arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1790日目と『レイテ戦記』⑭と畑

2026/8/5水曜日 明日は広島原爆の日。

3時に覚醒し熊本地震最新情報をチェック。

3時20分から読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

当時、オルモック=バイバイ間の国道は未舗装の牛馬道。

アブヨグ=バイバイ道はレイテ島西南部とタクロバンを結ぶ為のもの。

カモテス海沿岸道路はバイバイ以南しか整備されていなかった。

しかもその牛馬道はダムラアンにある米155ミリ曲射砲の火制下にあった。

十三連隊は山脚地帯に入ってアルブエラ東南の一八五高地(六◯六高地)に集結した。

これは12/7、一◯七高地を占領した米一七連隊G中隊が六◯六高地から砲撃を受けたという記事とも一致。

但し米軍の記録には日本軍の火砲鹵獲の記事は無い。

野砲隊も後退して六◯六高地に集結したと思われる。

これらは到底一個師団を支え得る戦力では無い。

それはやがてオルモックに上陸予定の三十師団七十七連隊が担当する予定だった。

しかし、同日の米軍上陸により連隊はパロンポンへ上陸。

この戦場へは来なかった。

12/9夜、アルブエラ東北の野砲道で独歩十一連隊第八中隊の重松中尉が戦死。

中隊主力。タリサヤン南岸高地に後退せしめ、約一個分隊(小林兵長、野々垣上等兵など、軽機、擲弾筒1の約10名)を指揮し野砲道を警戒中、10:30, 山から降りてきた約300の米兵と交戦。

その50名に損傷を与えた。

が、多くの部下と共に戦死した。

この米部隊は恐らく一七連隊の最右翼第三大隊の一部。

12/7, カン・カイントを迂回したのと同じ戦法により山脚地帯から日本軍陣地の側面を攻撃した。

12/10, 十一連隊第二大隊長大川鼎大尉はタリヤサン川南方高地に残存兵力を結集。

最後の決戦を試みる。

既に兵力は100に減少。

右翼高地脚に第五中隊、中腹に第二機関銃中隊、頂上に第七、第八中隊が陣地を構築。

12時過ぎ、第八、第七中隊が米一七連隊第三大隊を攻撃。

続いて右翼第五中隊が機関銃掩護の下に、米一八四連隊を攻撃。

午後、大川大尉は大隊本部の残兵と共に敵陣に斬り込んで戦死。

同じ頃、第二機関銃中隊長篠永勝行中尉以下も斬り込んだ。

同日夕方までに高地は米軍の手に落ち、独歩十一連隊第二大隊は全滅。

「十三名の兵は夕霧と共にタリヤサン上流に姿を消した」と連隊の戦記『いづみ』は表現する。

しかし、ダムラアンの戦いが始まった頃からずっとマリトボにあった師団兵器勤務隊(これは各種兵器の修理を行う技術部隊であるが、師団の数少ないトラックを持っていた関係で食糧弾薬の輸送を受け持たされていた)は、タリヤサン川南岸高地の「死守」を命ぜられ、15日まで頑張ったと言う。

↑兵器の修理を行う技術部隊にも「死守」命令出るのな。

死守て死ぬまで守る事。

撤退が許されない。

残酷な命令よ。

 

16日、山森曹長は功績簿を携えてタリヤサン上流を目指した。

約5キロ遡って河原がやや広くなった所に二十六師団司令部他約600名の兵を発見。

12/7の米軍オルモック上陸によりブラウエン作戦は中止。

師団は山中の道を引き返しここに集結していた。

[注1]ダムラアン方面に二十六師団主力の進出を命令した事実は友近少将の『軍参謀長の手記』でも「三十五軍の作戦記録」でも伏せられた。

斎藤支隊を派遣しただけになっている。

恐らく師団をブラウエン作戦に使用しなかった事を隠蔽する為。

そして、斎藤大佐の作戦用兵に不当な非難が加えられるのである。

 

二十一 ブラウエンの戦い 12/6-7

「和号作戦」実施の命令を受けた三十五軍が戦闘司令所をブラウエン方面の山間の部落ルビに推進する為、オルモックを出たのは12/1夕刻。

4キロ南下してイピルに1泊。

同日、マリトボにあった二十六師団も行動発起。

脊梁山脈へ分け入った。

独歩第十二連隊第二大隊(井上万寿郎少佐)はまだダムラアン方面から帰着せず。

司令部だけの行軍であった。

オルモックの軍司令部には友近参謀副長、岡林諄吉参謀が残った。

司令官鈴木宗作中将、参謀長和知鷹二中将、中村貢高級参謀、大曾根義彦作戦主任参謀以下、12/20米軍上陸当時とは比較にならないほど強化された軍司令部を挙げて、マリトボ=ブラウエン中間の山間の部落ルビまで戦闘司令所を前進させる計画であった。

カモテス海沿いに北上する米第七師団主力の防禦には斎藤支隊を残し、主力は敵とすれ違いに前進。

これは側敵行進と言って最も危険な作戦。

しかし頽勢蔽うべくもないレイテ島上の決戦の主導権を奪い返そうと言う乾坤一擲の奇襲作戦。

鈴木司令官自ら陣頭に立った。

しかし、二十六師団の実質は二個大隊。

先遣重松大隊は既に半月山中にあり戦力を消耗。

↑重松大隊を目撃した者の証言で重松大隊の将兵は補給が途絶え飢えて目ばかりが白く光っていた、とあった。

レイテ島戦記

https://tamatumaru.tiyogami.com/007.html

 

レイテ島戦記自費出版

http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/jihi1.html

 

井上大隊はダムラアン方面で散々叩かれた欠損部隊。

砲を持たない弱体。

↑日本軍が補給しないから。

 

斬込み程度の効果しか発揮出来そうも無い。

大げさとも言える力の入れようであった。

しかし、鈴木中将は山下大将のマレー作戦当時の参謀長で因縁浅からぬ間柄である。

方面軍がレイテ作戦に乗り気でないのはわかっていた。

それなのにこのような果敢な作戦を指示して来たのである。

幕僚達は批判的であり、鈴木中将の慎重な性格としてオルモック自身の危険は感じている。

しかし、三十五軍は米軍上陸以来これまでどこでも勝っていない。

申し訳ないという気持ちが常にあった。

なので、この新作戦を是非とも成功させたいと言う一念に繋がっていた。

自ら陣頭に立たなければ気乗り薄の幕僚を動かす事が出来ない。

老躯に鞭打って前線近く戦闘司令所を進めようとしたのであった。

第四航空軍の降下作戦が「天号作戦」、それに呼応する十四方面軍の地上作戦が「和号作戦」である。

11/23、マニラで決定された作戦実施要領は既に十九章に紹介。

念の為に繰り返すと次のようになる(『レイテ戦史』による)

一、決行日時 十二月五日以後、止むを得ざるも十日以前。

二、空軍の攻撃

1、十一月二十三日ー十一月二十七日、航空撃滅戦。

2、十一月二十六日、義号降下斬込み。

3、十二月一日ー十二月三日、航空撃滅戦。

4、決行前日 空梯降下。

三、海軍 十二月四日ー十二月七日『カリガラ』湾及び『オルモック』湾方面地上戦闘に協力。

四、地上軍

1、十二月三日、泉(二十六師団)攻撃準備完了。

2、前日、地上義号隊、遊撃隊、斬込隊の斬込み。

3、泉攻撃開始、

泉 南「ブラウエン」「サンパブロ」

垣(十六師団)北『ブラウエン』

相言葉 撃滅。

今日はここまで。

 

 

4時半に起床し5時に畑へ。

野菜を収穫し、いつものように、液肥を施肥したら5時半に帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

そして、パン生地の仕込み。

ここのところ、連日の暑さで、パンの発酵が簡単。

機械を使用せずとも2時間前後でいい感じで発酵される。

今日はチーズナン、ハムチーズパン、アンパン。

 

9時半から読書を楽しんだら、11時半に昨夜以来の食事の用意。

自分は納豆ご飯とスープメインでお腹を満たした。

午後も読書。

15時に自主防災組織の仕事。

この組織の屋台骨を作って下さった方々と会合。

防災訓練の、特に放水訓練のやり方について教えて頂いた。

 

帰宅後、夕食作り。

チーズナン、ハムチーズパン、アンパン、枝豆、ゴーヤサラダ、真ホッケと大根おろし、ウォッカ梅酒ロック。

これに玄米ご飯とスープをプラス。

 

