2024/4/24水曜日
6時に起床し朝食と昼食作り。
雨予報なので洗濯とベランダでの水やりはお休み。
8時に長女を駅まで送迎。
ついでにスーパーで買い物。
帰宅後、おやつのクッキー作り。
その間に塩麹の材料をヨーグルトメーカーにセット。
べったら漬風の漬物も仕込んだ。
やることやったら9時半から読書。
今日は読書が捗りそうだ。
まずは二冊目の新徴組の本、西脇康著「幕末大江戸のおまわりさん」
ここでは、薩摩藩邸浪士隊が行った犯罪行為の数々が記されていた。
豪商や旗本の屋敷へ強盗で入りそのまま居座ったりしていた。
まるで新徴組を誘き出すのが目的かのように。
新徴組を預かる庄内藩の方でも薩摩藩が戦争を始めたくて幕府に先に手を出させようと煽っている事に気づいていた。
なので、法に則り粛々と犯罪行為を取り締まっていた。
が、庄内藩屯所銃撃と江戸城二の丸放火事件が同日に起き、業を煮やした幕府から庄内藩へ薩摩藩邸への出撃命令が出た。
庄内藩は自分達だけが出撃し報復を一身に受けるのは適わん、と他の数藩と共に出陣。
まずは江戸三田薩摩藩邸に一連の事件の容疑者を引き渡すよう要求。
そんな者は居ないと引き渡しを拒否。
その直後、犯人確保の為、強制捜査で押し入った。
その際、屋敷は炎上。
これを聞いた京の西郷は幕府が遂に手を出した、と大喜び。
目出度く、鳥羽伏見の戦いが始まりました、とさ。
そして、徳川慶喜は朝敵とされ、鳥羽伏見の戦いで破れたあと江戸へ還り恭順の意を表した。
このあと、庄内藩と共に庄内戦争に参戦。
見事な戦いを見せる事に。
12時に昨夜以来の食事。
昨日の゙残りのささみカツを使ってささみカツ丼。
自分は納豆ご飯をメインにお腹を満たした。
午後も読書。
戊辰戦争の時、諸藩は次々と新政府軍側についた。
が、徳川家に恩を感じ、幕府存続の為に戦った武士も大勢いた。
自分の所属する藩が官軍に着いたら、脱藩し、藩に迷惑が掛からぬよう戦った。
その中に、なんと、脱藩した藩主が居た。
上総請西藩主林忠宗公だ。
元々林家は徳川家に毎年、年始に兎を5羽献上。
年始に訪れる諸大名にお吸い物にして出されるのが習わしだった。
大名としてギリギリの一万石という石高だが、当時20歳の家督を継いだばかりの藩主は脱藩し将軍家を守るために戦った。
将軍親衛隊メンバーで結成された精鋭揃いの遊撃隊に加わり、海を渡り相模へ上陸。
残念ながら味方になっては貰えなかったが軍資金や食糧等をゲット。
近隣の諸藩から脱藩した兵士も徴発。
隊員も200名を超えた。
ここで、上野戦争で彰義隊が一日で陥落?の情報が入り、急遽、江戸へ救援に向かうことに。
箱根の関所を守っていた小田原藩と交戦しつつも和睦。
官軍も迫りつつあったので伊豆から海路、退却する事に。
その際、船の確保に苦心。
全員は乗船出来ず、乗れなかった数10名は現地解散となった。
請西藩を出る時50名居た藩士も戦死もあり30数名にまで減った。
船に乗れた林忠宗一行は平潟へ。
ここで会津に行くか庄内に行くか箱館に行くか迷った末、忠宗はここで降伏する事に。
それ程までに諸藩が次々と寝返り、降伏。
幕府軍は追い詰められていた。
その後、小笠原藩預かりとなった忠宗公は辛酸を嘗めた。
今だから言える。
忠宗公は正しい判断をし正しい道を取った。
そんな優れたリーダーに対し、明治政府は酷い仕打ちをした。
支えたのは請西藩家臣達。
忠宗公が慶喜公を支えようとしたのと同じように。
以下は遊撃隊に駆けつけた岡崎藩を脱藩した元藩医、和多田貢による歌。
我君の二心なきまこころを
神と人とに告げんとぞ思ふ
千萬の後の世までに我君の
御名穢さじと思う許りに
http://iwasi.fc2web.com/b/hito/watada.html
17時に読了。
17時半から夕食作り。
大根と鮭アラの粕汁、大根とゴボウと揚げの煮物、ゴボウとレンコンと蒟蒻のきんぴら、海老サラダ、チーズonクラッカー、昼の残りのささみカツ、昨日の残りの松風焼きお好み焼き風、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
今日3冊目の本を読み始める事に。
歩数計は5478。
充実した一日だった。