arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1881日目と『レイテ戦記』105と畑

2026/11/4水曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

この他負傷、失神、睡眠の状態で俘虜となった者はこの頃までに陸軍だけで500人。
ゲリラは殴ったり蹴ったりするだけで殺さず、米軍に渡している。
報奨金が出た為である。
が、パナイ、ボホールなどビサヤ諸島、ミンダナオ島の辺境地区など、米軍陣地から遠く離れた地区では殺された。
タナウアンの俘虜収容所の陸海軍将兵、台湾人軍夫は約800人に増加。
この他、タクロバンの赤禿山の麓に俘虜専用の野戦病院があり、約200の傷病兵が収容。
ベッドは不足していたので一度に大量の俘虜が出ると直接タナウアンの収容所に送られた。
ここには所付米軍軍医1人、衛生兵1人がいて日本の衛生兵俘虜が助手として軽病患者の看護治療にあたった。
しかし、病み疲れた新しい俘虜は入所手続き(写真撮影、訊問)の為柵外の休息所にいる間に死んでいった。
コーンビーフ、煮豆など食糧を不意に貪り食う為であった。
日本人の収容所長が手続きが済むまで食糧を与えない方針を決めると炊事へ盗みに入った。
食べ、それから死んだ。
脊梁山脈北部に圧迫された十六師団、二十六師団の敗兵が、飢えと疲れで斃死しつつあった間にカンギポット山の軍司令部周辺に集結した第一師団の残部、六十八旅団、百二師団、今掘支隊は、米七七師団の攻撃を受けていた。
第一師団転身後は詳しい記録は残っていない。
数少ない生還者の1人、鈴木軍司令官の専属副官錦野得定中尉の記憶に拠れば、一時カンギポット山周辺の山稜は悉く敵影で埋まる程接近包囲された事があったという。
諸隊の奮戦により辛うじて撃退。
米公刊戦史も昭和20年1月、掃討線に入ってからは詳細を記していない。
が、第二四軍団の南部レイテ掃討は2/15で終了。
この頃の戦闘とみなして良いであろう。
第一騎兵師団、二四師団の一部、第三二師団に1/24に到着したアメリカル師団(ガダルカナル島の戦いの時点で編成された混成師団)が加わった。
米第一◯軍団の北部レイテ討伐は主としてサマール島を対象。
その北端サン・ベルナルディノ海峡を確保した2/24をもって終了。
この作戦はこの島に配置されていた十六師団第九連隊第二大隊に損害と俘虜が出ただけでレイテ島の戦いとは余り関係ない。
南部レイテの掃討は2/23再開。
5/8に完了。
これは第八軍地区司令部 Area command の統一作戦と称される。
詳細は未詳。
これは第八軍の中に新設された一種の方面軍らしい。
第八軍は2/28のパラワン島上陸を皮切りにミンダナオ、パナイ、ネグロス、セブに機動掃討作戦を開始。
このうちミンダナオを除いたビサヤ諸島を「地区司令部」が担当。
レイテ島西部ではアメリカル師団が七七師団と交替。
2/2, 司令部の一部をバレンシアに前進させた。
この師団が3/26, セブに移動した後の、掃討の最終段階はゲリラに任せられたらしい。
フィリピン第一師団の名が記録に現れ5/8までに、戦死14, 負傷38の損害を出している。
これは恐らくカングレオンのゲリラ第九二師団の改称で九四、九五、九六連隊の三個連隊編成である。
ゲリラ一個連隊の兵力は500位。
約1,500名の師団である。
1月-2月のカンギポットの状況は現地よりもこの頃のタボゴン(パロンポン対岸)にあった第一師団によって記録されている。
「須山日誌」に1/26よりレイテ島方向に砲撃頻り、とある。
砲撃煙も目視された、と土居参謀は言う。
2/1, 砲声は著しく鎮まった。
が、1/27, 金田集成大隊(百二師団基幹)防禦正面(東南)突破さる、と報告された。
2/6, タボゴンーセブ市ーレイテ間の通信状況は極めて不良に。
レイテ通信所より状況悪化、暗号書を焼却しても可なりや、と事務信をもって問い合わせて来た。
2/12, セブ市の軍留守部隊から、2/4, バンカー(丸木舟)3により、2/8バンカー2により中尉(姓名不明)一行がレイテ島を出た。
が、未着につき捜査願度と依頼電報があった。
これは1/20の地号作戦第4時輸送以来、初めてのカンギポットよりの脱出。
しかし、その後関連記事無く結果は不明。

今日はここまで。

 

5時過ぎに起床し畑へ。

すっかり寒くなったがヘチマは踏ん張っていた。

いつものように液肥を施肥したら6時過ぎに帰路に。

帰宅後、朝の家事。

今日から味噌作りに向けて米麹作り。

昨夜から水に浸けていた米をざるに引き上げ。

続いて、麻炭きな粉全粒粉クッキー作り。

麻炭は普段炊飯器に投入しお米と一緒に炊いている。

が、スティック状で細いのですぐ折れる。

かけら状になった麻炭はパウダーにしてクッキー作りに使用。

お値段高いので最後まで使い切る。

11時から米麹作り。

まずは米を蒸す作業。

水分が多い新米で蒸すと柔らかく仕上がる。

こりゃまた糖化麹になっちゃうか?

そしたら、西京味噌を作るまで。

昨年作った味噌が残り少なくなってきたので、2週間で完成する西京味噌風の味噌はありがたい。

来月は自主防災組織の仕事が結構忙しい。

出来れば今月中に味噌作りを終えたいところ。

米麹作りは水分少なめの古米に限る。

種麹菌をまぶし、パイレン布と晒布で包んだら発酵機へイン。

まずは、33度設定で様子見。

明日の朝の品温で温度設定を調整する事に。

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌汁、昨日の鮭カマでお腹を満たした。

昨日は19時に夕食を食べようと準備していたら、吞み会に行った筈の夫が激怒して帰宅。

訳を聞くと、色々思い出したのか、更に激怒。

もう、夕食どころで無くなった。

怒りが収まらない様子だったので、自分は自室に退避。

まったく迷惑な話だよ。

参加者を怒らせるとか。

おかげで夕食を食いっぱぐれた。

当の本人は朝もまだ激怒。

が、11時に区役所へ障害者手帳の申請に向かい、まだ帰宅せず。

自分は昨日の昼を最後に食べていないのでお腹ペコペコ。

12時から一人で食事。

夫は12時半に帰宅。

障害者手帳申請に必要な書類は全て揃っているので、即日交付かと思いきや、2ヵ月掛かると言われたそう。

いやいや、必要書類のマイナンバーは幾ら見返した所で数字の羅列。

年金証書は社会保険庁が認定し発行したもの。

何度審議しても、次の更新時期まで、覆らんよ。

2ヵ月間何するん?

もしかして、日本語に不自由な方達?

今から提出書類を翻訳するんか?