歩数計は5885。

充実した一日だった。

オートファジー1789日目と『レイテ戦記』⑬と畑

2026/8/4火曜日

3時に覚醒し地震情報をチェック。

3時20分から読書と調べ物。

昨日に引き続き大岡昇平著『レイテ戦記』


この間にパラナス川上流のカン・ダギッにあった一七連隊の第三大隊は尚水源地帯に向かって登攀続行。
14時、約50名の日本兵を左岸の円形劇場のような形をした窪地に見つけた。
長距離小銃と機関銃火を浴びせた後、K中隊が右側から攻撃。
これを四散させた。
米側の損害は皆無。
日本兵は恐らく米軍がこんなに山中深く入って来るとは思って居なかった。
不意を衝かれた。
この日本兵は九一八高地からの撤収部隊。
或いはダムラアンの戦線から離脱した遊兵であったか、確かめる手段は無い。
米大隊はパラナス川を渡りカン・カイント部落で夜営した。
ここは海岸から3キロ半、パラナス川とタブガス川を分ける稜線上の要点。
19:07, 日本軍の砲弾8発が大隊陣地に着弾。
戦死7, 負傷18。
師団の先鋒はこの後尚、独歩十一連隊の巧妙な退却戦になやまされ、8日アルブエラ、9日グンガブにあり、目標のタリヤサン川の線に到達したのは10日。
しかし、その日には米軍の先鋒はオルモックの町に入っており、日本軍の西海岸の防衛は崩壊していた。
カモテス海沿岸北上部隊の戦闘は重要性を失うので以後、米公刊戦史は第七師団各連隊の戦闘報告を転載しない。
僅かに挿画(第22図参照)にその戦線の移動を記しているだけである。

 

 


この挿画は三二連隊の戦闘詳報作成班の絵心のある兵士が描いたもの。
オルモック湾沿岸の山容の印象的な絵画的表現である。
珍しい記録なので米公刊戦史挿入のものを転写(中村宏氏写。原図の誤記を訂正。)
米軍に新手一個師団をオルモックに上陸させて、一挙に戦局を覆す余力があった以上、ダムラアンの戦いは勝っても負けても結果は似たようなもの。
この意味では無償の戦いであった。

11/23の状況では第七師団の三二連隊は長い不完全な補給線の先の孤立した弱敵。
例えば単調な攻撃を繰り返す代わりに主力を結集しダムラアンの砲兵陣地を襲い、後方を遮断すれば、一泡吹かせる事が出来たかも知れない、と今日では考える事が出来る。
しかし、友近少将のように斎藤大佐の用兵の拙を非難するのは多分当たっていない。
師団の受けていた命令は「カリダード方面に撃攘」で「撃滅」では無かった。
戦闘の後にも兵力を温存して、オルモック南方の防禦に任じなければならなかった。
中途半端な命令を出した軍に責任がある。
一体、「和号作戦」発令までの三十五軍の動きには、その日暮しの傾向が見られる。
和知参謀長赴任と同時に、ブラウエン飛行場制圧の指令を受けながら、二十六師団の主力をダムラアンに使用しているのもその一つである。
オルモックは既に廃墟と化し、輸送船団は次々と湾内で撃沈されるという有様。
既に戦局全体は敗形を表している。
積極的な作戦を立てようも無かった。
11/20頃、第一師団に「マナガスナスの敵を海上に排齋撃滅」、二十六師団に「カリダードに撃攘」の命令が同時に出ているのは偶然と言うには余りにも良いタイミングである。
マリトボに二十六師団を見舞った加登川参謀はニューギニアで米軍と戦った経験があった。
第二方面軍での地位は作戦主任であった。
方面軍は課長制。
これは補佐的ポスト。
階層としては軍の作戦主任と同じ。
三十五軍転属の辞令を受けた時、軍の作戦主任が戦死した為の補充と思った。
空路マニラに着き武藤中将に申告。
武藤中将「レイテに行ってもやる事は無い。マニラでゴロゴロしてろ」と言われた。
第四航空軍へ行ってみると、ブラウエンを潰すんだ、レイテ島では必ず勝つ、と言っている。
地上部隊も協力してくれと言う。
が、赴任後、オルモックの状況を見てブラウエン攻略など思いも寄らないと考えた。
ブラウエンは航空軍に任せれば良い。
第一、オルモックは既に補給基地としての機能を喪失。
軍はむしろ司令部をリボンガオ辺りまで北上させ、第一師団司令部と一緒になるべきだ。
新しい補給地を西海岸のパロンポン、サン・イシドロ方面に開拓した方が良いと意見具申したと言う。
これは当時の第一師団の状況から見ても最も現実的か意見である。(パロンポン方面基地開拓は奇妙にも12/5の師団の意見具申と一致している。)
そして具申は鈴木軍司令官の決裁を得た、と加登川参謀は言っている。

ただ幕僚はなかなか実行に移す気配無し。
そのうち二十六師団の様子を見てきてくれと頼まれた。

これは作戦参謀としての使い方では無い。軍の大曾根作戦主任にとって加登川参謀は煙たい存在なので体良く前線に追い払った。(「和号作戦」決定と共に呼び戻されるが新任務はダガミの十六師団への連絡)

加登川参謀がマリトボに居る間に友近参謀副長はピナ山に出張。
これは戦闘司令所を推進する為の陣地偵察。
軍はまだカリガラ平野決戦の計画を持っている。
↑平野決戦は火器に乏しい日本軍不利。
餌食になるだけや。

 

しかし、加登川参謀の意見具申が軍司令官に受け入れられたこと、同時に2つの前線に攻撃命令が出た事を考え合わせれば軍の真意はオルモック渓谷の防衛という消極的なものではなかったかと疑わせる。
作戦の主軸をブラウエンへ指向と言う方面軍の作戦遂行の為、和知参謀長が新たに赴任。
それなのにカリガラ作戦に固執。
参謀副長自ら出張するのは三十五軍のこれまでの官僚的なやり方と矛盾。

兎に角、オルモック渓谷を確保しなければならない。
いざとなればピナ山へ籠城との気持ちではなかったかと思う。
23日、「和号作戦」決定の報を得てからの参謀の遽しい動きはそれが如何に意外の決定で会ったかを示す。
このように解釈すれば、11/10以後の軍の動きは最も良く理解される。
ピナ山、ラアオ山に膏薬みたいに部隊をベタベタ貼り付けた処置とも一致。

そうするとオルモックを中心とした内線作戦になる。
その場合の定石は戦線の諸方に出現する敵の各個撃破でなければならない。
それを間に合わせの分散防禦の配置をしたから敵の兵力増加によって前線は崩壊。
作戦の中心に逆上陸され一挙に覆された。
強力な兵力集中を実施する機動力も無かったので各個撃破も出来はしなかった。
漫然たる求心的配置をして崩壊へ押されて行ったのは無策と言われても仕方が無い。
↑第一線の兵士が可哀想。

 

『レイテ戦史』12/8の項にはタリヤサン方面関係記事として次の記載がある。
「一、泉(二十六師団)戦闘司令所は『マリトボ』(『アルベエラ』北二粁)に在り。(これは誤り。師団主力はブラウエン方面の山中にあった。斎藤支隊の戦闘指揮所でなければならない。)
二、『アルベエラ』附近には歩兵一中隊、野砲四門、山砲三門、工兵三中隊計四◯◯名あり。
三、斎藤支隊(一大半/13is、砲一門、七◯◯名)は『パラナス』河北岸及び二八◯高地(九一八高地)、『アルベエラ』東南方五粁を確保して『ダムラアン』方面の敵に対しあり」
斎藤大佐は独歩十三連隊長だからどうしても自分の兵隊が可愛い。
苦しい正面を俺達が持たされた、と十一連隊の兵士は言っている。 

↑日本軍の砲門の少なさよ…。

砲弾数も少ないと推測。

戊辰戦争(1868年)の時から変わってないやん。

上陸前に船ごと撃沈されたからしゃーないんだろうけど。

こんな装備で戦わされる兵隊が可哀想。

今日はここまで。

 

