2024/2/21木曜日
6時に起床し洗濯と昼食作り。
雨模様なので昨日に引き続き洗濯物は浴室乾燥機を使用。
8時半に長女と次男を駅まで送迎。
帰宅後、今年最後の豆麹作り。
予め摺った玄麦と醤油用種麹は混ぜてある。
蒸した大豆が40度を切ったらそれをまぶしよーく混ぜ混ぜ。
パイレン布で包み更に晒布で包んだら発酵機内へ。
今日は気温は10℃以下。
それでも豆麹は温度が上がりやすいので25℃設定。
やることやったら、読書。
昨日から呼んでいる江川太郎左衛門英龍の本の最終章からスタート。
もうね、毒を盛られた感満載。
プチャーチンのディアナ号が沈没後、帰国の為に戸田で新たに船を建造する事になり、太郎左衛門英龍は監督を命じられた。
が、幕府より勘定奉行に任命される事になりその儀式の為に翌日江戸へ立つという日の夜、現地の役人が就任の祝宴を開く、というので招かれた。
その宴会が終わり宿に戻り寝ようとしたところ突然嘔吐が始まった。
朝まで。
これが12月12日。
無理を押して翌日、予定通り駕籠に乗り江戸へ。
江戸へ到着後、翌日登城する、と言ったまま遂に起き上がる事は無かったそうだ。
死ぬ2週間前には鼻から少々出血、との記録がある。
そして、翌年1月16日に遂に還らぬ人に。
享年55歳。
老中首座阿部正弘推挙による、代官から勘定奉行にという快挙達成目前の出来事だった。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら再び読書。
仲田正之著「実伝江川太郎左衛門」
この本は背表紙の厚さが6cmある。
普通の人なら躊躇するぶ厚さだ。
が、試しに読んでみると、マジ面白い。
まだ80ページしか読んでないが、まず、天敵同士かと、思われた鳥居耀蔵と江川太郎左衛門英龍が幼なじみだと判った。
有名な学者、松崎慊堂を介して。
松崎慊堂は孤児同然だったがひょんな事から昌平坂学問所の林家の下男として雇われた。
そうこうしているうちに林述斎が養子として林家へ。
慊堂は変わらず雇ってもらえた。
が、条件として述斎の子弟の教育に携わるよう命じられた。
その子弟には勿論、鳥居耀蔵も含まれる。
で、太郎左衛門英龍は、というと、父の英毅が述斎の養父の林信敬の門人だった。
更に太郎左衛門英龍の母、久子の父、如淡安藤権次郎が述斎の師だった。
なので、耀蔵の父、述斎は師の娘である久子と知己であった。
2人共、慊堂の講義に出席し学んだのである。
そして、耀蔵は鳥居家の婿養子になる事が決まり、その領地の伊豆を、韮山代官嫡子の太郎左衛門英龍と共に訪れる事に。
更に慊堂がその巡見旅行に同行する事になった。
この旅行記がめっちゃ面白い。
まず、江戸の外れの品川に3名の、特に偉人の慊堂の見送り人が大勢。
別離の宴が始まった。
旅の采配をした栄龍は気が気ではない。
何とか予定通りに出発したものの壮年の慊堂は徒歩で行く、と言う。
見かねた耀蔵が「これより馬としませんか」と勧めるも慊堂「馬は鍛錬したことがござらん」耀蔵「何も犬追物、流鏑馬をやろうという訳ではありません。馬に運んで貰うだけです」慊堂「左様か。ならば馬にいたそう。」
もう、このやり取りに爆笑。
でもって何とか予定通り戸塚宿に到着。
すると今度は耀蔵が芸者を呼べ!と催促。
江川氏御用で芸者を呼べと言われた事の無い宿の主人は慌てて采配。
更に一度も歌ったところを見せたことが無い慊堂が都々逸・小唄を披露。
太郎左衛門英龍は驚くばかり、とあった。
このあと、三島宿で分かれ太郎左衛門英龍は韮山へ直行。
耀蔵と慊堂は三島宿で一泊してから韮山へ向かう事に。
ここでまた一騒動。
夜、芸者遊びをする耀蔵と慊堂は別行動。
慊堂は地元の船着き場の呑み屋で呑んでいるうちに酔いつぶれた。
翌日韮山へ行かないと、というのを聞いた船頭が四日市まで船で載せて行った。
そうとは知らず、三島の゙宿では慊堂が帰って来ないので大騒ぎに。
翌朝、慊堂が目覚めてから騒ぎは沈静化した。
今日はここまで。
こんなにも仲良しだった鳥居耀蔵と江川坦庵が後年、あんなにも反目し合うとか。
17時から夕食作り。
四日市トンテキ、エビイモピザ、ゆで卵とツナのピザ、サラダ、カボチャスープ、ナッツとスルメ。
ウォッカ梅酒ロックを呑みながら良く食べた。
食後も読書をする事に。
歩数計は5057。
充実した一日だった。