税金で飯を食う公務員は日本語に堪能な日本人を雇って欲しいものだ。

夫は帰宅途中から頭痛が酷くなり昼食を食べず、保冷剤で頭を冷やしながら、臥せった。

午後は自主防災組織の仕事。

防災訓練のアンケートの集計を行った。

現時点で約100世帯から寄せられ、質問が15問もあると、集計も一苦労。

何でも屋の隊長は部下が居ない。

締切は明日だが、その前に来た分を集計しといて良かった。

次年度以降はやり方を変えるよう申し送りする事に。

 

15時半から夕食作り。

ローストポーク、キャベツの千切り、昨日の鮭カマ、昼の目玉焼き、炒り落花生、ウォッカ梅酒ロック。

これに玄米ご飯と味噌汁をプラス。

19時に食べる事に。

 

歩数計は4944。

充実した一日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オートファジー1880日目と『レイテ戦記』104

2026/11/3火曜日

スマホはハッキングされ漢字変換できないのでパソコンから投稿。

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

十六師団の衛生上等兵はこの頃雨にたたかれながら山中を彷徨っていた。
彼はブラウエン作戦が決まり北上を開始すると銃を棄てた。
こんな辛い行軍に銃を持っている事は無い。
後に従う兵に向かい、
「おい、皆見てろ、俺は銃を棄てるぞ。棄てたい奴は俺に見習え」
そう言いながら彼は銃を崖から投げ込んだ。
4,5人の部下が彼に倣った。
同行の軍曹は何も言わなかった。
彼は自分の行動は是認されたと信じている。
半月以上何も食べていなかった。
歩きながらふっと意識が遠くなる事があった。
耳も遠くなった。
絶えず耳鳴りがして僚友の言う事が聞こえない。
何気なく耳を穿ってみるとサザエの腸程の大きな垢が固まって出て来た。
何となく情けなくなってきた。
彼は泣いた。
彼の隊の応召の軍医中尉と見習士官が敵上陸の2日目、東海岸キリン付近で投降を提唱。
その時は皆で反対して止めさせた。
が、この軍医と見習士官はブラウエン作戦に参加の為山越えの途中、落伍して行方不明になってしまった。
彼は軍医は単独投降したと思っていた。
彼は現役兵だったがパターン半島の戦いに参加。
3年ルソン島に駐屯。
私的制裁と猥談に暮れ、住民からサービスと称して物資を巻き上げたりする駐屯生活が嫌になっていた。
彼は京都西陣の小さな下請け織屋の息子。
幼時父を失い母親に姉2人と共に育てられた長男。
戦争が激化するにつれ下請けの仕事は無くなり生活苦に。
こんな世の中にする軍人達を憎んでいた。
挙句の果てに地の果てのような所へ連れて来られ負けるに決まっている戦いに命を賭けさせられるのは馬鹿馬鹿しく嫌であった。
命が惜しかった。
天皇陛下なんてものが上に居て意味も無く命を捧げさせられる国に生まれた事が恨めしかった。
敵が上陸すると、すぐ俘虜になろうと言った軍医に彼は内心賛成。
しかし、手をあげても殺されるかもしれない。
どんな目に遭うかもしれない。
それが怖かったので勇気が出なかった。
2月中旬、上等兵の一行は何処かわからないが広い道のある所に出た。
ジープが往来しフィリピン人が麦わら帽子を被って呑気そうに歩いている。
そういう生活が羨ましかった。
夜、道は容易に突破出来たが彼は仲間についていかず道傍の灌木の繁みの中に伏せていた。

仲良しの上等兵が帰ってきて小声で名前を呼んだ。
こういうやり方もあるのだ、と教えてやろうか、と思った。
投降するには1人より2人の方が心強かったが引き止められるのが怖かったので黙っていた。
その友達が行ってしまってから夜が明けるまで彼は繁みの中で祈っていた。
自分をこんな目に遭わせる神仏は信じられなかった。
が、母の愛だけは信じられた。
彼は母の面影を心に描き、どうか無事に俘虜にさせてくれるように祈った。
夜が明けると、道には再びトラックやジープが通りだした。
金髪の米兵が何か談笑しながら運転して来るジープの前に、彼は両手を挙げて現れた。
ジープは止まり米兵は当たり前の事のように「ヘイ、カムオン」と言って彼の手を取って引っ張り上げ煙草をくれた。
この上等兵の場合は筆者の知る限りレイテ島の俘虜で単独投降を告白した唯一の例である。
他にセブ島で終戦前に部下と共に山を下りて集団投降した軍医が居る。
投降が軍医や衛生兵に多く出て、また告白されるのは、元来任務が非戦闘的だからで、歩兵のように軍人的良心の制約が強くないからであろう。
投降は人肉喰いと共に敗軍中の最も微妙な問題である。
兵士達は戦陣訓により「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられ、俘虜については国際協定が存在する事を知らされなかった。
戦意を保つ事が物力の不足を補う為に必要だったからだ。
投降は既にガダルカナルで記録されている。
投降にはこの衛生上等兵の場合のように内心が危機に際して現れるような衝撃的な場合の他に思想的投降と言うべきものがある。
日本帝国主義の手先になって死ぬのを拒否しむしろ敵陣に加わるのを選ぶ。
これは無論コミュニズムの思想に基づいた行為で、ソ連軍、八路軍に接した北満や北支戦線に現れた。
しかし、フィリピンの場合は兵隊はそんな計算を巡らす暇もなく戦闘に巻き込まれた。
そして、米兵の民主的寛容も真珠湾の不意打ちをやっている以上あてにはならなかった。
事実「アイ・サレンダー」と言って手を挙げる日本兵を射殺する米兵がレイテにも居た。
一方日本兵には白旗を振り近寄る敵を不意に射撃した例がニューギニアにある。
タクロバン付近でも記録されている。
米兵は報復的感情を持っているだけでなく、こういう事実を戦訓として教えられていた。
そして、フィリピン人はこれまでの略奪、虐待、処刑の報復として間違い無く首を斬るだろうと信じられていた。
十六師団の衛生上等兵の場合は巧みに相手を選んで投降した場合である。
この頃は作戦は終わり米兵もフィリピン人も上陸したてのように気が立っていなかった。
食糧が無く山中を彷徨う日本兵が可哀相な存在として映り出していた。

今日はここまで。

 

 

5時半に起床し朝の家事。

昨日雨だったので今日は畑はお休み。

洗濯を回している間に昼食の下ごしらえ。

長男からランチの予約が入っている。

7時50分に買い物へ。

8時半に帰宅後、昼食作りの続き。

9時に長男と孫達が到来。

その間も引き続き食事作り。

夫と長男達は10時に見頃を迎えた近くのコスモス畑を見に出かけた。

10時50分に昼食作りは完了。

ポークビーンズ、ジャーマンポテト、ゆで卵、たくあん、蜆の味噌汁、ご飯。

引き続き、干し柿作り。

皮をむき沸騰したお湯に15秒付け熱湯消毒。

外に干した。

11時半にご一行が帰宅。

一緒に食べた。

3人ともモリモリ食べていた。

15時に帰っていった。

夕ご飯は昼の残りと鮭と大根おろしで済ませる事に。

 