4時45分に畑へ。

野菜を収穫したら、いつものように液肥を施肥。

5時半に帰路に。

帰宅後、朝の家事。

久しぶりにパン作り。

夫に大好評だった。

9時から自主防災組織の仕事。

引き継いだの資料をチェック。

10月の防災訓練に向けて少しずつ準備する事に。

10時半から読書。

中島成子女史の伝記を熟読。

また、泣けた。

こんなに感動する偉業を次々と成し遂げているのに、教科書で取り上げられていない。

それはしゃーないとして、彼女に関する本を検索しても2冊しか出て来ない。

ま、2冊あるだけでもありがたい。

12時に昨夜以来の食事。

自分は納豆ご飯とビーツスープでお腹を満たした。

夫には冷たい蕎麦を用意。

喜んで食べていた。

午後も読書と調べ物。

今度は李秀蘭に泣けた。

この人も検索しても本が出て来ない。

が、28歳にして1500の兵を率いる李旅団長で、大きな影響力を持っている。

それでいて、ちっこいけど偉大な中島成子に対する忠誠心が半端なくて泣けた。

16時から熊本の被災情報をチェック。

氷川町の被害が甚大だと知った。

高齢者は携帯も使用しないのでSOSの発信も出来ないし、支援情報の受信も出来なかったりする。

避難所に行く足も無かったりすると、避難所に集まる支援物資を受け取りに行く事も難しい。

ご近所さんで助け合えれば良いが…。

地震から一週間。

水や食糧は足りているのか気になる所だ。

 

17時から夕食作り。

鮭ハラスと大根おろし、ゴーヤ炒め、ゴーヤサラダ、ウォッカ梅酒ロック。

これに玄米ご飯とビーツスープをプラス。

ブログをアップしたら食べる事に。

 

歩数計は4324。

充実した一日だった。

 

 

 

 

オートファジー1788日目と『レイテ戦記』⑫と畑

2026/8/3月曜日

1時半に覚醒後眠れなくなったので、まずは熊本地震情報をチェック。

車中泊の女性がガソリンが切れて熱中症で死亡のニュースを知り、心が痛んだ。

せめて、余震が無ければ良いのに。

2時20分から読書。

昨日に引き続き大岡昇平著『レイテ戦記』

 


15時、C中隊の左側は日本の小部隊の反撃を受けた(独歩十三連隊の一部)。
後方に居たD中隊の機関銃6基がこの攻撃を却けた。
米第一大隊は夜営の為に三八◯高地の中腹に壕を掘削。
米最右翼一七連隊第二大隊は8時から九一八高地を攻撃。
第四九野砲大隊は煙幕弾を射ち込み歩兵の進撃を掩護。
11時、E中隊は一つの突端に到達。
斥候がパラナス川に降りる山道を見つけて来た。
E中隊が山道を降りる間にG中隊は更に頂上に向う鞍状の尾根を激しい砲火を冒して登り続けた。
17:15迄に米第二大隊主力はパラナス川の河床に降り、第一大隊と連繫する為に左方に移動。
川の北岸の厚い竹藪の中に日本軍陣地があり、移動する大隊に銃火を浴びせた。
しかし、損害は殆ど無し。
第二大隊の左側は第一大隊と接触。
夜営の準備に掛かった。
第一、第二大隊はパラナス川の河床に一線を形成した。
この間に一七連隊の米第三大隊は別働隊となってパラナス川を遡り、上流の部落カン・ダギッとカン・カイントを目指した。
そこから西に転じ、三八◯高地を東から攻撃する計画。
しかし、70〜100ヤードの深い涸れ谷に妨げられ、部隊の前進は捗らなかった。
L中隊を先頭に二中隊梯団となって夕方までにカン・ダギッに到達。
夜営した。
この日『レイテ戦史』はブラウエン飛行場の高千穂降下隊の戦果を語るに忙しく、ダムラアン方面の戦局を記録していない。
ダムラアン、ブラウエン間は直線距離にして25キロしかない。
6日黎明、オルモックからアルブエラに到る海岸に居る日本兵は突然鳴り始めた高射砲の音と共に脊梁山脈の上の空にサーチライトの光芒が交錯。

激しい砲声が響くのを聞いた。

兵士達は「和号作戦」の全貌を知らされて居なかった。
が、兎に角友軍が山越えに何かやってる、ということはわかった。
この日カモテス沿岸のバロゴから三八◯高地に到る線で柔軟な退却戦を行ったのは主として独歩十一連隊第二大隊の兵士。
自分達がこの敵を食い止めていれば戦局に転換が起こり、強力な援軍が到着して眼前の敵をやっつけてくれると信じ、希望に燃えて戦った。
↑これ、入力中、久しぶりに顔面に電磁波ピリビリ攻撃。


米側の記録は「6日から7日へかけての夜、異状なし」と伝える。
米第二大隊は再び撤退命令を受け夜のうちにタブガス川の南岸の小高地「一本木高地」に撤退。

12/7払暁、カモテス海沿岸を防備していた日本兵はオルモック湾が艦船で蔽われているのを視認。
遂に連合艦隊が来てくれたか、と歓喜の声を挙げた。
やがてオルモック方面に砲声が。
海上がだんだん明るくなるに連れ連合艦隊だとばかり思っていた各艦艇が星条旗を掲げているのを見た。
海上20キロ、ポンソン島との間に駆逐艦がピケラインを張っているのが見えた。
特攻機がその中に突入し火柱が上るのが見えた。
しかし、湾全体に拡がった艦隊を全滅させる事が出来るとは思わない。
「やられた」という虚脱感が将兵を捉える。
7日以後、カモテス海沿岸の戦いは絶望の戦いとなる。
9:13, 米軍の左翼一八四連隊は三大隊併進で国道に沿って前進開始。
抵抗は軽微。
16:43までにタブガス川を見下ろす高地に到達。

右翼一七連隊は第一大隊を左に第二大隊を右に、山脚地帯を進撃。

三八◯高地を確保。
北方2キロの六◯六高地の一部を攻略する事を命令された。
第三大隊は更にパラナス川を遡上。 
東北3キロのカン・カイントを占拠。
三八◯高地を東方から攻撃するか北方六◯六高地に向うか、後命を待つべきであった。
黎明、一七連隊の各隊は斥候を出した。
左翼第一大隊の斥候は150ヤード前方に重機1, 軽機2, 擲弾筒2を持つ、強力な日本軍陣地を発見。
大隊は迫撃砲撃を加えた後、9時、進撃開始。
時々遠距離砲弾が戦列に落ち、C中隊の左側は軽火器の攻撃を受けたが、進撃は捗った。
日本軍の重機は射ってこなかった。
これは独歩十一連隊第二機関銃中隊の陣地だったが、前田辰男中尉は迫撃砲弾により顔面負傷。
重機は破壊されなかったが後方陣地に下っていた。
↑前田辰男中尉。
早稲田大学の戦没者名簿にあった。
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0

 

米第一大隊は進撃続行。
C中隊の正面にはナイフのような瘤地が、B中隊の正面には馬蹄形の二重の稜線が。
B中隊は容易にこの稜線を越えることが出来た。
が、C中隊は機銃と小銃の射撃を受け辛うじてナイフ高地が馬蹄形稜線に接する部分を越えてその北側の稜線でC中隊と連絡する事が出来た。
そこは三八◯高地から流れて来る最も北の尾根であった。
16時半、気管支を持つ日本の小部隊が第一大隊の左側及び一八四連隊第三大隊の右側を襲った(独歩十一連隊第二大隊第七中隊の攻撃)
第一大隊は最初少し後退を余儀なくされた。
が、間もなく失地を恢復。
一八四連隊第三大隊はその陣地を守った。
諸隊は稜線上に夜営の為に壕を掘削。
三八◯高地攻略を受け持った一七連隊第二大隊は払暁、攻撃前進を開始。
先頭E中隊は高地から流れる3つの尾根の一つに取り付き、それから右方の中央尾根に向かって前進。
防禦銃火は次第に激しさを加えて来た。
中隊の軽機分隊及び重機二個小隊が前進。
中央尾根に射撃。
日本軍の銃火は熄んだ。
この間にG, F中隊は第一の尾根に到達。
命令は高地を東から大きく迂回。
東方から奇襲攻撃せよ、というもの。
9時半までにG中隊は高地南斜面の突端の下に忍び寄った。
それから高いコゴン草に蔽われた急斜面を東から登り出した。
12時、第四九野砲大隊が5分間の準備射撃。
それから歩兵が攻撃。
日本兵は不意を衝かれ多くの戦死者を残し東北方へ退却。
日本軍は三八◯高地がタブガス河谷と六◯六高地の要に当る事を認識。
六◯六高地から撃ち出す遠距離砲撃が絶えずG中隊の上に落ちた。
同時に高地のすぐ左側から小銃射撃が来た。
13:55, 激しい擲弾筒射撃後、約50名の日本兵がG中隊陣地に攻撃(独歩十一連隊第七中隊である)
米軍は小銃と自動火器で反撃。
日本兵を押し返した。
G中隊は頂上を占拠したとは言え左翼E中隊の前進を掩護し得る位置に居なかった。

