, 半焼15。
東海、名古屋地方は12/7の大地震に続く大被害。
↑尚、この地震は報道規制が布かれ内緒にされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
有名な「地震のあとは何をお見舞いしましょうか」のビラが撒かれたのは、この時。その6日後の12/13, 米軍は名古屋に大規模空襲をお見舞い。
報道規制により支援も無く孤立無援となった名古屋市民に大打撃を行った。
名古屋に何の恨み?
中島飛行場や三菱飛行場があったから?
三菱名古屋工場その他主要飛行機製作機能が停止。
サイパン島喪失の効果が漸く現実に。

今日はここまで。

 

5時に起床し畑へ。

まずは芋掘り。

芋の横にモグラの穴?を発見。

どおりで、この株からのさつまいもは小さいのばかり。

モグラのトンネルを利用してネズミが食べに来るからの。

いつものように液肥を施肥したら、6時10分に帰路に。

 

帰宅後、シャワーと洗濯。

朝の家事を済ませたら、自主防災組織の仕事。

防災訓練内容の変更に伴うお仕事に取り掛かり。

その最中、自主防災組織隊員から防災訓練の打ち合わせをしたいとの電話が。

9時半からコミュニティセンターで1時間程打ち合わせ。

ついでにコピーも完了。

帰宅後、パソコン作業の続き。

12時に昨夜以来の食事。

午後も自主防災組織の補助金関係の調べ物。

16時半から夕食作り。

枝豆、大根サラダ、じゃがいもキャベツチーズ玉ねぎ卵焼き、ウォッカ梅酒ロック。

これにご飯と昨日の煮物の残りをプラス。

自分はお昼ご飯をたらふく食べたので全くお腹が空かず。

夕食はパス。

19時に自主防災組織隊員から電話が来たので対応。

問題提起されたので対処する事に。

 

歩数計は5763。

充実した1日だった。

 

 

 

 

 

 

オートファジー1858日目と『レイテ戦記』82と畑

2026/10/12月曜日

3時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 


この日を以て米レイテ島攻略第六軍は其の作戦を終了。
以後の掃討作戦は第八軍の担当に。
(公式には12/26。マッカーサーのレイテ戦終了宣言以後)米第二四軍団(第七、第九六、第七七師団及び第一一空挺師団)がその指揮下に入り、米第一◯軍団(第三二師団、第一騎兵師団及び第二四師団第三四連隊)は東海岸へ戻って、次期作戦に備えて休養させられる。
同日、軍司令官鈴木宗作中将は十四方面軍山下奉文将軍の25日付訓示を受け取った。
これは永久抗戦を命じた21日付電報で予告されていた。

長文の為、セブ経由で別送されたもの。

 

「尚武参電第五九九号警急機密親展、十九年十二月二十五日発。三十一日受付。
第三十五軍司令官に与うる訓示
米ド『レイテ島』に壇寇してより既に六旬、此の間第三十五軍司令官は強烈なる統帥の下に優勢なる敵に対し万難を克服して善戦敢闘、敵に甚大なる損害を与えて、兵力の寡少、装備の劣弱、補給の杜絶にも拘らず、軍司令官自ら陣頭に立ちて果断克く戦機を捕捉、高千穂部隊と協同し、『ブラウエン』航空基地を攻略せるは、本職深く感激せる所なり、今や物量に頼る敵は第三十五軍並に海空部隊の決死敢闘にも拘らず、量溢れて『ルソン』に迫らんとせり、即ち本職情勢の急転に処し、仇敵を『ルソン』に於いて屠り、以て謹しみて軍の健闘に応え、鋒鏑に倒れたる幾多の義烈なる忠霊に対し報ゆる所あらん事を期す、軍需の補給意に任せず『レイテ』島幾万の将兵に対し万斛の涙あるのみ(二字欠)
更に至難なる新任務を課する本職の心境を賢察せよ、夫れ死は易く生は難し、将兵良く隠忍持久、生の難きに耐えかちて、永久抗戦、以て悠久皇運を扶翼し奉ると共に従容として皇国の人柱たれ、右訓示
昭和十九年十二月二十五日
第十四方面軍司令官 山下奉文
通電先 尚
参考 参謀次長、威(総軍)」