歩数計は3,693。

充実した一日だった。

 

 

オートファジー1879日目と『レイテ戦記』103と玉ねぎ植付け

2026/11/2月曜日

3時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

多くの兵がこの辺の山中に温泉が湧き硫黄の噴気孔があったのを記憶。
住民が何か煮沸するらしく、潰れたアルミの水呑みが放り出してあったりした。
戦闘があったらしく日本兵と黒人兵の死体があった。
米軍の戦死体収容は味方に関する限りほぼ完全。
米兵の死体を見た日本兵は少ない。
ブラウエン方面の黒人兵、ルビ方面の一一空挺師団の兵士とこの黒人兵が筆者の知るただ3つの例である。
軍司令部がパロンポン方面に移動した噂はこの辺の山中にも伝わっていた。
オルモック街道を突破するのがさしあたってレイテ島上の敗兵の望みであったが、この方面でも米パトロール隊が山脚地帯に侵入。
道路上には絶えずトラックが往来。
日本の敗兵は何度も道路に近づいては押し戻された。
突破を諦め、脊梁山脈中に所謂「瀬降り」を作って自活を始める兵も居た。
レイテ戦末期で人肉喰いの噂が発生するのはこの頃。
米軍やフィリピン人には殆ど会わない。
日本人同士喰い合う。
徒党を組んで輜重兵の負荷を狙う追剥がブラウエン作戦の段階から発生。
作戦終了と共にそんな獲物も無くなった。
その時、孤立した兵士を殺し喰ったと信じられている。
実行者は告白しないし目撃証人も居ない。
しかし、兵隊は元来この種のゾットするような話を好む。
北満や蒙疆の雪中に孤立した中隊とか、ガダルカナル、ニューギニアの密林の敗兵の間で行われたとして噂は太平洋全体に拡大。
↑ビルマのインパールでもあった。

 

レイテ島にも同じ噂の発生する条件が揃っていた。
↑大本営が「自活自戦命令」なんて出すからやろ!
こんな遠い南国の島まで無理矢理連れてきてほっぽらかした。


多くの者が「危ない」と思わせる人相の悪い兵士の一団に会った記憶を持っている。
必ず2, 3人連れ立って歩き行きあった時には「こっちにはまだ力があるぞ」と言うことを示す為に「おう」と声を掛けてすれ違った。
夜の一人歩きは絶対に禁物。
同じような事がルソン、ミンダナオ島でも語られている。
ある十六師団の兵士が同年兵に巡り合った。
他の中隊の下士官が一緒。
猿の肉と称する干し肉を勧められたが、気味が悪く止めた。
その夜、同年兵から秘密を打ち明けられた。
下士官を殺して食糧を作り米軍の陣地を捜して投降しようと誘われた。
が、気味が悪くなって逃げ出した。
これは筆者が『野火』という小説にした挿話。
この十六師団の兵士は生還。
しかし、この場合も彼の行為は未遂。
実際に行われた事に関しては伝聞しかない。
しかし、終戦間際のルソン島北部の山中では中隊単位で報復的に喰いあった話が伝えられる。
「指がついた」人間の腕を齧る病兵を目撃した兵士の証言がある。
フィリピンの女の解体された死体を見たと言う。
この微妙な問題についてはまた後で触れる。
此の間に二十六師団長山県栗花生中将、幕僚を含む師団主力はドロレスに向かい、バレンシア南方でオルモック街道を越えようとした。
軍命令は1/10以降の集合地点として、ナグアン山を指定。
バレンシアから真西に進路を取ればそこに到達する筈であった。
しかし、この辺のオルモック平野はかなり広く街道西側に広い湿原が拡がっている。
道路は夜に紛れ突破。
が、湿原に妨げられ西方山地に達する前に夜が明け敵に発見されてしまった。
道路方面よりの迫撃砲攻撃と米機の機銃掃射を受けて、山県師団長、丹羽作戦参謀以下全員戦死(加藤参謀長は別行動)
山県栗花生中将はその名の示す通り山県有朋の一族。
陸士二三期生56歳であった。
初期ニューギニア作戦で第四十一旅団長。
ユエに上陸した米軍を迎撃する為、その西方に上陸。
が、上陸地点が戦場から遠く、湿原に妨げられ戦闘に参加出来ず。
昭和19年初め釜山まで引き揚げてきた。
が、大本営はこういう将軍を東京へ帰らせない。
新しくルソン島派遣の二十六師団長に任命。
続いてレイテの死地に派遣され非命の死に遭った。
ダナオ湖方面を迂回北上した師団兵器勤務隊山森三平曹長らはもう少し北のカナンガ方面に突破路を偵察。
2月下旬夜暗に乗じて街道を越えた。
この頃米軍は沿道要地に駐屯するだけであるから、街道は夜なら突破可能なのであった。
途中大湿原に出会うとか、敵のパトロール隊に出会うとか偶然の不幸に遇わなければ成功したのである。
山森曹長は西進してパナハン山付近に達した。
山中には諸隊の敗兵が集まっていた。
彼は山県師団長と同行していた曹長に会い、師団主力の最期を聞いた(この曹長は後に戦死)
やがて軍司令部がカンギポットにある事を知り、部下と共に移動する。

今日はここまで。

 

4時半に起床し、ちょいとパソコン作業。

5時から納豆作り。

昨夜から水に浸けていた納豆用小粒大豆を圧力鍋で30分蒸した。

5時半に畑へ。

今日は玉ねぎ苗の植付け。

まずは、落花生の収穫。

スコップで掘りまくった。

そして、そのまま畝作り、と思ったらマルチを忘れた事に気づき、一度持参した液肥を施肥したら、家にマルチを取りに行く事に。

2度目に畑に向かう時はすっかり夜が明け、百花繚乱のコスモスが目に入った。

畑に戻ったら、畝作りの続き。

次に苗の植付け。

更にもう一畝。

購入した100本の苗は途中で捌けた。

続きは畑で種から育成中の紫玉ねぎの苗を植付け。

9時半に作業完了。

 

帰宅後、朝の家事。

洗濯機を廻している間に昼食の用意。

ジャーマンポテト、明太子と紫蘇の実パスタ、なめこと菊とオクラの和え物。

その合間に、収穫した落花生を茎から外し干す作業。

ついでに、先日直売所で購入の赤唐辛子も干す事に。

干した方が保存がきく。

そして、かれこれ2週間以上干していた小豆はジップロックへ。

あんこのストックが無くなったら、使用する。

そうこうしているうちに11時半を過ぎたので、昨夜以来の食事を食べる事に。

自分は納豆ご飯と味噌󠄀汁メインでお腹を満たした。

午後は、調べ物。

からの寝落ち。

途中、雨が降ってきたのがわかったものの、遂に起き上がれず、そのまま寝続けた(笑)