日本兵はE中隊の前方の反対斜面に掩体を掘削。
白兵戦闘による他、それを排除する手段は無かった。
米第二大隊長はF中隊に主稜線から降り東方からこの日本軍陣地を攻撃する事を命じた。
F中隊が稜線を降り始めると、忽ち北及び西から激しい銃撃を受けた。
損害は大きかった。
数分の間に歩兵兵力は一個小隊に減じてしまった。
中隊長はG中隊から一個小隊の補充を受け60ミリ迫撃砲、81ミリ重迫撃砲100発の掩護射撃の下に攻撃を再開。
攻撃は成功。
日本軍は全滅。
F中隊はそれから主稜線に登攀。
周囲を掃討。

今日はここまで。

今年も終戦の8月を迎えた。

一日一日噛み締めて、読書していきたい。

 

4時過ぎに起床し5時に畑へ。

野菜を収穫したらいつものように液肥を施肥。

その際、デカい芋虫を発見。

丁重に退場頂いた。

6時45分に帰宅後、朝の家事。

9時過ぎに買い物へ。

11時から読書。

中島成子女史の伝記を熟読。

良人が11時45分に食べたいと言うので、対応。

自分はご飯が炊き上がる12時から。

で、食事の最中に夫が絡んできたのて切り上げ。

多分脳みそハッキングされているか、悪魔に憑依されている。

喧嘩したくてしたくてしようがない。

が、皿を洗い、自室に引き上げた。

自室に引き上げればこっちのもの。

再び読書開始。

恐らく、読書をやめさせたくてあの手この手。

今日はエセ蝉まで動員していた。

窓を閉め切って読書していると、今度は電子レンジ攻撃。

体が熱くなって来た。

熱中症にしようとしている?

15時から夕食作りで台所へ。

鰯の刺身、茹でとうもろこし、ゴーヤツナサラダ。

これに玄米ご飯とビーツスープとウォッカ梅酒ロックをプラス。

19時に食べる事に。

 

歩数計は6276。

充実した一日だった。

 

 

 

オートファジー1787日目と『レイテ戦記』⑪と自治会役員会

2026/8/2日曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

日本軍は直ちにこの好機を捉え2つの大隊の間に楔を打ち込んで来た。

↑入力中、腹にいつもの電磁波攻撃。地味に痛いやつ。
趣味特技仕事が攻撃の犯人がどうにかして寝っ転がらせようと画策。
スマホの入力をリアルタイムで見てるから、言い当てられて悔しいと頭に攻撃するのもいつものパターン。

お次は足の甲に元寇まがいの針で刺すような攻撃をする事多し。いつも先に手を出すのはそっちなのにね。宣言布告も無しに。

 

擲弾筒と機関銃を持つ約一個中隊が進出。
日本兵は間隙を完全に突破しはしなかった。
が、日本軍は米第一大隊が更に前進を続行するなら大きな損害を与え得るような拠点を占めた。
B中隊第一小隊とA中隊第三小隊はまだ前方稜線に取り付いたまま。

↑入力中、敵から緊急ウンコ指令。
トイレに急行決定!


完全に本隊と分離された。
A中隊の予備小隊が第一大隊の右側を擁護する為迂回行動を試みた。
が、これも間隙にいる日本兵に阻止された。
C中隊が前進。
A中隊の背後を擁護。
先頭小隊は退却。
辛うじて大隊の戦線に収容された。
夜暗に乗じ、第一大隊は隊伍を整え、最初取り付いた陣地に帰陣。
我が方のこの方面の諸隊からの生存者は13名。
他にタリヤサンにあった兵器勤務隊から1名、の計14名のみ。
その為、その状況にはわからない点が多い。
ただ米軍側の記録が詳細を極めている(対戦した日本軍の戦力を誇張して、進撃の遅延を糊塗する意図が見られるにしても)この局地戦が細部に到るまで判明しているのは驚異✨

↑この間にも緊急ウンコ集結からのウンコ指令発令によりトイレ急行するも寸止めされる。敵はウンコ好き🩵
読書は捗っている。

 

蒙疆(もうきょう 内モンゴル)に残留した第二十六師団の将校は戦闘経過を読むとこんな風にやったのはきっと彼奴に違いない、とその指揮を取った下士官の氏名、風貌まで思い浮かべる事が出来る、と言っている。

↑さっき、元寇まがいの足の甲に針で刺すような攻撃て言ったら、今度は手の指に針で刺すような攻撃。場所が変わっただけ。相変わらず趣味特技仕事が攻撃。

 

 

12/5早朝、米軍の右翼第二大隊はE中隊を右にG中隊を左に、ダムラアンの町の南を流れるバカン川を遡った。
E中隊は右岸を東行約1000ヤード、それから進路を東北に転じて九一八高地を目指した。

↑今度は尻に攻撃。トイレに居るから、尻出してるから攻撃しやすい(笑)

 

中隊はまず、高地西南の小瘤地を攻略しなければならなかった。
頂上には丈の低いバナナが密生。
日本兵が居る可能性があったからである。
果たして少数の日本兵が居たのでそれを排除。
隊形を整えて13時、いよいよ九一八高地を攀じ始めた。
中隊が稜線上の作戦的な重要な隆起部に達した時、擲弾筒と少なくとも軽機3による攻撃を受けた。
日本軍の銃火は隆起部を掃射。
米軍はその向こう側に進出不可能であった。
この間、左翼G中隊はE中隊の左に進出。
高地頂上の西、出発地点から1200ヤードの位置にある小瘤地を占拠。
すると尖兵小隊はその左前方の谷の上方から自動火器による攻撃を受け始めた。
中隊主力は瘤地を右に迂回しようとしたが今度は別の谷から銃撃された。
辺りは一面に高いコゴン草で蔽われ視界は殆ど無し。
G中隊はその左方に連隊左翼第一線の第一大隊のA中隊と接触を保ちつつ前進。
13時、日本兵の反撃を受けた。
前に書いた通り、この時A中隊の混乱によりG中隊との間に間隙が出来ていた。
G中隊の重機小隊が間隙を埋め日本兵の進出を食い止めた。
G中隊の正面は日本軍の砲火。
釘付けにされた。
予備F中隊が間隙に投入された。
その任務はE中隊の線に進出。
九一八高地を奪取。
西に転じ第一大隊A中隊の正面の敵の抵抗を排除。
一四一五、中隊は前進を開始。
無事E中隊の第一線に到達。
高地頂上から3つの尾根が流れて来ていた。
E中隊の取り付いた尾根は西南に走りF中隊の取り付いたそれはその西。
そして、第三の尾根は北西に向かっていた。
2つの中隊が並進を開始すると、それぞれ50発の擲弾筒射撃を受けた。
砲火を冒して前進。
尾根の突端に取り付くと今度は北西に走る第三の尾根から自動火器と小銃の射撃が来た。
F中隊の左側はコゴンの草原になっていたから、敵は全然見えなかった。一方E中隊の周囲は開けた荒地。
九一八高地からの擲弾筒射撃と機関銃銃火に曝されていた。
その上、両中隊は時々高地の東北3キロのカン・ダギッ部落から重機関銃の射撃を受けた。
迂回運動は不可能。
E中隊の右側はバカン川の河床に下る深い荒れ谷。
F中隊が左方を迂回するには一旦尾根を降りG中隊の後を通って殆ど第一大隊の線から東南に攻撃を指向する他無かった。
E中隊とF中隊は攻撃を諦め、負傷者を収容。
G中隊の線に下った。
この日、米歩兵部隊の進撃を掩護する為に、第四九野砲大隊は577発の砲弾を発射。

↑日本軍の50発と桁が違う。


翌日、米歩兵一大隊が攻撃を開始した際、前日強い抵抗を試みた日本軍陣地が空になっているのを発見。
日本兵は更に東北方の山奥深く移動していた。
12/5の夕刻、米軍右翼は九一八高地の攻略に成功せず。
その西方の低い稜線を占拠しただけ。
左翼一八四連隊は海岸の部落バルゴの南300ヤードの線からパラナス川の東南に到る線を確保。
三二連隊のK中隊は両連隊間の間隙を埋め、一八四連隊の第三大隊だけ突出し、パラナス川を渡河。
東北1キロの三八◯高地(日本軍呼称一◯七高地)の尾根に取り付いていた。
その夜、どの部隊も日本軍の夜襲を受けなかった。
アルブエラにある日本軍の工兵隊と輜重隊は米軍の上陸に備えて海岸に防材を積み上げ対戦車障碍を施している。
12/5の戦況についてアメリカの『レイテ戦史』は次のように記録。


