2024/4/25木曜日
5時半に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
2日分の洗濯物を干したらベランダガーデニング。
10時から読書。
昨日から小桧山六郎・間島勲編「幕末・会津藩士銘々伝 上」を読んでいる。
会津戦争に関する本はその凄惨さの片鱗を知っているだけに読むのが怖かった。
何せ、藩士のみならず、老若男女が自刃している。
が、何故会津の人々が犠牲にならなければならなかったのか知るべきだと思い心して読むことに。
秋月悌次郎、飯沼貞吉、一瀬要人、井深宅右衛門、大庭恭平、大山捨松、小野権之丞、梶原平馬、萱野権兵衛、河原善左衛門、北原雅長、と読了した。
飯沼貞吉は15歳で白虎隊に従軍。
刀で自らの喉を突くも死に至らず救出された。
潜伏先の岡山で再び自害しようとしたが生き永らえ電信技術者として活躍した。
一瀬要人は家老として率先して戦争に出陣。
北越戦争で長岡にも参陣した。
最後は会津に戻り奮戦。
銃弾を浴び負傷。
桑原の病院で息を引き取った。
享年38歳。
井深宅右衛門重義は会津藩家老萱野権兵衛長修(ながはる)が会津戦争の責任を取って藩主父子に代わり切腹する間際に幼なじみとして茶を点てた。
そして、免許皆伝の長修の希望で溝口派一刀流の秘伝を重義に伝授。
重義はその秘伝を絶やさないよう、まず、娘婿の和田又四郎に伝え、更にその息子晋に、更にその弟子へと伝えられ今日に至っている。
大庭恭平は1863年の「足利将軍木像鳩首事件」の犯人として捕縛されている。
戦後は会津藩再興に腐心。
実現させた。
大山捨松は会津藩家老職の山川家に生まれ8歳で戊辰戦争を、9歳で斗南藩で困窮生活を体験した。
子供には余りに辛い日々なので箱館に里子に出された。
そして、12歳の時、国費でアメリカへ留学。
22歳で帰国後、大山巌と結婚。
鹿鳴館の華と称された。
会津藩士の小野権之丞と諏訪常吉は会津落城の際、仙台領に居た為退路を断たれ止む無く仙台沖に居た榎本艦隊に乗艦。
箱館へ。
52歳の小野権之丞は箱館病院事務長に配属された。
敵味方の区別なく治療を施していたものの明治2年(1869年)5/11、土方歳三が斃れた日と同じ日に箱館病院に薩摩兵が到来。
事務の木下は殺害され医師の赤城は捕縛され病院に火を放たれ生きながら火葬せられし者もありしという阿鼻叫喚に。
翌日薩摩藩士が箱館病院に重傷で入院中の諏訪常吉に見舞金と共に面会を求めた。
これに先立ち4/22、常吉は当別を後にする際、置き手紙を残した。
官軍は榎本武揚との和平交渉の糸口を求めていた。
院長の高松と事務長の小野は薩摩側の寛大さと諏訪の意向を文に認め榎本へ送った。
常吉は5/16に絶命。
小野権之丞は諏訪への見舞金で諏訪の墓を建立。
文面にも行動にも誠実さが如実に現れている。
藩主松平容保公は権之丞の属していた会津藩公用局の面々に「策略は殊に宜しからず。至誠を以てすれ」と指示。
箱館戦争の終結も会津藩士による誠実な行動に拠るところが大きかったようだ。
長くなったので今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
16時から入浴。
17時半から夕食作り。
チーズナン、サラダ、鶏むねの甘辛ソース、アサリとキャベツのコンソメスープ、べったら漬風沢庵、昼の残りの豚玉柚子胡椒炒め、昨日の残りのきんぴら、ウォッカ梅酒ロック。
一番人気は全粒粉入りのチーズナン。
絶賛された。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書。
歩数計は6015。
充実した一日だった。