2024/2/20火曜日
5時半に起床。
まずは豆麹の「盛り」の作業。
品温を測定している間に発酵機内の結露を拭き拭き。
気温はそれ程低く無いので庫内の結露は殆ど無かった。
品温は43.6℃。
高いので一粒一粒解してから麹蓋に移動させた。
次に洗濯と朝食作り。
9時からフットサルの準備。
9時半に自転車でフットサル教室へ。
朝からめっちゃ暖かい。
コンビニに立ち寄った際、長袖の上下は脱いだ。
フットサル場に着く頃には汗だくに。
コーチ1名男子1名女子4名が参加。
最初にボールタッチのアップ。
そのあとは面白い練習が続きお腹がよじれる程笑った。
11時半からゲーム。
文句無しのじゃんけんで3対3に分かれてのゲーム。
3本やったうちの2本で男子2名が同じチームになり、ヘトヘトに。
なかなかシュートまで持って行けず、ディフェンスに追われバテバテに。
ヨレヨレで帰路に。
スーパーで買い物をしたら、畑に立ち寄り。
小松菜が大きくなっていたので収穫。
この暖かさで蕾まで付けてた。
13時に帰宅後、まずは着替え。
そして、食事の用意。
13時半から昨夜以来の食事。
モリモリ食べた。
午後は読書。
昨日に引き続き、池田俊彦著「島津斉彬公伝」
斉彬公と言えば蘭癖で開国派で知られているが、藩の財政担当の三原藤五郎に以下のように勧農を語っている。
自分は特に「金銀ヲ何程積ムトモ之ニハ際限アリ。マタ飢ヲ凌グモノナラズ」以下の部分が好きだ。
理系の殿様だけれど、生まれながらの貴公子だけれど、よーくわかってるのが凄い。だてに40歳過ぎまで部屋住みしてたわけではない。
ちゃんと研鑽していたのがわかる。
藩主に就任するや、藩内をくまなく巡視。灌漑計画を立てたり、田畑に向かない所には藺(いぐさ)を栽培させた。
他にも、製塩、漁業、採鉱、養蚕を奨励し、殖産興業に努めた。
これらの中には斉彬の死後、中止になった事業もある。
驚いたのは斉彬が取り入れた新式の銃や建設した砲台等も、死後、取り壊され旧式に戻ったのだそう。
それら旧式は薩英戦争で全く太刀打ち出来ず、改めて斉彬の先見力が評価されたそうだ。
その先見力は、薩摩という土地柄によっても培われたかもしれない。
記録によると、薩摩藩はその頃琉球を支配下にしていたが、琉球には度々外国船が到来。
中には勝手に住み着いた外国人も居たそうだ。
幕府からは琉球に来る外国船への対応を任されていた。
そして、ペリーも浦賀に来る前に琉球に軍艦を多数引き連れ来ていた。
琉球はその頃既に中継ぎ貿易港として栄え、薩摩藩もその恩恵に預かっていたそうだ。
悲惨なのはその領民。
特に薩摩藩が大きな利益を上げていた砂糖は琉球の人々から搾取した物だったそうだ。
自分が知っている沖縄の人々が嘗めてきた辛酸歴史に新たな事実が一つ加わった。
17時から夕食作り。
カブと油揚げの味噌汁、鶏ササミの酒粕漬け、キャベツの千切りサラダ、カブのもろみ漬け、べったら漬け、鰊の切り込み、小松菜のもろみ和え、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は13150。
充実した一日だった。