「5日朝『タブガス』河には水陸両用戦車十三輛攻撃し来れり。内一を炎上せしめたり。敵は約二時間威力偵察ののち退去せり。其の後、歩兵約三◯◯本道方面[右翼大隊(Ⅱ/11is)]より攻撃し来れるも撃退せり、然れども左翼大隊(Ⅰ/13is)方面(二八◯高地)に来攻せる敵は間隙を突破せり。該守備隊は夜に入り一◯七高地(三八◯高地)に後退せり。当面の敵第一線兵力は概ね六◯◯ー七◯◯にして戦車を有す。『アルベエラ』付近に対しては砲兵隊及び工兵中隊、対戦車及び対水際防備に任じあり」


12/6付米第七師団命令。
「第一線連隊は九一八高地を攻略し、パラナス河谷を確保して、三八◯高地北側斜面に進出すべし」


右に基き、右翼一七連隊の第一、第二大隊は、左翼一八四連隊の第二大隊の掩護の下に北東に前進。
まず、パラナス川の南に東西の戦線を形成。
それから進路を北方に転じて三八◯高地を攻撃。
担当斜面を確保。
第三大隊は九一八高地の東方斜面に進出。
更に三八◯高地の分担斜面を占拠。
この間に一八四連隊は三八◯高地の北側斜面を攻撃。
一七連隊の進出を援助すべしと命令された。
三八◯高地は日本軍呼称一◯七高地、パラナス川北岸1キロの山中。
一八四連隊第三大隊の一部が5日中に高地の尾根に取りついている。
一八四連隊は第一大隊を左に第三大隊を右に8時に進発。
第一大隊は戦車8に掩護されつつ日本軍の小銃火を冒して国道上を進みパロゴの村に入ってこれを掃討。
B中隊は村の東の高地を占拠。
11:55, 日本兵の攻撃を受けて撤退(独歩第十一連隊第五中隊の反撃である)。
12:10, 砲撃、迫撃砲撃を加えた後、13:05, 一個小隊を右方から第三大隊のK中隊を正面から迂回し攻撃させたを
15:10, 部隊は高地頂上に到達。
北方50ヤードの別の小高地南側斜面に強力な日本軍が陣地構築しているのを視認。
部隊はそれ以上の進軍を断念。
第三大隊主力は前夜K中隊の一個小隊が取り付いた尾根の線に進出。
10時、三八◯高地の頂上を占領。
そこからは北側のパラナス川の谷奥の日本軍の行動が手に取るように見えた。
その日の午後一杯、日本軍の砲撃、迫撃砲撃を受けた。
砲兵の掩護射撃の下に、第三大隊は三八◯高地に。
第一大隊はバロゴの東方高地に夜営円陣を構築。
第二大隊はパラナス川の河床に止まっていた。
8時、一七連隊は第一、第二大隊併進で進撃を開始。
第一大隊は九一八高地から西へ流れる尾根に到達。
日本軍の強固な陣地が見捨てられているのを視認。
稜線はパラナス河谷に臨んでいた。
B中隊とC中隊の尖兵小隊が川を渡河。
タブガス川を見渡す稜線を目指す間に、大隊は隊形を整えた。
第一大隊は一八四連隊の第二大隊と連繫しつつ、尖兵小隊に追随。
500ヤード前進。
A中隊は主稜線から南に分かれる稜線の鼻にC中隊はその東の尖った瘤地に向かった。
C中隊が一列縦隊となって主稜線の手前に達した時、三方から激しい機関銃火を浴びて釘付けに。
B中隊が壕に隠れた日本兵を西側から包囲しようとした。
しかし、その左側が激しい銃撃を受け迂回運動は頓挫した。

↑米軍なのか日本軍なのか分かりづらい部分もある。

はっきりしているのは両軍に多大な犠牲がある事。

哀悼。

戦争反対。

 

 

5時に起床し朝の家事。

昼食用にサラダと目玉焼き、麻婆茄子を調理。

炊飯ジャーにお米もセットした。

6時半から自治会役員会の準備。

月例報告書の原稿を用意。

それはそのまま書記にメールで報告する事にしている。

書記の方は、会議後議事録を作成し、それは回覧される。

自分が以前住んでいた所の自治会では議事録回覧が無かった。

なので、今の自治会は凄いと思うし、丁寧だな、と思う。

8時45分に自治会役員会へ。

9時開始だけれど、既に10名以上の方が来て、机や椅子、プロジェクターの準備等をしていた。

が、そのプロジェクターの部品が壊れているのが判明。

会長が私物の部品を自宅に取りに行き、それで代用。

プロジェクター一式を個人で所有て凄いね。

会議開始後、早速自主防災組織の月例報告。

ここで、プロジェクターを使用するので、代替品があって良かった。

10月の防災訓練のお手伝い要請の為の説明と先月の避難所運営訓練の詳細報告をした。

熊本地震の直後と言うこともあって、皆さん関心を持って聞いて頂けて、質問も複数あった。

お手伝いも役員の中から6名集まった。

これで、訓練を実りあるものにしていきたいと思う。

11時に終了後、帰宅。

今回は報告事項が多かったので、プチ燃え尽き症候群。

12時まで休憩しながら、熊本地震の続報をチェック。

皆さん、イオンモール熊本の爆破事故に関心を持っているが、実は被害が大きいのは氷川町と八代市。

浄水場が破壊破損で復旧の目処が立っていない。

能登半島地震の珠洲市と同じ状況。

復旧の見通し無し、と報じられている。

この、史上最高の税収を獲得した状況で?

浄水場の復旧てそんなに一兆円単位でお金が掛かるの?

G7参加の先進国を標榜するなら、国民全員に水道を得る権利ある。

国民は税金を払う義務を果たしている。

税金でこういう時の為に払ってると思っている。

え?誰かの私腹を肥やす為に払っとるの?

違うやろ。

てか、それ、駄目やろ。

水は元々タダ。

神が与えてくれた。

万民に水を得る権利ある。

夕ご飯は魚を焼いて大根おろしをする。

後は、残り物のカレーもある。

以上。

このあとは、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は5040。

そうそう、朝、台所でゴキブリ一匹駆除。

地震メッセンジャー特攻ゴキブリかどうかはわからん。

充実した一日だった。

 

 

 

 

 

 

1786日目と『レイテ戦記』➉

2026/8/1土曜日

3時58分に覚醒し熊本余震をチェック。

寝ている間の余震は減っていた。

 

4時半から読書。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

一方、状況は米第七師団にとっても芳しいものでは無かった。
「やりくり稜線」に勝ったと言っても戦線は12/1現在で11/23のそれと全く変わっていない。
前述のようにカモテス海沿岸は所々脊梁山脈から流れ出る急流によって造られた小平地を除いては岸から50メートルまで山が迫る。
それらの山地は全て国道を俯瞰射撃し得る位置にあって、米軍の進出路を脅かしていた。
特にダムラアン東北5キロの九一八高地(フィート標高。日本軍呼称二八◯高地)はオルモックからバイバイまでの40キロの海岸線を見晴らす要点であった。
その東北山中1キロ半にカン・ダギッ部落があり、更に1キロ西北にカン・カイントがある。
これはパラナス川の水源地帯からタブガス川上流に抜ける稜線上にあり、日本軍の迂回に備えて確保を要する。
タブガス川はパラナス川の北2キロで海に入る。
その中間にあるのがバロゴの村。
その東に三八◯高地(日本軍呼称一◯七高地)があり、日本兵が占拠。
高地から海岸までの幅は1キロ半。
タブガス川の北3キロで要衝アルブエラに達する。
が、それまでにカリントンガン・クリークとシブガイ川を渡らねばならない。
そして、クリークの東3キロ山に入って六◯六高地(日本軍呼称一八五高地)があった。
これらの高地が全て十三連隊の残兵によって「死守」されていた。
第七師団長アーノルド少将はこの山脚地帯を二個連隊並進で攻略する事に。
彼は一八四連隊に国道に沿って北方の威力偵察を命令。
第一七連隊が到着するまで前進を禁止。
後者は12/3にバイバイに到達。
アーノルド少将は直ちに連隊長会議を開き師団の任務を伝えると共に一八四連隊を左に、一七連隊を右に、2キロの正面の二連隊並進による攻撃発起を12/5の8時に決定した。
目標は北方8キロのタリサヤン川の線。
この川の幅はパラナス川と大差は無い。
が、海岸へ迫った山地から流れ出している為、海岸から1キロ入ると両側は険しい侵食崖となる。
南岸のマリトボからこの辺へ掛けてが日本軍の補給中継基地であるのを米軍は認知。
ブラウエンへ越える山道もここからタリサヤン川の両岸に沿って上がっている。
その南岸の道を日本軍が野砲道に作り替えようとしている事も把握。
ただ米軍は日本軍にはこれを遂行する能力が無いと思っていた。
従って米第七師団の進路には二十六師団全体が居ると信じていた。
タリサヤン川の線を突破すれば山は10キロ内陸に退き、イピルまで7キロ、開けた平坦地となる。
米軍七七師団の上陸日の七日までにこの川の線に到達出来れば理想的。
が、それはもう望めなかった。
これまで米軍円陣を山側から圧迫していた日本兵は、パラナス川対岸の高地を撤退。
別の一個大隊が川の対岸の、本道に接した高地に居ると信じられていた。
4日中、一八四連隊と一七連隊の諸隊は前方に偵察。
一八四連隊の斥候はバロゴの村に潜入。
同日夜、七七六水陸両用戦車大隊は夜暗に乗じ、バロゴの沖、1000ヤードの地点に集結命令が下された。
6:35,北上し町の手前200ヤードに接近、1キロ北方の町タブガス75ミリ備砲で砲撃。
7時、横隊となってタブガス川口に上陸。
山脚地帯一帯に2550発の砲弾を撃ち込んだ。