鈴木中将はシンガポール勝利の日、山下将軍の参謀長であった。
3年後、フィリピンで一緒に戦うのも何かの因縁。
遽(あわただし)く始められた作戦の裡にあって、会う機会は無かった。
レイテ島では、鈴木中将の統帥には少しも良い所が無く決定的に敗れ去った。
↑米軍は鈴木中将の作戦決行の直前に先手。
偶然や奇跡では無く事前に作戦が漏れているとしか思えん。
更に大本営や総軍の作戦も漏れ漏れ。
だから輸送作戦は尽く失敗。
輸送途中にどれだけの船が撃沈され、兵や軍備が沈められたか。
辛うじて生き残った兵は丸裸で上陸。
味方にスパイが居る中でも大健闘したと思う。

 

それは方面軍にやる気が無く準備補給が十分で無かった為である事を山下大将は認識。
↑山下大将はレイテ島で決戦をやるのは大反対。
レイテ島で決戦をやりたかったのは米軍。

ブラウエン攻略作戦で一時でも飛行場を占拠したことを日本軍は「白星」に数える。
内地の新聞は年が明けても飛行場周辺で激戦中と報道。
山下中将はその1勝を挙げて鈴木中将を労った。
訓示は一応型通り。
「死は易く生は難し」
これは以来、ルソン島は勿論、硫黄島、沖縄で遷延作戦を取った日本軍の司令官が必ず部下に諭したところ。
大本営はこうして南方に於いて時を稼ぎ本土決戦準備に専念。
米軍が本土上陸を試みる好機を捉えて、これに大打撃を与え、それから和平交渉に入るという儚い望みを抱き続けた。
この訓示を発した頃、山下大将はルソン島永久持久の為、マニラ周辺の軍需資材を北西部山地へ移動させた。
マニラ決戦を呼号する第四航空軍司令官富永恭次中将、海軍第三十一根拠地隊司令官岩淵三次少将にマニラ放棄を説得するのに苦心。
↑マニラでやったら大勢の市民が犠牲になるのにな。

 

2日後の12/27, 大将は自ら範を示す為にマニラの水源地イポに移動。
31日には北方山中の抗戦基地バギオに向かい移動中。
常套的な言辞の中に苦衷の色が滲んでいる。
これに対する鈴木中将の返答は伝わらない。
※米B25爆撃機はレイテ島東海岸基地から出撃の陸軍機。
この頃この機が尾翼の両端に垂直翼を持っている事を地上指揮官にも知らせなかった事がこの誤認によってわかる。
B25の尾翼はB17と同じ。
両端に垂直翼を持つのは遠い何処かの基地から飛んでくるB24長距離爆撃機であるとして、士気の維持を図った。

今日はここまで。

 

4時半に起床し畑に行く準備。

5時過ぎに畑へ。

ヘチマの花が元気に咲いていた。

いつものように液肥を施肥したら6時に家路に。

帰宅後、まずは洗濯機を回した。

そして、8時に買い物へ。

帰宅すると孫達が遊びに来ていた。

食材を収納したら、台所仕事。

9時半に終了後、公民館へ。

今日はコミュニティセンターが休み。

それでも今日中に配布したい、訓練変更に関するお便りがある。

そして、裁断機も使用したい。

公民館でコピー出来ると聞いていた。

問い合わせ、裁断機も借りられる事を確認。

11時に帰宅後、コピーし裁断したお便りを仕訳。

昼食の用意を済ませ、12時に昨夜以来の食事を済ませたら、12時半にお便り配付のお散歩へ。

13時に帰宅すると、長女が来ていた。

結婚式の打ち合わせに来た。

15時半過ぎに帰って行った。

17時から夕食の用意。

鶏の味噌漬け焼き、枝豆、イカと里芋の煮物、サラダ、味噌汁、ツマミ、ウォッカ梅酒ロック。

ブログをアップしたら食べる事に。

 