14時から降る予報だったので洗濯物は予め内側に干してある。

15時半に覚醒。

雨は小降りだったので洗濯物は濡れていなかった。

取り込んだあと、夕食作り。

炒り落花生、鶏のさっぱり煮、チーズはんぺん、カニカマサラダ、フレンチトースト、ウォッカ梅酒ロック。

これに味噌󠄀汁と玄米ご飯をプラス。

炒り落花生は昨年収穫の落花生。

昨年はほんの少ししか取れなかった。

毎年ね、落花生の収穫が近くなると誰かが食べに来るんよ。

で、畑で食い散らかして行く。

絶対日本人じゃない。

純日本人は泥棒しない。

獣だとしても獣に憑依した悪魔。

今年は昨年の4倍は取れた。

節分で家族の分は賄えそう。

19時に食べる事に。

 

歩数計は7963。

充実した1日だった。

 

オートファジー1878日目と『レイテ戦記』102

2026/11/1日曜日

4時に覚醒し、最新情報をチェック。

昨日の10/31は、巷の情報によると、イルミナティさんの悪魔崇拝儀式の日。

Halloweenとも言う。

Xで、儀式が行われてないか検索。

今のところ表に出てきているものは無かった。

が、現在、本物かどうかわからないが、ヒラリー・クリントンやロックフェラー当主夫妻、ハンター・バイデンなどが来日中との情報があったので、念入りに検索。

仕掛け人、見届人として来日の可能性はある。

日本から出ていくまでは要警戒。

4時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 


1/20, 大本営では「帝国陸海軍作戦計画大綱」による本土決戦構想が決定。
2月以降8月迄に50個師団を動員。
これを太平洋岸に展開。
銃も手榴弾も無い歩兵であるが火焔瓶で一時敵の進撃を停頓させる事が出来ればその間に温存した特攻機が敵艦船に殺到。
上陸作戦を頓挫せしめたところで有利な条件で和平交渉に入ろうという夢物語であった。
敵の次の進攻地点は硫黄島、台湾、沖縄に想定。
服部作戦課長は先に沖縄から台湾へ移動させた第九師団の補充に姫路の第八十四師団の輸送を計画。
既に上奏していた。
計画は宮崎第一部長の緊急提議により中止。
制空権、制海権も無い海上で撃沈される率が99%と予想されたからである。
(服部大佐が第十三軍へ転属されたのは恐らくこの独断処置の為)
一兵と雖も温存すべきであった。
ルソン島は勿論、台湾、沖縄、硫黄島でも遷延作戦を取り、本土決戦の為の動員、資材蓄積の時を稼ぐべきであった。
21日、「国民勤労動員令」が下り国民の根こそぎ動員が始まる。
12/26, レイテ島上の米軍の指揮は第六軍から第八軍に。
以後米公刊戦史に詳細な記載を欠く。
が、諸隊はほぼ次のように配置された。
西部 第七師団 パロンポン=ドロレス以南
第七七師団 右の線以北、主としてサン・イシドロ半島西海岸(サン・イシドロ、ビリヤバ、アビバオに各一個大隊駐屯)
フィリピン第一師団(旧米比軍九ニ師団の改編)が右に協力
東部 第十一空挺師団 ブラウエン地区
第九六師団 ダガミ
第二四師団(三四連隊のみ) ハロ
第一騎兵師団 カリガラわタクロバン
第三八師団 ドラグ、タナウアン
第七師団は1/15以降の掃討戦で数千の日本兵を殺したと称する(この師団の報告は常に誇張されている)
オルモック湾口のカモテス諸島に上陸し、日本兵500を壊滅させた。
日本側では1/28、ポロ島駐屯船舶工兵部隊長鬼頭中佐より、本夜玉砕の予定の電報を記録する(加登川参謀「手記」)
七七師団は1月26日より攻勢。
セブ島のタボゴンに転進した日本軍の第一師団はレイテ島方面に殷殷たる砲声を聞いた。
「須山日誌」は1/27以降無電連絡(セブ市経由)不良を記録。
2/1、金田部隊正面(ブカブカ東南方)突破さる、との報告を受ける。
三十五軍司令部がカンギポット山中腹の洞窟に移動したのはこの頃であろう。
ブラウエン方面の米十一空挺師団は1/1から2/15の間にマフナグ山の南麓に立て籠もった日本兵若干を激烈な白兵戦の後掃討したと記録。
これはブラウエン作戦後の十六師団戦闘司令所の位置であろう。
この時点でこういう抵抗を示す日本兵は司令部の他には考えられない。
やがて九六師団はダガミからカリガラに到る脊梁山脈東側全部の警備を担当。
第一騎兵師団、二四師団、一一空挺師団は次の作戦に備え東海岸で休養させられる。
十六師団の敗兵は脊梁山脈東側をダナオ湖を目指して移動。
カンギポットは晴れていても脊梁山脈の中は雨。
米九六師団の哨戒隊は山脚地帯深く侵入。
標高500mの山腹の樹林の中を行く。
これらの道は緒戦以来何度も十六師団の兵隊が往来。
山中に自ずから道が出来ていた。
道傍に戦死者の白骨があるのが道標だった。
食糧は尽きていた。
小銃を持っている者もそれを捨て、弾薬盒、帯剣も捨て、ただ野草を煮る為の飯盒だけを腰にぶら下げ、三々五々気の合った者が連れ立って歩く、幽鬼のような姿。
↑インパール作戦の最後の方と一緒。

哀悼。

 

二十六師団主力も1月下旬、タリヤサン川上流の露営地を捨て、脊梁山脈の西側を移動。
オルモックを起点とする米パトロール隊との接触を避けて山中の道を辿り一部はダナオ湖で十六師団と合流。
しかし、ダナオ湖は火口湖であるから魚は無い。
日本兵の集合を知ったゲリラの攻撃の目標となる。
2月中旬には十六師団、二十六師団の兵の大部分はダナオ湖=ドロレスを結ぶ山径を越えていたと思われる。
この線の北はアルト、マムバンなど北部レイテの高山の連なる地帯。
厚い熱帯性雨林に蔽われている。
叢林の上方を閉す梢からは絶えず雨滴がしたたり落ちる。
腐食した落ち葉が積もって下まで潜る下土を作っている。
雨滴と一緒に山蛭が落ちてきた。
耳の中、瞼など人間の粘膜に取り付き、乏しい血を吸って太る。
朝眼を覚まして兵達は眼の前に蛭が縄のれんのようにぶら下がっているのに気がついた。

↑日本に帰りたいね(泣)

今日はここまで。

 

5時過ぎに起床し、朝の家事。

昨日は結婚式でそれなりに疲労はある。

が、達成感に満たされた心地良い疲労感。

今日は自分も自治会役員会があるが、真ん中の孫も幼稚園の面接がある。

夫はテニスの大会に参加。

夫は朝から酷い頭痛を訴えていた。

恐らく電磁波攻撃による放射線障害。

が、本人はそういうの、信じない。

まずは、梅干しの黒焼きの種をキャンディのように舐めさせ、おしゃぶり昆布を与えた。

そして、朝食は食べれそうにない、と言うのでおにぎりを2個製作。

一つは自家製梅干しと自家製カツオ昆布。

もう一つは鮭と紫蘇の実漬けと自家製胡麻で、握った。

 