↑2250発て。

桁が違うぜー。


部隊はそれから再び海に浮かび2キロ北進。
カリントンガン川方面を偵察後帰途に着いた。
が、前回の上陸成功に気を良くし、再びタブガス川南方500ヤードの地点に上陸。

残りの砲弾を全部山脚地帯に撃ち込んだ。
日本軍の火砲の抵抗は全然無かった。

↑これ入力中の敵の攻撃いと激し。眠れ眠れ爆弾攻撃からの、お次は腰に電磁波攻撃〜。今布団の中だけどこのあと起床する時ぎっくり腰作戦!? で、立たせる為におしっこかウンコ集結予定。キリッ!

 

10:45、部隊は無事ダムラアンの陣地に帰陣(日本側記録、水陸両用戦車十三輛来襲。内1輛擱座炎上)
この間、本道方面の一八四連隊は行動発起。
予定通り、8時に「やりくり稜線」を出た左翼第一大隊は一発の弾を撃つ事なくパラナス川を渡河。
錯綜した稜線、瘤地を持った稜線が海岸から数百ヤードに迫り、峡谷と断崖で隔てられていた。
日本兵は北側の斜面に壕を掘っている。
が、その方面は切り立った急斜面。
砲撃は余り効き目無し。
米第二大隊が川の北岸の稜線に向い徐々に前進するうち、8:45, 稜線の向こう側から小火器の射撃を受ける。
米兵は手榴弾を投げながら前進。
が、9:38, 3挺の軽機によって阻止された。

↑これを入力中に、肛門に向けてウンコ緊急集結中。読書を阻止するよう厳命されている。無読書状態死守命令!! 

 

第二大隊の支援砲火が正面の日本軍陣地に集中。
一◯三七、大隊が稜線頂上に到達した際、E中隊の左側に余り強くない反撃が発起。

↑断続的な攻撃展開され中。わいの予測通りの展開。トイレに急行!! 放射線攻撃も追加され中なう。atトイレ。

 

この攻撃は撃退。
が、E中隊は尚小火器と機関銃による攻撃を受け続けた。
この稜線を防いだのは独歩十一連隊の第五中隊。

13:25, 左翼第一大隊はまた進み始めた。
日本軍の反撃は無くその正面は静穏。
一四三五、大隊はバロゴの南の300ヤードの地点で野営の為の壕を掘削。

16:35, 一八四連隊の各大隊は縦深夜営円陣を構築。
「あらゆる犠牲の下に」確保するよう命令が下った。
↑米軍版「死守命令」か。

 

連隊長オサリバン大佐はこの日の戦果に不満足(実際、三個大隊の大部隊が第五中隊の一個小隊に牽制され1キロしか前進出来なかった)
大佐は翌6日の連隊の攻撃は第三大隊が中核となって三八◯高地を攻略すべきと考えた。
右翼一七連隊の受持の九一八高地方面では、戦いは一層駄目だった。
この高地はダムラアンの町東北5キロに位置。
「やりくり稜線」からは一旦下って鞍部となり再び比高200メートルの急な斜面を上る。

↑この部分の入力はそんなに不味いんか?横っ腹に電子銃。尚トイレ続行中。トイレ中も攻撃続行。趣味特技仕事が攻撃!!キリッ!!

 

23日ダムラアンの戦いが始まった時、米比軍第九四連隊の一個大隊(兵力300)が占拠。
が、戦いが激しくなり、米軍が中間鞍部から追われると共に撤収。

↑お次は日立製洗濯機に八つ当たり。
爆音発生中なう。

 

5日8時、第一大隊を左に、第二大隊を右に、三二連隊第三大隊を超越して前進開始。
9:06, 左翼第一大隊の先頭は、九一八高地に上る主尾根の南の稜線に取り付き、10時、大隊全員が稜線に集結完了。
尖兵小隊が更にその西側の稜線を目指した。
しかし、小隊は稜線頂上に近づくと激しい擲弾筒、機関銃、小銃の射撃を受ける。
米側の記録はこれを十一連隊第二大隊の射撃としているが、この部隊は本道方面にあり、山地は十三連隊の担当であった。
大隊主力が前進し、尖兵小隊を支援しようとしたが、これは2つの稜線の中間の涸れ谷からの十字砲火に捉えられた。
部隊は停止を余儀なくされ、右に連繫した第二大隊のG中隊との接触を喪失。
第一大隊と第二大隊の間に間隙が発生。

今日はここまで。

 

6時に起床し朝の家事。

やる事やったら、9時から自主防災組織の仕事。

明日自治会会議があるのでそれの準備。

何と昼まで掛かった。

12時半に昨夜以来の食事。

午後は調べ物。

その後の熊本地震の続報をチェック。

16時から夕食作り。

茹でとうもろこし、ワカメ人参サラダ、イカの生姜バター炒め、イワシハンバーグ、とろろ昆布味噌汁。

これに玄米ご飯とウォッカ梅酒ロックをプラス予定。

19時に食べる事に。

今からお便り配布お散歩に出かける事に。

 

歩数計は現時点1463。

充実した一日だった。

 

 

 

 

 

 

オートファジー1785日目と『レイテ戦記』⑨

2026/7/31金曜日

3:38に覚醒し熊本地震の余震チェック。

調べると自分が寝ている間に7回の余震。

これじゃ、安眠出来ない。

何の為にこんなに余震起こしているのか知りたいよ。

 

4時過ぎから読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 


兎に角こうして第八中隊の突出陣地は孤立した防禦陣地に。
一個中隊全滅の悲運に見舞われる事になる。
↑哀悼。

 

しかし、米軍はこれを完全に掃討するまで3日掛かった。
↑この3日間のあいだ、友軍は救援に来ないんか?
その戦い方に驚くわ。

 

翌朝、米軍は約400の日本兵の戦死体を陣地前方に数えたが、米軍の損害もそれに劣らず大きかった。
G中隊の失った陣地を恢復するのが先決問題なのだが、G中隊は既に使い物にならないくらい損傷を受けていた。

米第七師団長アーノルド少将はやっとカリダードにあった第一八四連隊の第一大隊(B, C中隊それぞれ一個小隊欠)をダムラアンの戦場に使用という、フィン大佐が待ち焦がれていた命令を下す。
米軍もこの頃は12月7日のオルモック逆上陸が決定。
第七師団の全兵力を西海岸に送る処置が取られた。
バイバイ=ダムラアン間の後方確保よりも少しも早く西海岸を北上して上陸軍と協力する事が第七師団の任務となった。
しかし、師団はダムラアンで足踏みした結果、その任務を達成出来ず、12/7にはまだオルモックから15キロ離れた地点に居る。
米一八四連隊の第一大隊は27日払暁までに攻撃準備完了。
三ニ連隊L, E中隊の後方に進出。
地域狭小なので大隊長はA中隊だけを正面の攻撃に使う事に。
型通りの砲兵や迫撃砲、機関銃の射撃があった後、〇八五五歩兵が前進。
しかし、200ヤード進むと日本軍の重機火網に捕らえられ動けなくなった。

A中隊は50ヤード後退。

砲兵、迫撃砲が戦場を火制した後、再び前進開始。
攻撃は再び頓挫。
14:30, 砲兵の支援射撃後、今度はC中隊が攻撃。
この攻撃は成功。
16時までに竹藪南部を掃討。
日本軍の戦死体109を数え軽機29を鹵獲。
この位置で全滅したのは第六中隊。
村瀬清中隊長以下戦死。
生存者は長谷川兵長以下6名。
その夜、十三連隊の一部が惨透を試みたが阻止された。
この日のうちに米第七師団の全兵力はバイバイに集結完了。
第二四軍団長ホッジ中将は師団に対し速やかにダムラアン地区における日本軍を撃滅。
オルモックを占領せよと命令。
11/28の昼間、米軍は連戦で疲労した三二連隊の第二大隊と一八四連隊の交替で費やした。

