arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー781日目と米麹作り再開

5時半に起床し洗濯と朝食作り。

ベランダでの水やりも済ませたら最新情報をチェック。

すると日本会議のお偉いさんが死亡、とのニュースが。

日本会議に関しては森本問題の時に知った。

メンツを見て良くない組織なんだな、と判断。

良くない組織は解体される事を願って止まない。

9時に昨夜から浸水させているお米をザルに上げて水切り。

やる事やったら夫と畑へ。

 

夫は化成肥料を蒔いていた。

自分は葉物の収穫。

寒いのですぐ帰宅。

10時半から米麹作りの準備。

2日前に解体して天日干しした発酵器を再度組み立て。

33度に設定したら火に鍋を掛け蒸す用意。

11時から蒸しをスタート。

11時40分に蒸し上がったらパイレン布の上へ。

 

良い感じに蒸し上がった。

米の温度が下がったら種麹をまぶし混ぜ混ぜ。

パイレン布に包み、晒布にも包んだら発酵器へイン。

 

12時半に昨夜以来の食事。

夫は11時半に病院へ行ったので一人ご飯。

最新情報からピックアップした動画に耳を傾けながら食べた。

ロバート・ケネディ・ジュニアがコロナ罹患後に処方されるレムデシビルと言う薬が人々を死に追いやっている、と話していた。

https://twitter.com/VigilantFox/status/1692921944578879505?s=19

皆様、お気を付けて。

 

お腹が満たされたら読書。

篠原昌人著「戦場の人間学〜旅団長に見る失敗と成功の研究」

自分の中で旅団長と言えば、日露戦争で活躍した梅沢道治旅団長。

有名な沙河会戦でロシア軍を苦しめた智将だ。

兵隊の数ではロシア軍に到底及ばない。

が、如何にも大人数に見せる為に一列縦隊で行進。

ロシア軍を退却に追い込んだ。

ロシア軍総司令官クロパトキン大将をしてその回想録で「戦闘の運命を決したるは、実に迂回部隊なりき」と言わしめた。

梅沢旅団長はこの時、52歳。

老将でもある。

この方、日露戦争の゙時は52歳だけれど、1968年の戊辰戦争参加時には15歳。

元々仙台藩士の子に生まれたのもあり仙台藩で星恂太郎のもと結成された洋式銃隊、額兵隊に所属していたそうだ。

額兵隊は幕府軍として会津若松城に向かっていたがその途中に仙台藩が新政府軍に降伏。

行き場を失った額兵隊は脱藩し箱館に向かう榎本武揚の開陽丸へ載せて貰える事に。

開陽丸は官軍が控える箱館港を避け鷲ノ木に上陸。

津軽陣屋を守る額兵隊は迫る官軍を押し戻し死守。

箱館を守っていた新撰組が一本木まで退くとこれを援護。

いったん勝ちに乗じたが土方歳三が力尽き一本木まで後退を余儀なくされた。

五稜郭で万事休すとなった際、隊長の星恂太郎は自決する、と言ったが周りに慰留され榎本武揚以下幕府軍は白旗で降伏した。

梅沢旅団長はこの死闘を経験していた。

この時の経験は日露戦争でも生かされたに違いない。

相手が大人数でも最後まで諦めない。

自分としては、幕府軍が官軍に破れ、新政府となったあと、色々とどうなったのか歴史の流れ的に全く掴めていなかった。

が、梅沢旅団長が繋いでくれた。

取り敢えず、日露戦争まで日本が辿った道は何となくわかった。

この間、日清戦争も経験している。

そして、この本を読んで川上操六(死因不明・50歳)、小川又次(赤痢からの急性腹膜炎・61歳)、田村怡与造(破傷風からの心臓昂進症・48歳)、児玉源太郎(脳溢血・54歳)等の名参謀長が日本軍を率いていた事もわかった。

尚、()内はウィキ死因と薨去年齢。

揃いも揃って皆若死にしておる。

追い追い調べる事に。

 

16時半から夕食作り。

リンゴ、ササミの海苔巻、モッツァレラチーズサラダ、ブリ大根、牛蒡の豚巻き、スープ、ウォッカ梅酒ロック。

17時に帰宅した夫がお腹が空いた、と言うので先に食べて貰った。

自分は19時過ぎに晩酌を開始。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら旅団長の本の続きを読むことに。

 

歩数計は6791。

充実した一日だった。