次に、面接後、孫達が来るというので麻炭きな粉全粒粉クッキーを製作。

全粒粉と小麦粉を半々にしたのでそこまでボロボロにならずに焼けた。

焼いている間に昼食のおかず作り。

卵焼きにはエビ粉と紫蘇の実漬けを入れた。

大根きゅうり人参サラダには自家製胡麻を掛けて、おもてなし。

連日のイベントで、皆、それなりに疲れてるからね。

8時45分にコミュニティセンターへ。

自治会役員会に出席。

11時に終了し、帰宅すると、おやつだけ減っていた。

次男に聞くと、長男と孫達が来たが、じいじもばあばも居ないので再び出掛けたそう。

自分は役員会の書類の後片付けをしたら、洗濯物を畳み、休憩がてら、検索。

昨日着用の着物のクリーニングについて。

自分で手洗い出来るものは極力手洗いする事に。

留袖と長襦袢はクリーニングに出す事に。

あとは、お直しについても調べてみた。

未婚の子供は次男だけになった。

その、次男の時に着るなら、袖丈を長くしたい、と思う。

それでなくても、とても良い留袖で気に入っている。

なので、次代に受け継いで行きたい。

その為にも良い状態、寸法で保管する事に。

12時過ぎに長男と孫達が到来。

近在の公園で遊んで来たんだそう。

昨日は頑張って長時間に及ぶ結婚式でお利口さんして、リングキッズの大役も果てしてくれた。

今日は思いっきりのびのびと遊んで欲しい。

朝9時から幼稚園の園庭の遊具で遊び、そのあと、公園で遊び、楽しかったよう。

ばぁばが作ったおかずとご飯、昨日の残りの味噌󠄀汁をモリモリ食べていた。

一番上と末の孫はそのあと、お昼寝。

真ん中の孫は、お昼寝無しで、じいじとばあば、おじさん、昼過ぎに来たおばさんを独占し幸せに遊んでいた。

皆で、昨日の結婚式の写真や動画をシェア。

見直しながら、あーでもないこーでもない盛り上がった。

長女は昨日の式で頂いたお花を一杯届けてくれ、孫達も喜んでいた。

長女に疲れてないのか聞くと、昨夜から10次会までやり、朝の4時まで呑み倒したそう。

尚、新郎は疲れ果て、先に帰ったそう。

明日は普通に出社するそう。

16時に長女を最寄駅まで送迎。

帰宅後、夕食作り。

麻婆豆腐、梅と紫蘇の実漬けのとろろ、玄米ご飯、ぶりの味噌󠄀汁、ウォッカ梅酒ロック。

ブログをアップしたら食べる事に。

 

歩数計は3858。

充実した1日だった。

 

オートファジー1877日目と『レイテ戦記』101と結婚式

2026/10/31土曜日

3時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

1月、東海岸と脊梁山脈はまだ雨に閉ざされていたが、カモテス海に面した西北部は晴れ。
セブ島同様、雨季は5月まで始まらない。
それに日本兵がこの地区に到着した12月が丁度収穫期にあたっていた。
農家には米、トウモロコシ、モンゴ(フィリピン特有の緑色の小豆)が溢れ畑を掘れば芋が幾らでも出て来た。
これは彼等がレイテ島で巡り合った唯一の幸運。
以来2ヶ月食糧に不足しない。
輜重兵は海岸に降りて海水を汲み煮沸し塩を作成。
夕方、海と空は真っ赤に夕焼け。
内海の海面の赤がだんだん暗くなり、そのまま闇に移行。
その頃、1日中沖に響いている敵の魚雷艇の音も絶える。
パロンポンからビリヤバ、サン・イシドロへ糧食を運ぶ補給艇の姿も見えなくなる。
アビバオからビリヤバまで10キロの直線の海岸に1日中響いている音が絶える。
その時は輜重兵が民家から徴発したドラム缶に海水を汲み込む時。
それから夜明けまで煮詰めて塩にする。
↑インパール作戦の時は糧食補給が途絶えた後、ジャングルの草と水で飢えを凌いだ。
が、最後、兵や馬が痙攣して死んでいった。
塩の補給も途絶えたからと判明。
その後、兵はお互いの背中を舐めあった。
インパールは山の中だから海水は無かった。


しかし、1/9, 住民は貯蔵の食糧と共に一斉に居なくなった。
米軍の指令によりパロンポン方面に移住。
絨毯砲撃の前触れ。
分散して壕を掘れば被害は大した事は無かった。
住民の退去により焼畑耕作の狭い丘陵地帯は15,000名の将兵を養うに十分ではなくなった。
軍参謀部付将校目賀田守種少尉は京大農学部出身。
リボンガオで胸に負傷していたが、ブカブカに着くとすぐ部下を指導。
付近の畑に芋を植え付けた。
永久抗戦の態勢を整えようとした。
が、その収穫を見ることは出来なかった。
地号作戦によって、第一師団の将兵800をセブに送り出した後、カンギポット周辺の諸隊は次のように配置。
ビリヤバ 六十八旅団
ティブル 四十一連隊(三十師団)
ホルダン 第一師団残部
ブカブカ南方 七十七連隊(三十師団)
ブカブカ東南方 金田集成大隊(百二師団)
諸隊の統帥はさしあたり1/15の次の命令に従って行われたと思われる(第一師団須山参謀のメモしたもの、従って同師団関係しか記されていない)


尚(三十五軍)永作命甲第十六号、昭和20年1月15日。
一、二、三、四(原文省略)
五、炭谷部隊長(四十一連隊)は自今玉(第一師団)兵団長の作戦任務を継承すべし。
特に「アビバオ」附近の敵を速やかに撃攘すると共に、海岸線の戦備を強化すべし。
盟兵団(五十八旅団)関部隊は18日迄に作戦地域に到り、其の指揮下に入らしめ、玉兵団残置及び残留部隊をして警備に協力せしむ。
八、玉兵団長は作戦任務を岸谷部隊長に委譲すると共に、警備に協力せしむべし。
九、玉兵団残置部隊は現在地附近に於いて自活に任ずると共に、警備に関し岸谷部隊に協力すべし。
十、高千穂部隊大村隊(荒瀬隊を含む)は予の直轄となり、集団司令部附近に位置し、随時各方面に進出し得る如く準備すべし。