↑交替て、良いね。


一八四連隊第一大隊の一部は前日からダムラアンに進出。
そのB中隊が三二連隊F中隊の担当区域、つまり「やりくり稜線」の西端叢林から本道を越えて溢海岸までの600ヤードの水田地帯を受け持った。
A中隊とC中隊は既に竹藪陣地の攻略に参加。
稜線南部の叢林中にあった。
第一大隊は野砲五七大隊に支援されつつ三二連隊のG中隊, E中隊と交替。

↑米軍は交代制。

羨ましいね。


同連隊第三大隊のL中隊と連繫して、東方九一八高地方面を攻撃予定。
交替は17時までに完了。
三二連隊の諸隊は2キロ南方のティナガンに下った。
一八四連隊第二大隊は予備となり、更に8キロ南方のサンアガスチンにあった。
この日、日本軍二十六師団でも戦線整理が実施された。
「和号作戦」決定に伴い「二十六師団は『ブラウエン』に専念」との軍命令が下った。
↑この間、非武装の民間人のわいに対して寒い寒い攻撃。
攻撃に色々引き出しがあって流石です。
軍隊だからなのか、先祖代々攻撃の神だからなのか。


第十二連隊第二大隊の残部はブラウエン作戦参加の為、ルビへ転進の命令。
支隊主力は以後、カモテス海に沿った本道に縦深抵抗を行う任務を課せられた。
同日19:45, 第十一連隊第二大隊は竹藪南端に拠る米一八四連隊第一大隊のA中隊の陣地を攻撃。
50ヤード後退せしめる。
米四九野砲大隊のB中隊の105ミリ榴弾砲が日本軍の進出地域の南、及びその100ヤード西方まで弾幕射撃。
日本軍の前進は停止。
米第一大隊は壕を掘削。

第二大隊のE中隊は要請があればいつでも第一大隊を掩護出来る位置を占めた。
81ミリ迫撃砲中隊はA中隊の正面を火制する準備完了。
第一大隊C中隊の二個小隊は第一大隊と第二大隊の間に生じ得べき間隙を埋める為に前進。
20:45までに三二連隊の第二大隊、一八四連隊の第一、第三大隊は連続した戦線を形成。
その夜は23日以来始めての静かな夜。
第二大隊の正面で日本軍の移動する音が聞こえた。
独歩十三連隊主力が撤収する音だった。

29日9時、米第一大隊A中隊及び第二大隊のF中隊は「血染めの竹藪」を掃討。
26日来の失地を恢復しようとした。
迫撃砲の準備射撃後、諸隊は前進開始。
初めは何の抵抗も無かったが米兵が竹藪中に踏み込むと同時に強力な反撃を受けた。
一日中一進一退の白兵戦。
18時、A, F中隊は協力して攻撃を試みたが成功せず。
18:20から19:20の間にA中隊は3度日本兵の強烈な攻撃を受けた。
諸隊はその場で壕を掘った。
この日この方面の日本兵で戦死が記録されているのは次の9名。
石川博少尉、大坂不二夫准尉、三浦邦彦軍曹、川口軍曹、大沢賢一一等兵、中野伍長、井上定雄一等兵、小林雄一上等兵、大無知久兵長。
十一連隊第二大隊は既に竹藪陣地からの撤退命令を受領。
しかし、命令は竹藪最先端の第五中隊には届かなかった。
11/30, 米軍は前方に斥候を出して「血染めの竹藪」が完全な孤立陣地になっている事を確認。
10:45, 3日間最前線を受け持っていたA中隊がC中隊と交替。
14時、10分間の砲兵の射撃の後、C中隊は第二大隊F中隊と共に竹藪に突入。
速やかに竹藪を掃討し、150ヤード北方の稜線まで進出せよとの命令だったが、竹藪の中へ2, 30ヤード踏み込むと日本兵の強力な反撃に遭遇。
フィリピンの竹は日本の孟宗竹に似ているがずっと大きい。
その幹は柔軟で根元までびっしり生えた小枝を絡み合わせて、壁のようになっている。
両軍は尚2時間押しあった。
が、遂に16:03、日本兵は力尽き竹藪は米軍のものに。
B中隊が増強され17時半までにA, B, Fの諸隊はパラナス川を見下ろす稜線に進出。
その北側斜面に壕を掘った。
「やりくり稜線」の戦闘は終わった。
日本側の記録は29-30日の状況として「十四時頃『バイバイ』附近に敵小型輸送船若しくは護衛艦十一、小型上陸用の舟艇約四◯あり、また『ワンガップ』附近に小型上陸用舟艇二、三ありて『ダムラアン』附近に兵員資材の増強及び補給を実施しあり」を伝える。
恐らく航空情報に基づくものであろうが、これは誤認。
米軍の海上補給は12/4まで行われない。
アブヨグ=バイバイ間30キロが曲がりなりにも通行可能なのであるから200キロの海上補給を行う必要は無い。
この記録は誤認でなければ、常に敵の海上補給によって敗けたと理由づけする地上部隊の思考の癖である。
この頃、独歩十三連隊は支隊戦闘指揮所と共にアルブエラ方面に退却。
正面の米軍の阻止を命令されたのは独歩十一連隊第二大隊。
その第六中隊は全滅。
第五中隊も激減。
第八中隊がバロゴ東方に撤退した時兵力は半減。
12/1, 師団司令部がブラウエンへ向かってからは野砲、工兵、輜重、その他カモテス沿岸の諸隊は斎藤大佐の指揮下に。
大佐が与えた命令は国道を見下ろす諸高地の「死守」
↑死守て、死ぬまで守る、ていう残酷な命令。

今日はここまで。

 

5時半に起床し納豆作り。

昨夕雨が降ったので畑はお休み。

洗濯を干し、蒸し上がった大豆に納豆菌をまぜたらヨーグルトメーカーにイン。

8時半に買い物へ。

帰宅後、買ってきた新生姜500gをスライスする作業。

また紅生姜を手作りする事に。

塩揉みしたスライス新生姜500gを10分間放置し、水気を絞ったら天日干し。

10時半から、熊本地震の最新情報のチェック。

そして、フォッサマグナの本を再読。

調べると中央構造線の南端は八代市にあるらしい。

「北薩の屈曲」との絡みも気になる。

何が起きてるのか。

何をやろうとしているのか気になる。

 

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後は大好きな中島成子女史の伝記を熟読。

今日も泣けた。

女史はそれだけ、琴線に触れる事業を行っている。

これまで、映画化されなかったのが不思議な位、感動するエピソードが多々。

ま、アヘン売買に敢然と反対したのもあったかもね。

満州でアヘン売買に寄与した連中は戦後、ご褒美で閣僚になってるからの。

アヘン反対の中島成子女史の事は内緒にしときたいわな。

 

15時から自主防災組織の仕事。

全員の名札を作成した。

そして、名簿と連絡網の印刷。

10月の訓練本番に向けて整備を開始。

不謹慎だが、7/28の熊本地震後の各機関の対応は大いに参考にさせて頂いている。

特に避難所の情報等はありがたい。

17時から夕食作り。

枝豆、サラミ&スモークチーズ竹輪&プロセスチーズツマミセット、ワカメホヤ、豚とズッキーニと茄子の塩焼き、玄米ご飯、鰯つみれ味噌汁、赤紫蘇ジュース梅酢入りウォッカ梅酒ロック。

今日も15時からエアコン入れたが、それでも体に蓄熱されてる感はある。

梅酢入り赤紫蘇ジュースで凌いでいる。

ブログをアップしたら食べる事に。

 

歩数計は3069。

充実した一日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

オートファジー1784日目と『レイテ戦記』⑧と畑

2026/7/30木曜日

3:58に覚醒。

震度7の熊本地震から余震が数時間おきに続いている。

まずは、NERV防災アプリで余震の状況をチェック。

自分が寝ている間だけでこれだけ起きている。

安心して寝られない。

更に台風🌀も向かっている、と知った。

八百万の神に熊本に行かないようにお祈りしないと。

 

4時過ぎから読書。

昨日に引き続き大岡昇平著『レイテ戦記』

 

