2026/8/5水曜日 明日は広島原爆の日。
3時に覚醒し熊本地震最新情報をチェック。
3時20分から読書と調べ物。
昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』
当時、オルモック=バイバイ間の国道は未舗装の牛馬道。
アブヨグ=バイバイ道はレイテ島西南部とタクロバンを結ぶ為のもの。
カモテス海沿岸道路はバイバイ以南しか整備されていなかった。
しかもその牛馬道はダムラアンにある米155ミリ曲射砲の火制下にあった。
十三連隊は山脚地帯に入ってアルブエラ東南の一八五高地(六◯六高地)に集結した。
これは12/7、一◯七高地を占領した米一七連隊G中隊が六◯六高地から砲撃を受けたという記事とも一致。
但し米軍の記録には日本軍の火砲鹵獲の記事は無い。
野砲隊も後退して六◯六高地に集結したと思われる。
これらは到底一個師団を支え得る戦力では無い。
それはやがてオルモックに上陸予定の三十師団七十七連隊が担当する予定だった。
しかし、同日の米軍上陸により連隊はパロンポンへ上陸。
この戦場へは来なかった。
12/9夜、アルブエラ東北の野砲道で独歩十一連隊第八中隊の重松中尉が戦死。
中隊主力。タリサヤン南岸高地に後退せしめ、約一個分隊(小林兵長、野々垣上等兵など、軽機、擲弾筒1の約10名)を指揮し野砲道を警戒中、10:30, 山から降りてきた約300の米兵と交戦。
その50名に損傷を与えた。
が、多くの部下と共に戦死した。
この米部隊は恐らく一七連隊の最右翼第三大隊の一部。
12/7, カン・カイントを迂回したのと同じ戦法により山脚地帯から日本軍陣地の側面を攻撃した。
12/10, 十一連隊第二大隊長大川鼎大尉はタリヤサン川南方高地に残存兵力を結集。
最後の決戦を試みる。
既に兵力は100に減少。
右翼高地脚に第五中隊、中腹に第二機関銃中隊、頂上に第七、第八中隊が陣地を構築。
12時過ぎ、第八、第七中隊が米一七連隊第三大隊を攻撃。
続いて右翼第五中隊が機関銃掩護の下に、米一八四連隊を攻撃。
午後、大川大尉は大隊本部の残兵と共に敵陣に斬り込んで戦死。
同じ頃、第二機関銃中隊長篠永勝行中尉以下も斬り込んだ。
同日夕方までに高地は米軍の手に落ち、独歩十一連隊第二大隊は全滅。
「十三名の兵は夕霧と共にタリヤサン上流に姿を消した」と連隊の戦記『いづみ』は表現する。
しかし、ダムラアンの戦いが始まった頃からずっとマリトボにあった師団兵器勤務隊(これは各種兵器の修理を行う技術部隊であるが、師団の数少ないトラックを持っていた関係で食糧弾薬の輸送を受け持たされていた)は、タリヤサン川南岸高地の「死守」を命ぜられ、15日まで頑張ったと言う。
↑兵器の修理を行う技術部隊にも「死守」命令出るのな。
死守て死ぬまで守る事。
撤退が許されない。
残酷な命令よ。
16日、山森曹長は功績簿を携えてタリヤサン上流を目指した。
約5キロ遡って河原がやや広くなった所に二十六師団司令部他約600名の兵を発見。
12/7の米軍オルモック上陸によりブラウエン作戦は中止。
師団は山中の道を引き返しここに集結していた。
[注1]ダムラアン方面に二十六師団主力の進出を命令した事実は友近少将の『軍参謀長の手記』でも「三十五軍の作戦記録」でも伏せられた。
斎藤支隊を派遣しただけになっている。
恐らく師団をブラウエン作戦に使用しなかった事を隠蔽する為。
そして、斎藤大佐の作戦用兵に不当な非難が加えられるのである。
二十一 ブラウエンの戦い 12/6-7
「和号作戦」実施の命令を受けた三十五軍が戦闘司令所をブラウエン方面の山間の部落ルビに推進する為、オルモックを出たのは12/1夕刻。
4キロ南下してイピルに1泊。
同日、マリトボにあった二十六師団も行動発起。
脊梁山脈へ分け入った。
独歩第十二連隊第二大隊(井上万寿郎少佐)はまだダムラアン方面から帰着せず。
司令部だけの行軍であった。