高千穂部隊とは何度も書くように、ブラウエン飛行場襲撃の為、内地から進出した落下傘部隊である。
オルモックに敵が上陸した為、第二次降下隊約90がバレンシアに降下。
大村隊は第一師団に荒瀬隊は軍司令部に配属された。
が、第一師団転進により一括軍司令部護衛兼予備隊となった。
第五十八旅団は固よりリンガエン湾防備に就いていた部隊。12/7、その三百八十大隊(関大隊)が第六十八旅団と共にサン・イシドロに上陸していたが、逐次カンギポット方面に集結させられる。
1月9日以来ナグアン山(パロンポンの東10キロ)にあった今掘支隊(二十六師団独歩十二連隊)も2月上旬カンギポット付近に転進。
アルブエラ方面にあった二十六師団にも1月10日付ナグアン山に集結を命令。
しかし、その後師団長山県栗花生中将以下師団主力は行方不明。
ブラウエン方面の十六師団とは全然連絡がついていなかった。
十六師団はレイテ島防衛の謂わば主任師団である。
三十五軍の永久交戦区域はレイテ島だけではなく、セブ、ネグロス、パナイ、パラワン、ミンダナオに渡っている。
鈴木軍司令官にとって、早くセブに脱出して、諸島駐留部隊を掌握指揮するのが急務。
しかし、中将は残存部隊を組織し指揮官を決めるまで、レイテ島を離れる気は無かった。
一つの決戦を失った主将としてせめて終盤の形を作るまで戦場を去る気は無いのであった。
方面軍司令部は既にマニラを棄ててパギオに移り、実際上連絡は切れていた。
2月中旬セブからバコロドに移った加登川参謀は、三十五軍を方面軍から離し南方総軍の直轄とする案を具申。
しかし、幾ら形を整えよう、三十五軍がレイテ島カンギポットに孤立。
撤収しようにも大発が無いという状況に変わり無い。
2月に入るとアビバオ、ビリヤバ、北マタコブ三方から敵に圧迫され、軍司令部はカンギポット山中腹の洞窟へ移動する。

今日はここまで。

 

4時に起床し、結婚式に出席する準備。

風呂敷に包んだ着物一式をリュックに入れ、5時過ぎに最寄駅へ。

始発で東京の式場へ。

7時過ぎに六本木駅近くの式場へ到着。

早速、ヘアメイク、着付けへ。

自分はおかっぱ頭のボブが希望。

メイクもナチュラルでお願いした。

そして、次は着付けへ。

長襦袢の袖がはみ出るのは安全ピンで調整。

帯は、やはり足りず、二重太鼓ではなく一重太鼓になる、と着付け師さんに伝えられた。

今回の出席者は85%以上が30歳以下の若者。

58歳のオバハンのお太鼓になぞ興味を持たないであろう、と思い快諾。

10時からの式前にファミリーミートやら、式のリハーサルやら色々あり、あっという間に式がスタート。

新婦母のベールダウンも無事に済ませ、孫達のリングガール&ボーイも見守り、乾杯をし、あっという間に、11時からの披露宴へ。

新婦のお色直し中にゲストへの挨拶。

これで、新婦母の任務は終了。

心置き無く食べ、呑み、楽しい時間を過ごした。

そして、ここもあっという間に13時が過ぎ、両家からの挨拶で前へ。

13時半に閉宴後は、来てくださった方々へグループ毎にお見送り。

14時過ぎに新婦母のお役目終了で着替え。

6時間弱の黒留袖着用。

着物自体は全く苦では無かった。

むしろ、きちんと着付けて頂いたので着心地が良かった。

草履はちょいと痛いと感じたが。

持込の留袖なので、脱いだあと、畳んで持ち帰らないとだ。

畳み方は、マスター。

来た時同様風呂敷に包み、リュックに入れ帰路に。

16時15分に帰宅後、夕食の下ごしらえ。

それが済んだら、洗濯物の取り込みと着物の後片付け。

17時から夕食作り。

鶏の塩唐揚げ、サラダ、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。

これに、納豆と昨日の残りのお味噌汁をプラス。

19時に1人で食べた。

夫と次男は疲れて寝ているのか、ご飯だよーと言っても起きて来ず。

モリモリ食べた。

 

歩数計は5837。

充実した1日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オートファジー1876日目と『レイテ戦記』100

2026/10/30金曜日

1時半にトイレに立ったあと、寝かせてくれなかったので、読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 

二十九カンギポット1/21-4/19


レイテ島西北部に耳のように張り出した半島の地質調査は完全では無い。
が、全体として第三紀の地向斜(海成層)である事に、専門家の意見は一致。
つまり、火山性の脊梁山脈より古い地盤が隆起したものである。
ビリヤバからロモノン間に100m位の海岸段丘を形成。
サン・イシドロ、シラド、パロンポンなど湾入部では、隆起珊瑚礁が発達。
これが日本軍の大発をしばしば座礁させ揚陸作業を妨げた。
海岸から東方20キロのオルモック河谷まで高原性の丘陵地帯になる。

分水嶺が南北に貫いていて、それは、北部サン・イシドロの方面では東に偏し、ビリヤバの辺から、西部海岸に迫っている。
山地は縦横に雨水で開析されては居るが、標高200mぐらいの低山であるから、脊梁山脈のような厚い叢林は発達しない。
気候はむしろ内海性で東海岸程雨は多くない。
従って谷の奥や東斜面を蔽う原生林も厚くない。
この地区の農民は古い焼畑耕作を取っていた。
原生林を焼き払い、その灰を肥料としてトウモロコシ、芋、トマトなどを植える。
4, 5年で畑が放棄されるとそれらはまずコゴン草に蔽われた草原と成る。
やがて灌木が育って第二次森林となる。
カブランからビリヤバへ転進した第一師団の将兵が記憶している山の頂上まで耕された丘、平坦な草の高原はこうして作られたものであった。
カナンガからバリティに転進した百二師団はパグサンガハン川の流域を伝って山地に入った。
カンギポット山北方付近で低い分水嶺を越え、西流するバリティ川を下って西海岸に出た。
この道は殆ど耕地の連続。
古い車輛道があった。
師団が最も早く西海岸に達する事が出来たのはこの為である。
自動車道路はリボンガオから西南方マタコブに向かいティポロ、コンピサオの峠道を経て、パロンポンに通じた。
パロンポン付近に狭いながらも海岸平野が発達。
西海岸で最大の港、物資集散地となっているからである。
しかし、西海岸一帯は陸路よりむしろ舟行によって、オルモック或いは対岸のセブ島に結ばれていた。
高原性の丘陵の表面は脊梁山脈の火山が噴き上げたロームによって蔽われている。
が、1m掘るとパロンポン・クレイという固い粘土層にぶつかる。
この粘土は水を含むとひきしまる性質を持っていた。
また、海岸に近い台地は大抵隆起珊瑚礁。
リモン峠の火山灰地帯で易々と壕を掘った第一師団の兵士がこの地区の壕堀の難しさを記憶。
この粘土層の間にタバンゴからアビバオにかけて、南北に細長い頁岩、凝灰岩の露呈がある。
地表は草と樹木で蔽われるが処々残丘となって高原の中に聳え立つ。
アンチポロ東方の七三九高地、歓喜峰と呼ばれて永久抗戦の拠点に選んだ標高359mのカンギポット山もそういう岩の残丘の一つだった。
本来のカンギポットはその北方2キロ離れて東西に延びる低い稜線。
歓喜峰は土地の人がその南麓に接した部落と共にブカブカと呼んだ山であった。
ブカブカの名は尚作電八三九号(1/2)に出ている。
が、響の良いカンギポットの名が取られた。
山そのものは歓喜峰の名に相応しい山容。
頂上の東側は比高70mの削ぎ取ったような岩壁になっていて、紫藍の岩肌が朝焼け夕焼けに赤く染まった。
付近の低山の間に聳立して、遠くからもよく見えた。
原隊を追及する敗兵はあそこまで行くと友軍が居ると勇気づけられそそり立つ岩の頂上を見詰めながら足を運んだ。
南北へかけて馬の鬣のように緑の草と灌木をつけていた。
麓には袴のように崖堆を巡らし岩壁の底部には自然の洞窟があった。
ビリヤバはサン・イシドロ、パロンポンと共に、西海岸の要地。
昭和18年10月から十六師団の一部が駐屯。
同時にゲリラの根拠地の一つ。
戦争初期有名な女頭首が居た。
先程の洞窟はゲリラが籠ってい。
ここに入った鈴木軍司令官は「主客交替だな」と苦笑。
軍司令部が移ったのは2月。
米軍の掃討作戦が激化してから。
それまでは南麓のブカブカ村のニッパハウスに分宿していた。
ブカブカ村は海岸まで4キロ。
パグサンガハン川の主流が最も深く西方山地に食い込んだ所である。
一方バリティ川はここから西に流れ出し海に向かっている。
川に沿って付近の鉱山から天然アスファルトを運び出す為の車輛道があり、大小7つの橋が架かっていた。
四方に連絡に便利。
軍司令部の位置として最適であった。
私(著者)は少しカンギポット付近の地誌を書きすぎたかも知れない。
↑いや、レイテ島で自活自戦の永久抗戦を命令された日本兵の船に乗れなかった残兵が最後に集結した場所がどんなところだったのか知りたかった。


