arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー892日目と醤油の仕込み

2024/2/21水曜日

6時に起床。

まずは豆麹を出麹。

次に洗濯と朝食、昼食作り。

雨がポツポツ降っていたので洗濯物は浴室乾燥機を使用。

8時15分に長女を駅まで送迎。

帰宅後、醤油の仕込み。

 

これで5瓶仕込んだ。

あともう一瓶仕込む予定だが瓶が無いので買いに行くことに。

ついでにスーパーで買い物。

10時半に帰宅。

食材を収納したら調べ物。

現在、江川太郎左衛門英龍に関する本を読み始めている。

それによると、将軍家慶公はなかなかの英君である事が判明。

で、家慶公について調べると、何と、子供が14男13女合計27子を設けて成人した子は四男の家定だけ、という驚きの事実が判明。

1/27て凄ないか!

周りの誰か可怪しいと思わなかったのか?

で、唯一成人したのが家定公。

この方、色々言われているが、歴代将軍の中で中の上と言う人もいる。

デマも多かったのかもしれない。

が、家定公も34歳の若さで急死する。

自分はこれも怪しいと思っている。

紀州派の面々は一橋派による暗殺では、と言いつのったらしい。

が、当時家定の御匙を務めていた奥医師の岡擽仙院は小川家の出。

小川家は代々小石川養生所の医師を務めている。

で、小川氏をウィキで調べると近江小川氏は多くの医師を輩出、とある。

ま、これ以上はわからないから言及はしない。

 

12時から昨夜以来の食事。

夫には焼きそばを提供。

喜んで食べていた。

 

午後は大好きな読書。

林青梧著「江川太郎左衛門

この方、由緒正しい伊豆韮山代官であるが、地理的に外国船が度々往来する関係で国防に多大なる関心を持った。

そこで蘭癖が集う遠藤康直主宰の「尚歯会」に加入。

そこで、蛮社の獄で捕縛され死去する渡辺崋山高野長英、小関三英と交わった。

尚歯会には他にも川路聖謨、羽倉外記、藤田東湖、松下伊勢守、下曽根金三郎、立原杏所、佐久間象山、幡崎鼎、松下松五郎、川瀬七郎左衛門、芳賀市三郎、花井虎一といったメンバーが参加。

林子平著「海国兵談」を読んだりしていたそうだ。

が、ある時芳賀市三郎が持ち出した「モリソン号事件」の話で、日本人の漂流民を日本に送り届けたモリソン号に対し大砲で打ち払ったのはよくない、という話になり、渡辺崋山高野長英が意見書を書いた。

で、これは幕府へ提出に至ってないこの意見書の写しをどこからかゲットした将軍家慶公が渡辺崋山に会いたい、と言った事で老中水野忠邦とその側近の鳥居耀蔵が色めき立った。

特に、鳥居耀蔵は父親が林述斎という昌平坂学問所の校長。

そんな意見書で世の中を騒がすなど以ての外!ということで渡辺崋山高野長英は御用!となった。

更に、鳥居耀蔵江戸湾備場巡見という江戸湾の測量に於いて尚歯会メンバーにしてやられている。

この巡見は正史鳥居、副史江川という体制で派遣された。

が、何かと対立。

鳥居チームが作成した浦賀から竹ヶ岡の図面を見せられた綺麗に彩色された絵草紙の細切れ地図に、江川は「何ですかこれは?」鳥「測量図ではないのか?」江「色付けは絵職人にでも出来ます。しかし測量図は図引き家でなくてはかなわぬものですな」

以後、別々に測量を行う事に。

鳥居は江川チームに参加の高野長英の弟子で「量地弧度算法」という著書もある測量プロの奥村喜三郎(増上寺御霊屋代官)は身分が低すぎる、とメンバーから外す事を要請するなどした。

江川はメンバーの一人、数学のプロの内田弥太郎の門弟、上田喜作を追加し難なく測量を続行。

老中水野忠邦も納得の素晴らしい測量図を完成させた。

蛮社の獄が起こったので江川は伊豆韮山に帰った。

 

そこで、伊勢菰野藩お預けとなっていた尚歯会メンバーの幡崎鼎からアヘン戦争砲術家高島秋帆の情報を聞き、彼を江戸に招く事に。

高島秋帆は長崎町年寄という役人の筆頭にあたる。

長崎は出島があり貿易船が到来。

海外の情報をいち早く知る事が出来る。

そこに来る唐船からアヘン戦争についてつぶさに知る事が出来た。

イギリスが清の市井の民を蹂躙した事も。

それを聞き、日本が同じ目に遭ったら大変、と国防に危機感を持ち、長崎の町を守る為に私財を投じ大砲や銃を購入。

軍隊を整備していた。

当時、幕府はそういった情報に疎く危機感も無い。

むしろ、その危惧を説いていた渡辺崋山高野長英を捕縛し死に追いやっているくらいだ。

やはり、領地が海に面している水戸斉昭公も島津斉彬公も海防には力を入れていた。

伊豆韮山の江川も然り。

彼は将軍に高島秋帆による「西洋流弾実演」を上申。

その許可を得、天保12年(1841年)5月9日武州徳丸ヶ原(現高島平の辺り)で実演。

希望者は観覧自由!

将軍を始め、老中等幕閣は勿論、諸大名、大奥からも参加。

勿論、江戸の市民も大勢訪れた。

そんな中、高島隊長率いる100人の一隊が洋式銃を肩に入場。

オランダ語の号令でぴたっと止まり、顔を正面に向けてねじまげ銃を捧げ敬意を表した。

「セット・アフ・ヘッド・ゲヴェール」の合図で銃は下におりた。

そのあとも号令に続き一斉射撃と交互射撃の連射。

一隊が全員退場すると将軍はパチパチと手を拍った。

それにつられ会場の千余人からわれんばかりの拍手。

大成功に終わった。

が、これでまた鳥居耀蔵は頭に来るのであった。

鳥居が次にやったのは江川を追い落とすべく佐久間象山韮山の江川塾へ。

更に、その年の1842年、親戚の伊沢政義を長崎奉行に任命。無実の罪で高島秋帆を捕縛させた。

あからさまやな。

続きはまた今度。

 

17時から夕食作り。

鯖と豚のもろみ漬け、小松菜のナムル、ゆで卵サラダ、もろみ漬けとべったら漬け、チーズ&ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

食後も読書を楽しむことに。

 

歩数計は5446。

充実した一日だった。