歩数計は9434。

充実した1日だった。

 

 

オートファジー1857日目と『レイテ戦記』81と防災訓練リハーサル

2026/10/11日曜日

1時にトイレに立ったあと、寝かして貰えなかったので1時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

一方、米第六軍も12/31までにその作戦を終了。
騎兵第一師団第五、第一二連隊は23日カナンガ発、真西に進軍。
28日ディブルに到達。
これはビリヤバの南4キロの海岸の村で12/30に五十七連隊が達したホルダンより北に当るが交戦の記録が無い所を見ると、目標を展望する山地に到達後、すぐに引き返した。
米第七連隊は同日その約4キロ北の地点を出発。
この部隊はペニヤ南方で第一師団と接触するなど、活発な行動を示し、29日夕刻ビリヤバ入り。
第一師団の先頭第五十七連隊と交戦。
12/31の大晦日、早朝、米部隊は4度にわたり日本軍から攻撃。
最初の夜襲は未明2時半、最後の攻撃は黎明り
日本軍の総兵力は約500と推定。
それぞれ迫撃砲と重機の射撃を伴った吶喊(とっかん)攻撃であった。
米軍は小火砲の力によって阻止する事が出来た。
日本側に同時的な記録は無いが昭和20年1月5日付「尚参電第八四一号」にある次の記事に当るものと思われる。
「星兵団(六十八旅団)の一部は『ビリヤバ』周辺の敵を攻撃し『ビリヤバ』一七七高地及同南方一四九高地を占領、目下『ビリヤバ』の残敵を掃討中なり」
六十八旅団は12/25, ビリヤバ東方で、転進中の第一師団と遭遇。
12月中はその位置に止まり第一師団の転進を掩護したと信じられていた。
が、米側記録を見ると、第一師団の後を追って西海岸に移動したようである。
12/31の攻撃は恐らく栗栖少将の独断で行ったと推測。
旅団は1/15までこの敵と交戦を繰り返す。
↑正月返上やな。

 

但し12/31以後、米第七連隊は七七師団と交替。
30日、その一部がシラドの東北で第三二師団の一部と連絡して任務を終わりカナンガへ帰る。
米第三二師団は11月16日以来、二四師団と交替。
リモン峠で第一師団と激戦を繰り広げた師団。
その一二七連隊は12/24カブラン北方を出発。
西に向う。
この進路は第一師団の転進路の約4キロ北。
標高は200m内外の、入り組んだ水源地帯。
糧食の空中補給を受けながら崖を攀じ登り谷を渡っての難行軍となった。
12/25、300から400の日本軍と交戦(恐らくは南下中の六十八旅団の一部)
12/29,部隊は西海岸アンチポロ岬を見渡す高地に到達。
ビリヤバの北約4キロ。
12/30, 米第七連隊と連絡するのはこの部隊。
一二八連隊も24日、リモン部落付近を出発。
西進し同じような条件の下に行軍。
12/29, アンチポロの西北4キロのタバンゴ湾、カンポポ湾を見下ろす高地に到達。
この方面は六十八旅団主力が何下した経路に当る。
が、日本兵の姿を見ず、と報告。
レイテ島西北端サン・イシドロ半島の北部の掃討を受け持ったのは、米第二四師団三四連隊。
その第一大隊は12/4以来、ビリラン水道に臨む町カルビアンに駐留。
日本軍六十八旅団と交戦していた。
12/26の23時、米軍は増援第二大隊の二個中隊がカルビアンの西北10キロのビラロンからLVT(大型水陸両用戦車)、LCM(機械化上陸用舟艇)に乗船。
その夜は半島北端のヒガンタンガン島に碇泊。
12/27の朝7時半、タグラウィガン(サン・イシドロの北10キロ)に上陸。
この地区に日本軍集結との情報があった。
海岸には日本兵の姿は無かった。
米F中隊は陸路6キロ南下。
ダハに到達した。
G中隊は再び乗船。
サン・イシドロに向った。
↑工作員による誤変換誘導が頻発。