しかしこれは以来6カ月レイテ島の敗兵が住んだ環境。
組織的戦闘は終了。
地形が勝敗を左右する事は無かった。
その自然、気候と土壌は兵士の日々の生活に重大な影響を及ぼした。

今日はここまで。

 

いつの間にか寝落ち。

4時に再起床。

畑に行こうと思ったら雨だった。

5時からパソコン作業。

これは、結婚式の準備。

プリントアウトし、終了。

6時から朝の家事。

8時半に買い物へ。

玉ねぎの苗を買いに出掛けた。

が、お目当ての晩生用の苗は売られていなかった。

11/10以降、と言われた。

OP黄と言う品種も12月まで保存可、とあったので、それは購入。

直売所で野菜や渋柿を購入し帰宅後、早速食事の下ごしらえ。

もってのほかと黄色の菊は花びらを毟っている間に12時に。

夕食で食べる事に。

渋柿は青いのが多数あるので追熟。

12時過ぎに昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌󠄀汁メインでお腹を満たした。

午後は明日の結婚式に向けて着物のパッキング。

家族は、式場まで宅急便で送れば〜と言われたが、これまで、3度荷物を水浸しにされた経験のあるわいとしては、大事な着物が水浸しになるリスクは避けたい。

持参する事に。

勿論、ビニール袋に入れてからバッグに収納。

今の時代、兎に角何でも動画で教えてくれるからありがたい。

16時半から夕食作り。

恐らく明日の今頃もいつも通り夕食を作っているんだろうな〜と想像しながら作った。

式と披露宴は10時から。

夕方15時には帰宅予定。

なめことオクラと菊の昆布和え、ヘチマとゴーヤの味噌󠄀汁、ホッケと大根おろし、さつま揚げ。

これに玄米ご飯とウォッカ梅酒ロックをプラス。

 

歩数計は4186。

充実した1日だった。

 

 

オートファジー1875日目と『レイテ戦記』99と畑

2026/10/29木曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』

 


20時、片岡師団長、須山作戦参謀など司令部の残りの全部と、アビバオで乗船出来なかった制毒隊35,歩一の72, 輜重第一連隊の70がティブル海岸に集結。
五十七連隊を運んだ大発がすぐ引き返してくる予定だった。
しかし大発は敵機の襲撃による損傷の為、出発出来なかった。
16日3時、部隊は山に帰った。
1/16の14時、玉作命甲第二十三号に拠り熊川大佐に現地自活を命令。
15日17時付、16日12時半受領の軍命令尚永作命甲第十六号第九項「玉兵団残置部隊は現在地付近に於いて自活に任ずると共に、警備に関し炭谷部隊に協力すべし」に基くもの。
師団命令は約1,600の病兵、負傷兵に、食糧現地調達を命令。
苛酷。
16時半、熊川大佐は海岸地区で物資収集。
塩焼きに従事していた輜重兵第一連隊の陣地に赴いて自活作戦について協定。
同日19時、第三次転進部隊は再びティブルに下った。
しかし、舟艇は依然来なかった。
翌17日朝7時、原位置に戻った。
同17日10時、「須山日誌」は勝田少佐の帰還を記録。
暫く消息不明に。
勝田参謀に残留を下達したのも恐らく熊川大佐と同時の15日。
参謀は不満の意志表示として司令部を離れた。
↑ビルマのアギャブで花谷に隠れて糧食を最前線の飢えた兵士に補給しようとした事がここまで尾を引くとは驚き。
花谷は兵隊は腹一杯だとよう働かんから食べさせない、と言っていた。
どんな教育受けたらこうなるんだ?

 

17時半、パロンポンの敵砲兵が始めてティブルを砲撃。
サンホセの155ミリ曲射砲は既に1/10以来、カンギポット頂上の岩を砲撃。
射弾集束はなかなか正確。
頂上の樹木が吹っ飛び山容富に改まった。
しかし、この頂上には少数の展望哨が居ただけ。
損害は無かった。
ティブル砲撃は敵が遂に新しい接岸地点を察した事を意味する。
早く転進を完了しなければならない。
22時、遂に舟が来た。
0時半、片岡師団長以下司令部60, 歩一主力71,輜重兵第一連隊73が大発3に乗って出発。
7:40、タボゴンに到着。
セブ島の地勢は北になるほどレイテ島に近くなる。
タボゴンが西南に海上45kmを隔ててアビバオに対している。
従ってその北方12キロのボゴの方が少し近い。
1/5,転進の福栄中将ら百二師団の一行始め、皆まずボゴに到達してから沿岸を南下。
ボゴ、タボゴン間の匪情は最も悪い。
タボゴン、ボルボン間がこれに次ぐ。
ボゴの北は狭い運河を隔てて、南北約20kmの細長いメデリン島となって尽きる。(厳密に言えば島ではなく半島。がボゴ湾の奥の深い頸部を打通した水路の印象により日本軍はメデリン島と呼んだ)
その北端タリサイに百二師団百七十三大隊(セブ)の一部が駐屯。
タボゴンには第三船舶輸送司令部セブ支部に属する船舶工兵400及び独混五十七旅団紙岡大隊約240(大隊本部28, 川田中隊70他二個小隊、軽機2=弾400, 小銃84=弾各80)が居た。
他に二十六師団十三連隊
第一機関銃中隊(佐方実郎中尉)及び第二中隊の一個小隊(岡本少尉)計137(重機2, 軽機4=弾各800、擲弾筒4, 弾200、小銃62=弾各130)がおり、ボゴ、メデリン方面を警備していた。

