arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー887日目と豆麹作り

2024/2/16金曜日

5時に起床し洗濯と朝食作り。

外は暴風。

今日はテニスに行こうと思ったが、この風じゃテニスにならんわな、と取りやめに。

 

7時に豆麹の「盛り」作業。

品温は40.8℃。

ちと高い。

豆を一粒一粒解しながら麹蓋へ広げた。

 

7時45分に長女を駅まで送迎するついでにスーパーで買い物。

帰宅後、食材を収納し終えたら9時。

 

再び市の納税課へ電話。

要求された通り、通帳の取引記録と保険証券のコピーは取ってきた。

やはり、証券番号等知られなくない個人情報があるので逐一、黒塗りしていいか?と聞くも、口座番号以外は全て却下。

議員には甘々だけれど、一般人には厳しい。

 

9時半から読書を開始するも度々夫に話しかけられ中断。

昨日から佐藤守男著「情報戦争と参謀本部日露戦争辛亥革命ー」を読んでいるが兎に角難解。

相当飛ばし読み。

ただ、随所に日本軍の組織図が掲載されており、何度も改編されたのが見て取れた。

また、「陸軍教導団」についての説明もあった。

そして、最終章では金子新太郎予備役歩兵大尉について取り上げていた。

1865年に新潟県で生まれ1884年、陸軍教導団修了。

日清戦争日露戦争と従軍後、歩兵大尉に。

1911年、宇都宮参謀第二部長の特命を帯び二千円の軍資金を手に漢口へ。

11/18に武昌に到着。黎元洪軍第一歩兵隊顧問官に。

11/21から政府軍と激突。

11/26革命軍、武昌堅持。

が、金子は帰還しなかった(戦死)

川上操六もそうだったが、欧米につけ入れられないよう中国にもっと強くなって貰いたかったようだ。

でも、歴史を見ると、日本と中国が近づこうとすると必ずチャチャ入れられるんよね。

田中角栄元総理とかね。

 

11時半から食事作り。

12時に昨夜以来の食事。

夫にはうどんを作った。

喜んで食べていた。

 

午後は山中峯太郎著「敵中横断三白里」を読書。

昭和45年発行なだけに文体も若干古めかしいが読んでいるうちに慣れる。

そして、日露戦争に出征した軍人から聞き取った事実を元に書かれている、というのが大きい。

生死との戦いの描写なので臨場感あり、また叙情的。

何度も泣きそうになった。

危機一髪の時には「えーー!」と大きな声が出て、リビングの夫に「どうしたー?」と問われた(笑)

 

時は1905年、日本軍とロシア軍は沙河を挟んで睨み合っていた。

大山総司令官は敵の背後にどれだけの兵隊が控えているか、ロシア軍が奉天と鉄嶺のどちらで決着しようとしているのかを知りたい、と6名の斥候を出す事に。

その命令は秋山騎兵団へもたらされた。

"騎兵"だからお馬さんに乗る兵隊さんな。

その隊長に選ばれたのは建川中尉。

建川中尉が選んだ5名の精鋭は以下の通り。

豊吉騎兵軍曹

野田騎兵上等兵

神田騎兵上等兵

大竹騎兵上等兵

沼田騎兵一等卒

駿馬も選び、一行は1/9に出立。

当たり前だが途中、何度もロシア兵に遭遇率。

その度に建川中尉が巧みなロシア語でロシア兵のフリをしてやり過ごしたそうだ。

更に、行く先々で現地の人々に食糧や水を売ってもらう交渉も中国語を話せる建川中尉が担当。

まずはお馬さんに水と食べ物を確保してから人間がありついたそうだ。

最後の方の龍王廟では民家で馬の飼料用に煮た大豆を見て空腹の余り思わず手づかみして食べたそうだ。

途中の雪山で何度か露営。

馬は雪を掻き分け草を見つけては食べていたけれど、流石に人間は食べないのでずっと空腹に苛まされていたそうだ。

斥候の結果は豊吉軍曹が龍王廟から馬を代えながら1/28に総司令本部へ到着。

大軍議室に於いて大山元帥、児玉参謀長を始め臨席の閑院宮、梨本宮両殿下へも報告された。

この報告により、日本軍は奉天へ先制攻撃する事に決めたそうだ。

建川中尉は連隊に戻り、急ぎ報告書を纏め連隊長に提出。

全員に名誉の感状が与えられた。

6人のうちの沼田騎兵一等卒は途中の川を渡る際、氷が割れて落ちたところを敵兵に攻撃され、戦死したものと思われたが、後にロシア軍の捕虜として救出され丁重に扱われ還ってきたそうだ。

なので6人の決死隊は全員奇跡の生還を果たした。

めっちゃ感動した。

 

17時半から夕食作り。

エビとタアサイの炒め物、豚のもろみ漬け、クリームチーズの生ハム巻き&ナッツ、カブのもろみ漬け、サラダ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら再び読書を楽しむことに。

 

歩数計は4505。

充実した一日だった。