その為に、先読み、予習、予読までしている。
わいのおかげで朝読書の習慣と教養も身に着け一挙両得✨


船団が湾内に入ると湾を西南から抱く岬と町から機関砲火を浴びた。
船団は正面上陸を諦め、北方の岬に転進。
しかし、海岸は浅くLVTは100-150m沖で泥にのめり込んだ。
LCM乗船の部隊は無事上陸。
LVTの一部は辛うじて離泥に成功。
その一部を上陸させる事が出来た。
しかし、約150名の兵と弾薬を揚陸する事が出来ずそのままヒガンタンガン島に引き返した。
損害1が出た。
まだまだ続くよ、米軍入力✨
12/288時、第一大隊は東から第二大隊は北から町を攻撃。
日本軍の大半は武器を持たず、抵抗は微弱。
戦死55,俘虜1, 他は南方山中に逃げ去った。
12時半、米第一大隊は町を占領。
方面軍ではサン・イシドロを補給基地とする予定で、六十八旅団の他に五十八旅団の一個大隊を乗船させていた。
その一部と船舶工兵が辛うじて揚陸した野砲2門と共に、町を警備していた筈である。
が、米側の記録を見ると、町には負傷者しか残っていなかったと思われる。
米軍は尚付近を掃討。
若干の日本兵を殺害。
ある兵は竹の先に剣を括り付けたものしか持っていなかった。
こうしてレイテ島の日本軍最後の補給基地も喪失。
昭和20年1月1日元旦、米軍は交替の第七七師団三◯五連隊の一部が到着。
三四連隊は東海岸に帰る。
12/29, 米軍の三◯五連隊主力はパロンポン道路コンサピオ方面山地の高階支隊を攻撃。
8時、東北方道路上にあった米第三大隊が攻撃発起。
しかし、10時までに600m進軍した際、巧みに掩蔽された陣地からの防禦銃火により釘付けにされ、終日動けず。
パロンポン方面から東進した第二大隊は「山岳任務部隊」と名付けられていた。
同日12時パロンポン出発。
約6キロ進軍。
サンミゲル東方山麓で夜営した。
12/30, 8時、山岳任務部隊は攻撃発起。
しかし、9時半、サンミゲル東方3キロに差し掛かった時、道路右側の嶮しい崖上の日本軍陣地から激しい機関銃火を浴びて停止。

米軍は道路を俯瞰する台地に登って夜営した。
しかし、米第三大隊の東方よりの攻撃は成功。
前日頑強に抵抗した日本軍陣地は比較的容易に突破。
ティポロの西南900mに差し掛かった時(これは高階支隊25日付電報でカンブトイと呼ばれている地点)日本軍は野砲を道路屈道路屈折部に配置。

零距離で撃ってきた。
戦車1が擱座させられた。
が、米軍は夕方迄に日本軍の砲兵陣地を奪取する事が出来た。
↑75ミリ野砲。新兵器の威力凄いね。


3門を破壊し2門を鹵獲。
12/31の12:15, 東西両軍はサンミゲル東北方4キロの地点で連絡。
12/21から31日に及ぶパロンポン道路上の戦いで、七七師団は5,779の日本兵を殺害。
俘虜29を獲たと称する(是迄の例から見てこの師団の報告は著しく誇張されている。三分の一に減らして良いであろう)
米軍の損害は戦死17,負傷116,行方不明6。
これはレイテ島における日本軍の組織的抵抗の終焉。
高階支隊の残兵は本部と共に東北方に退却した模様。
以来一週間カンギポットの軍司令部との連絡はつかない。

今日はここまで。

 

 