二十六師団十三連隊は11/10, 第三、第四次多号輸送でオルモックに送られたもの。
途中輸送船が撃沈され一部がメデリン島北端グアンバンタヤンに漂着。
以後百二師団の指揮下に。
別に第三中隊(二村茂夫中尉)がメデリン島にあった。
片岡師団長は19日7時半、タボゴン西南1キロの小部落に新しい戦闘司令所を設け、以来紙岡大隊と協力し付近の警備に。
同日、ボルボンに連絡の為出張中の土居参謀が帰着。
20日師団第四次輸送により四十九連隊第二大隊76名(軽機1、小銃40)輜重兵第一連隊153(小銃88)が師団参謀部付上田晴一郎大尉指導により大発3隻に乗って到着。
これで第一師団の地号輸送は完了。
結局13日から20日までの間にタボゴンに集結した兵力は次の通り。


師団司令部78
師団通信10
第五十七連隊174  小銃46、重機1,軽機1
第四十九連隊242 小銃178, 重機2, 軽機5, 擲弾筒3
第一連隊71 小銃41, 重機2, 軽機4
輜重第一連隊226 小銃88
合計801人
↑以上だよ。
レイテ島脱出したの。
残りは放置された。


1/7までにカンギポット周辺に集結した人員は約2,400。
約1,600名が残された。
上田大尉は捜索第一連隊の消息を師団に伝えた。
聯隊長今田義男少佐、副官大室官十郎中尉以下は12/22,三ツ瘤高地より撤収。
1/17,カンギポットの軍司令部の位置に到達。
が、折柄付近に砲弾が落下。
今田少佐、大室中尉戦死。
佐々木森義大尉の率いる45(軽機4、擲弾筒2)が残った。
そして、結局この後転進の機会は無し。
レイテ島に残り戦病死或いは俘虜となった第一師団の諸隊は、野砲兵第一連隊、捜索第一連隊、工兵第一連隊、及び転進諸隊の残部。
但し工兵にはバリティにあった壊れた鉄舟を修理して渡れという命令が出ていた。
それが修理不能だった為、残留部隊となった。
1/21の15時、尚セ作命甲第七号に拠り紙岡大隊及び佐方隊が第一師団の指揮下に。
タボゴン、ボゴ間のゲリラを掃討。
続いて行われる地号作戦による転進部隊の受け入れ態勢を整えるのが任務に。
しかし、地号作戦に使われた大発はこの時は3隻のみ。
1/12-13日アビバオで1隻炎上、4隻撃沈。
タボゴンで17日の8時、グラマン2機により、18日14時半、2機のP38による銃撃が記録される。
19日四十九連隊第二大隊を迎えに出動した3隻が残った全て。
1/24-27日間に逐次米機に発見され全滅。
しかしセブ船舶司令部本拠地セブ市とタボゴンの間には約80kmの海岸がほぼ南北に連なりカモテス海に面している。
ボルゴン、ソゴドに船舶基地があり、リロアンに軍貨物廠
、セブには工作所もあった。
新たにネグロス、パナイから舟艇を廻送。
セブにある破損大発や徴用機帆船を修理。
或いはバンカーを徴発。
地号作戦継続の努力はこの後も続いた。
しかし、第一師団800名の転進のような大規模輸送は最早望まれない。
「地号作戦」は1/20を以て事実上終了。

今日はここまで。

 

5時に起床し畑へ。

昨日は冬物のジャージで出動したが、今日は真冬装備のベンチコートで出陣。

ヘチマは踏ん張っていた。

いつものように液肥を施肥したら6時に帰路に。

帰宅後、朝の家事。

やる事やったら、結婚式の準備。

娘の。

黒留袖の着付けの時に使用する補正用のガーゼ、晒、脱脂綿を用意。

何せ片乳無いし、もう片方は巨乳だし、着付け師さんも困るだろう、と色々用意する事に。

帯はメジャーで測ったら4mちょいあった。

次にちょいとパソコン作業。

花嫁が中座中に新婦両親は招待客をお酌しながら回る、と言うので長女から渡されたリストに一言メモ書き。

夫にもコピーを渡す。

お喋り好きの長女のおかげで、ほぼ全員知っている。

が、遠方から来た事や最近結婚した等の近況をメモ。

9時過ぎにコミュニティセンターへ。

自主防災組織関係のコピー。

その足で買い物へ。

自分にとっては、買い物が最も大事な任務。

家族の健康を守る為に。

どんなに用事や仕事や災厄が降り掛かって来ても、ブレる事なく家族ファースト。

これを守っている限り、神様は見捨てない✨

あと、気持ちで負けない事。

雪が降っても槍が降っても毒が降っても。

気持ちで負けると死神が忍び寄る。

死神の手下、一杯おるから。

死神は強い気持ちが苦手、というか嫌い。

平常心。

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌󠄀汁メインでお腹を満たした。

午後は調べ物。

北海道、東北の強風と寒気は気になる。

所によって初雪も降ったそう。

まだ、10月なのに。

農作物は大丈夫だろうな。

実家の母に拠ると、稲刈りは終わり、リンゴの収穫に入っているそう。

盗むなよ。

一年かけて育成しているのだから。

わいも、毎年にんにく、玉ねぎ、じゃがいも、さつまいも、里芋、きゅうり、トマト、ピーマン、ネギ、ゴーヤ、カボチャ、バターナッツ、枝豆、落花生、唐辛子、大根、キャベツ、白菜、フェンネル、ニラ、蕗、もってのほか、今年はヘチマと色々作っている。

が、どれも道楽で、なんちゃって菜園。

出来ない時はしゃーない、で終了。

が、それで、飯食ってる農家の方は、土の作り方から、育苗から、肥料から、機械や器具の導入から全然違う。

元手も違う。

商売でやっている人の物を盗むとか立派な窃盗罪。

重罪でええ。

第二次世界大戦中は人々は飢えた為、頻繁にあったらしいが、戦後は無くなった。

なのに、再び横行しているとは、外国人による犯罪としか考えられない。

泥棒は窃盗罪。

江戸時代なら10両(100万円)で死罪。

果物だろうが何だろうが100万円相当は死罪。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%83%E7%9B%97%E7%BD%AA

江戸時代に戻ろうぜ。

16時から夕食作り。

タコライス、レタスときゅうり、サルサ、ウォッカ梅酒ロック。

サルサに使用した玉ねぎは春に収穫した玉ねぎのラスト3個を使用。

10月末まで持った。

昨年は8月で食べ切った事を思うと、2ヶ月伸びた。

晩生は12月までもつそうなので、次はそれにチャレンジしたい。

ご飯が炊けたら食べる事に。

 

歩数計は5379。

充実した1日だった。