米G中隊正面は急な斜面。
米軍の砲火は余り有効でなかった。
米第一線が突破されそうになった時燃える草の火勢が激しくなった。
日本兵も擲弾筒と機関銃に掩護されつつ退いた。
フィン大佐はこの機を逸せず損傷によって生じた間隙に歩兵を増強。
弾薬を送った。
迫撃砲は前方の涸れ谷を射ち続けた。
しかし、一息つくと日本軍は攻撃を再開。
砲兵の支援射撃は無く重機関銃の発射が攻撃の合図だった。
兵力は前と同じ位らしかった。

が、攻撃は前回程断固なたるもので無かった。
米軍は再びあらゆる火力を動員して防戦。
日本兵は死傷に屈せず前進続行。
その強力な一部がG中隊の中央小隊正面の稜線突端にある竹藪まで進出。
そこを拠点としてG中隊正面に対する突撃が繰り返された。
この攻撃は第八中隊を第六中隊の右に増加して行った。
右を今増小隊の17, 8名、左を大橋小隊で攻撃。
大橋少尉はこの戦いで負傷。
米軍も手榴弾と銃剣で戦った。
フィン大佐は「味方の兵士は戦線を維持する為には悪魔のように戦った。彼等の活躍と共に、戦いは燃え上がり、消え尽きた」と回想。
迫撃砲隊であったH中隊の81ミリ迫撃砲は5分間に650発を発射。
60ミリ迫撃砲を自動小銃のような発射間隔で発射。
1時間の激闘の後、日本軍は遂に退いた。
G中隊の左翼は攻撃を受けなかった。
右翼の激戦の音を聞いているうちに、前方稜線の下に設置したマイクロフォンは日本兵が集結しているらしい物音を伝えた。
これは側面に移動する第五中隊の足音。
聴音班長の見習士官は中隊長に状況を報告すると共に部下2名と共に退く許可を求める為伝令を出した。
伝令兵は許可を得て帰り50ヤード手前から「退ってもいいぞ」と呶鳴った。
聴音班は後退を始めた。
前線の兵士も皆この声を聞いた。
左翼小隊と中央小隊の二個分隊が退り出した。
45分後には二個小隊の兵力(一個分隊欠、機関銃一個分隊付属)が道路上を南に退却しつつあった。
皆自分達が命令無しに退却していると意識しなかった。
道路上を250ヤード退ったところでH中隊の経理部将校に会った。
将校は兵士に元の陣地に戻る事を命令。
遅かった。
左翼小隊は支障なく陣地に戻る事が出来た。
が、中央小隊が戻った時はそれまで占拠していた竹藪に日本兵が入り込み壕を掘削していた。
これは第八中隊と第五中隊の一部。
米軍は後にこれが20挺の機関銃を有する約200名の兵力である事を知った。
独歩第十一連隊第二大隊は米円陣に楔を打ち込み右側E, L, I, K中隊の側面と野砲A中隊陣地を火制し得る位置に進出したことになる。
↑第21図 ダムラアンの戦闘(11/26-27)

 

これは米三二連隊が「やりくり稜線」の戦闘中経験した最大の危機。
この時もし日本軍に予備隊があってこの間隙に注入すれば米軍陣地は一挙に崩壊したかもしれない。
この時第八中隊、第五中隊が占拠した地点は稜線の南斜面にありそこからダムラアンの町まで1キロは平坦な水田。
日本軍の進撃を妨げる何ものも無かったのだから。
弾薬にも不足していなかった。
これまでの戦闘の経過で見られるように、ダムラアンで戦った二十六師団はレイテ島のどこの戦闘にも見られない、豊富な補給を受けていた。
ただ理由のわからない米軍の退却に戸惑い、直ちに戦果を拡大して完全勝利へ持って行く指揮を取る将校が居なかった。
9日、二十六師団を乗せた船団がオルモック湾で空襲を受けた際「香椎丸」では命令受領の為、中隊長が集合。
そこに機銃掃射を受け中隊長の大半が戦死。
従ってダムラアンで戦った中隊の多くは曹長が指揮。
何れも百戦錬磨の下士官。
局地的戦闘は上手かった。
が、各自個別的に戦い情況を互いに連絡するという処置が取られなかった。
突入部隊は三方の米軍陣地に対し終夜銃撃を続けただけであった。
斎藤支隊長はこの時前線に来て指揮を取った。
第二機関銃中隊は6挺の重機をパラナス川南岸の稜線に進出させ、第八中隊の攻撃を支援。
榊原兵長は夕方斎藤大佐が戦線視察に来たのを記憶。
しかし多分その後は東方稜線上の戦闘指揮所に帰還。
第二機関銃中隊も第八中隊がこんなにうまく敵陣に入り込んでいるとは知らなかった。
米軍は第八中隊に包囲の体勢を取った。
予備I中隊の一個小隊がE中隊背後に北面。
最初から退却しなかったG中隊中央隊の一個分隊は向きを変えて西面。
竹藪攻撃の体勢を取った。
やがて引き返した二個分隊もそれと合流。
左翼F中隊の右翼小隊は本道右の山裾に位置。
直ちに南に後退。
竹藪から日本軍が平坦地に降りないよう防禦体勢。
米砲兵はG, E中隊正面の平坦地を火制下に入れる体勢を整えた。
↑日本軍の友軍は何処で何をやってる?
第八中隊は孤立してる?

終夜E, L, I中隊は竹藪陣地の日本軍から銃撃を受けた。
E中隊の損害が最大。
が、必死に陣地を守った。
砲兵隊もあらゆる支援火器を動員。
夜通し射ちまくった。
日本軍にとってこの時はもう機会が去っていた。
米軍の防禦体勢の崩れた瞬間、E, L中隊の東正面にあった第十三連隊が総攻撃を加えていれば米円陣は寸断され一挙にダムラアンまで押し戻せた。
米側の記録に拠れば、この日独歩十三連隊の攻撃は行われていない。
日本側の記録は前記のように「方向を誤り成功せず」だけ。
右翼第八中隊が戦線突破に成功した方面に攻撃を指向しなかったという意味であろうか。
実際はむしろ逆で第六中隊が突出した瞬間現体勢のまま総攻撃を仕掛ければ良かったのである。
戦場によくある「逸機」の一つである。
斎藤大佐は二七期、歩兵出身で昭和19年以来、十四方面軍の報道部長。
「実戦の経験なく敵をのさばらすのみ」と友近少将に批判されている。
が、作戦は師団の指導によって行われたので斎藤大佐のすることは余り無かった。
ただ前線の下士官が同じような攻撃を繰り返し敵陣を強固な、俗に言う「たこ」にしてしまった。
連絡の不備によって好機を捉えられなかった。
この日の十一連隊の右翼攻撃にしても別に計画的なものではなく、中央をやってもだめ、左をやってもだめ、その結果、右をやってみようという手探り作戦だったかもしれない。

今日はここまで。

 

 

5時に起床し畑へ。

野菜を収穫後、水遣り。

ずっと雨が降っていないのでカラッカラ。

支柱を刺すのに一苦労した。

6時に帰宅後、朝の家事。

9時にコミュニティセンターへコピーに。

帰宅後、自主防災組織の仕事。

メールのやり取りとお便り配布の準備。

配布を終えたら11時半。

そのまま昨夜以来の食事の用意。

自分は納豆ご飯と味噌汁と残り物。

良人には蕎麦を茹でた。

午後は読書と調べ物。

7/28の震度7以来引っ切り無しに続く余震。

10年前の熊本地震も覚えてる。

その後、益城町も熊本城も訪れた。

何故、また熊本?と疑問が湧いた。

余震は何れも震源の深さが10km。

何か理由がある筈、と調べた。

CCS事業が行われている事を知った。

この事業は苫小牧でも行っており厚真町で山体崩壊地震を起こし犠牲者も出ている。

また、良人からの情報でミサイル反対運動もあった事も知った。

熊本の自衛隊基地にミサイルが配備される計画があるそう。

ミサイルが配備される=敵国の標的になるという事だから、そら、反対しますわ。

憲法第九条で戦争放棄しとるのに、何でミサイル配備?

あとは、スマートシティ政策も関係してると思う。

スマートシティてグレートリセットと同義語だから。

もう一つ心配なのは、余震を恐れ人々が避難所に避難すると空き巣が横行する。

警察はきちんとパトロールして捕まえてな。

外国人の場合は強制送還で。

東日本大震災の時も空き巣被害凄かったで。

 

その後、読書を開始したが、眠れ眠れ爆弾攻撃が激化した為、15時から夕食作り。

その最中、良人に絡まれた。

晩ごはんは親子丼とサラダと味噌汁、以上。

画像無し。

ウォッカ梅酒ロックを呑みながらブログ編集。

アップしたら先程中断させられた読書を再開する事に。

 

歩数計は5513。

充実した一日だった。