4時に起床し、朝の家事。

洗濯機を廻している間に昼の用意。

砂肝の唐揚げ、チューリップ、目玉焼き、ソーセージ、キャベツの千切り。

7時から防災訓練リハーサルの準備。

8時45分に集合場所のコミュニティセンターへ。

出欠を取り、装備を確認。

修正事項を伝えたあと、トランシーバーの動作確認。

9時半からは放送確認訓練。

この際、自分が所持しているトランシーバ3種のうち、近距離トランシーバ2機種に関しては問題なく使えた。

が、一番高額で経費も掛かっているデジタル簡易無線で異変が。

電源をオンにしチャンネルとユーザーコードも設定してあるのに無音(笑)

携帯電話で近場のデジ簡所持者に確認すると、自分以外のメンバーは全員聞こえているんだそう。

隊長のデジ簡だけ無音。

しゃーないから、その近場の隊員に他の隊員とのやりとりを依頼。

その隊員に、本来自分が送信すべき一斉送信も依頼。

そして、もう一人の近場の隊員にデジ簡を貸してもらい、自分が所持している2つの近距離トランシーバーのうち一つを渡し、その隊員とは近距離トランシーバーで交信。

その貸してもらったデジ簡も、自分が交信しようとしたら出来なかった。

無音状態に陥った。

その貸して貰った隊員によると、それまで、他の隊員の音声は聞こえていたそう。

自分が持った瞬間、デジ簡は無音に。

誰か見てる奴が操作しとる(笑)

ま、想定内。

本部には無用の長物と化した3万円のデジタル簡易無線✕2台が陳列されていた。

うち1台はアンテナも3千円で追加購入したばかりやで。

スマホを併用し何とか、訓練を終えた。

この、訓練を終えた瞬間、自分のデジ簡から音声が聞こえ始めた。

電源はずーっとオンにしていたからの。

しかも、全然関係ない外部の人。

いきなりコールサイン◯☓△とか言い出した。

で、試しに送信すると、いきなり、自分の声がマイクを使用したかのように響き渡り、交信可能に。

東日本大震災時に携帯電波局がダウンした際、無線が活躍した、と聞いたが、今日の訓練では、無線は活躍しなかった。

恐らく誰かが何かを操作。

そうでないと、訓練終わった瞬間に、交信可能になるとか。

設定も何も変えていないのに。

机に放置していただけで音が聞こえるようになるとか、意味わからんやろ。

毎年、登録者変更手続きや使用料で6千円支払い、先日は再登録手続きで2300円支払ったが。

今日のリハーサルで、本番の訓練に支障を来さないよう、態勢を変える事に。

その後も、前例の無い異変が。

非常ベルを鳴らし、その後の復旧が上手く行かないケースが続出。

手順書を渡してあって、それに従ってやっている。

それなのに、消火栓の上部が点滅したまま。

調べると、消火栓の上部が点滅したまま=ポンプ室のポンプが停止していない事。

手順書通りにやって、消火栓上部が点滅て、あり得ないのたが、4棟でその状態に。

多過ぎる。

急遽、数年前まで防災訓練の中心人物だった方に来て頂きレクチャーを依頼。

非常ベルの復旧手順について説明して頂いた。

その間、他の訓練のリハーサルを続行。

そのあとはスムーズに進行。

何とか11時半に終了した。

後片付けを終え12時過ぎに帰宅後、夫と昨夜以来の食事。

長男と孫達は体調不良で来なかったンだそう。

そういえば、昨日、鼻水と咳してた。

 

午後、リハーサルの結果を鑑み、訓練内容の変更を検討、協議するメールを配信。

過去に同様のアクシデントが発生し訓練内容を変更した事例がある。

それを参考に変更する事に。

その最中、警備会社からポンプ室のポンプ警報が鳴っているので駆けつける、との電話が。

自分も現場に直行。

2カ所でサイレンが点滅していた。

程なく警備会社とマンション管理会社管理員も到着。

それに伴い、訓練内容変更ポスターを作成。

その案も、加筆修正依頼をメール。

何せ一週間後なので急を要する。

印刷は済ませたので、承認待ち。

 

夕食は残り物で済ませる事に。

 

歩数計は5807。

充実した1日だった。