2024/4/26金曜日
5時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
8時に畑へ。
まずは、さやえんどうやえんどう豆、キャベツの収穫。
収穫後、それらの株を引っこ抜き。
畑を耕運するので片付けた。
そして、その隣のビーツはそのままに、その隣のネギは移植。
全体的に雑草を刈ったら肥料と米糠を散布。
そのあと、夫がミニ耕運機で畑を耕運。
気温の上昇もあり汗だくになっていた。
10時半に作業終了。
自分はスーパーへ買い物に。
12時過ぎに帰宅後、ヤロー共にラーメンを調理。
自分は納豆と玄米ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後は畑のデザイン。
連作障害やコンパニオンプランツの組み合わせ等を考慮しながらこれから何を植えていくか計画を立てた。
16時半から夕食作り。
まずはおやつの梅ジャムケーキをオーブンで調理。
そして、焼き芋や焼き魚を焼いている間に塊肉をミンサーでひき肉に。
収穫したキャベツを茹でたらひき肉を包んでロールキャベツに。
鮭とししゃも、焼き芋、焼きロールキャベツ、生ハムサラダ、味噌汁、梅ジャムパウンドケーキ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書と調べ物をする事に。
昨日に引き続き、会津藩士本。
元々は家老内藤家の出身だが梶原家へ養子に。
この梶原家は鎌倉武士の梶原景時から始まる梶原氏出身。
平馬で10代目。
落城時は27歳。
謹慎が解けた後、斗南藩に向かうも、一度会津城下を訪れたそうだ。
生家の内藤家は一族総自害。
弟の武川信臣は兄が家老なるゆえ江戸伝馬町獄舎で斬首。
最後は根室で亡くなったそうだ。
享年48歳。
この方は会津藩が降伏した際、その責を一身に背負い切腹した上席家老だ。
祖先は岡山出身で加藤氏の家臣だった。
賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が若松城の大改修を行った際は作事奉行を務めたそうだ。
その後、加藤氏が改易となり石見国へ転封。
代わりに保科正之が入封。
その際、庭も家の中もすっかり掃き清められ、畳や障子も新しく張替え、まさに、立つ鳥跡を濁さずを地でいった屋敷があったそうだ。
↑これは日本人なら理解出来る。
更に物置に米や野菜だけでなく薪や炭が準備されいつ新しい主人が来てもいいようになっていたそうだ。
↑ここまでやるのは只者ではない。
この話を聞いた保科正之公はこの屋敷の主を調べさせ萱野権兵衛家と判明するや石見から会津に呼び寄せ以前と同じ1500石で取り立てたそうだ。
↑藩主も只者でないな。
萱野権兵衛長修の子、郡長正も只者では無かった。
会津藩は子弟の中で特に優れた者を7名選抜し福岡県豊津小笠原藩育徳館へ送り込み学ばせた。
が、母からの手紙を見つけた小笠原藩の少年が長正を馬鹿にした。
一刀流溝口派免許皆伝の父譲りの剣の達人だった長正は剣術大会で優勝したあと、会津藩士の名誉を傷つけ会津武士道を疑われるやうなことをしてしまったと、切腹して果てた。
享年16。
惜しい人を亡くした。
次は河原善左衛門。
彼の先祖は近江国出身。
主君の蒲生家の会津移封に伴い移住。
蒲生家断絶後は保科家へ召されている。
善左衛門は1862年藩主松平容保公の京都守護職拝命に伴い京都公用方の一員として上京。
1866年2月には梶原平馬、倉沢右兵衛、山田貞介等と共に大坂のアーネスト・サトウの宿所を訪ねている。
京都に於いて外国や他藩の動き、最新鋭の軍監までも研究していた河原は鳥羽伏見の戦い後に向かった江戸で会津藩士に京都の情勢や官軍の行軍について説明。
「戦争になれば会津は滅びる」と無条件撤兵を説いた。
が、会津藩及び東北諸藩は長州参謀世良修蔵による「奥州皆敵」の言葉に反応。
30数藩で奥州列藩同盟を組み徹底抗戦する事となった。
河原は30数名を率い、殿軍となり、敵の侵入を遅らせる作戦に。
そして、戦死した。
最後は北原雅長氏。
生家は家老神保内蔵助利孝家。
鳥羽伏見の戦いの敗戦の責任を取らされて切腹した神保修理は兄である。
落城後、一時監禁されるものちに釈放。
新政府では不遇だったが会津藩士の日下義雄が長崎県知事になると長崎市長に抜擢された。
晩年は浜松市で「七年史」を執筆。
文久2年(1862年)の容保公京都守護職就任に始まる、七年間に及ぶ会津藩の動静が書き記されている。
その中で孝明天皇が容保公に賜った「朕はその方を信頼するぞ」
「汝の忠誠深く感悦の余り歌の一箱を差し遣わすものなり」
等のお言葉が記されているそうだ。
しかし、明治37年()この「七年史」刊行後、雅長は不敬罪で警察に勾留された。
明治新政府に取ってはほじくり返して欲しくない正史だったのでは。
今日はここまで。
歩数計は10040。
充実した一日だった。