オルモックの軍司令部には友近参謀副長、岡林諄吉参謀が残った。
司令官鈴木宗作中将、参謀長和知鷹二中将、中村貢高級参謀、大曾根義彦作戦主任参謀以下、12/20米軍上陸当時とは比較にならないほど強化された軍司令部を挙げて、マリトボ=ブラウエン中間の山間の部落ルビまで戦闘司令所を前進させる計画であった。
カモテス海沿いに北上する米第七師団主力の防禦には斎藤支隊を残し、主力は敵とすれ違いに前進。
これは側敵行進と言って最も危険な作戦。
しかし頽勢蔽うべくもないレイテ島上の決戦の主導権を奪い返そうと言う乾坤一擲の奇襲作戦。
鈴木司令官自ら陣頭に立った。
しかし、二十六師団の実質は二個大隊。
先遣重松大隊は既に半月山中にあり戦力を消耗。
↑重松大隊を目撃した者の証言で重松大隊の将兵は補給が途絶え飢えて目ばかりが白く光っていた、とあった。
レイテ島戦記
https://tamatumaru.tiyogami.com/007.html
レイテ島戦記自費出版
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/jihi1.html
井上大隊はダムラアン方面で散々叩かれた欠損部隊。
砲を持たない弱体。
↑日本軍が補給しないから。
斬込み程度の効果しか発揮出来そうも無い。
大げさとも言える力の入れようであった。
しかし、鈴木中将は山下大将のマレー作戦当時の参謀長で因縁浅からぬ間柄である。
方面軍がレイテ作戦に乗り気でないのはわかっていた。
それなのにこのような果敢な作戦を指示して来たのである。
幕僚達は批判的であり、鈴木中将の慎重な性格としてオルモック自身の危険は感じている。
しかし、三十五軍は米軍上陸以来これまでどこでも勝っていない。
申し訳ないという気持ちが常にあった。
なので、この新作戦を是非とも成功させたいと言う一念に繋がっていた。
自ら陣頭に立たなければ気乗り薄の幕僚を動かす事が出来ない。
老躯に鞭打って前線近く戦闘司令所を進めようとしたのであった。
第四航空軍の降下作戦が「天号作戦」、それに呼応する十四方面軍の地上作戦が「和号作戦」である。
11/23、マニラで決定された作戦実施要領は既に十九章に紹介。
念の為に繰り返すと次のようになる(『レイテ戦史』による)
一、決行日時 十二月五日以後、止むを得ざるも十日以前。
二、空軍の攻撃
1、十一月二十三日ー十一月二十七日、航空撃滅戦。
2、十一月二十六日、義号降下斬込み。
3、十二月一日ー十二月三日、航空撃滅戦。
4、決行前日 空梯降下。
三、海軍 十二月四日ー十二月七日『カリガラ』湾及び『オルモック』湾方面地上戦闘に協力。
四、地上軍
1、十二月三日、泉(二十六師団)攻撃準備完了。
2、前日、地上義号隊、遊撃隊、斬込隊の斬込み。
3、泉攻撃開始、
泉 南「ブラウエン」「サンパブロ」
垣(十六師団)北『ブラウエン』
相言葉 撃滅。
今日はここまで。
4時半に起床し5時に畑へ。
野菜を収穫し、いつものように、液肥を施肥したら5時半に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
そして、パン生地の仕込み。
ここのところ、連日の暑さで、パンの発酵が簡単。
機械を使用せずとも2時間前後でいい感じで発酵される。
今日はチーズナン、ハムチーズパン、アンパン。

9時半から読書を楽しんだら、11時半に昨夜以来の食事の用意。
自分は納豆ご飯とスープメインでお腹を満たした。
午後も読書。
15時に自主防災組織の仕事。
この組織の屋台骨を作って下さった方々と会合。
防災訓練の、特に放水訓練のやり方について教えて頂いた。
帰宅後、夕食作り。

チーズナン、ハムチーズパン、アンパン、枝豆、ゴーヤサラダ、真ホッケと大根おろし、ウォッカ梅酒ロック。
これに玄米ご飯とスープをプラス。
歩数計は5885。
充実した一日だった。














