arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1202日目とパラケルスス④

2024/12/27金曜日

5時に起床し長女の朝食とヤロー共の昼食の下ごしらえ。

6時過ぎに米麹の品温をチェック。

発酵機は32度設定でも麹ちゃん達は40度を越えてきた。

洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら7時45分に自転車で大宮市場へ。

年越しとおせち用の食材を購入。

9時半には買い出し終了。

帰宅後、食材を収納したら10時半から読書。

 

昨日に引き続きカイザー著小原正明訳「パラケルススの生涯」

 

ホーエンハイム(パラケルスス)は1527年6月5日に大学の教授陣への批判文を学内に掲示

6月24日には聖ヨハネの祝いの梵火イベントで伝統医学の一冊の綱要書「大全(スムマ)」を投げ込んだ。

同時代のルターもこの七年前にローマ教皇の破門通告の教書をヴィッテンベルクで焼いた。

「医学のルター」のあだ名が付いていたパラケルススも同じ事、象徴的な事をした。この時から大学当局はパラケルススの講義の妨害に努めた。
大学はパラケルススの講堂使用を認めず、また、学位授与権を取り上げた。

そして、医師として教授としての資格を疑わしいとあらゆる公開の席で問題に。
これに対しホーエンハイムは防戦一方。

彼を支持している市議会に請願書を提出し助けを求めた。
その請願書では市議会が身分や公職の自由を保証し論敵の迷妄を正すように助力を望んだ。
更にもう一点、危険な事柄を指摘していた。
薬局は医師と共通の利益による繋がりを持ってはいけない、とした。

更に、当時、薬局では医師の処方した薬の代わりに似た薬効があると想像されているものが投薬される習慣があった。
この請願の結末がどうなったかは不明。
ホーエンハイムは休暇中チューリッヒへ向かった。
バーゼルに戻ると彼の患者で後援者のフローベンが卒中発作で急死したことを聞き落胆。
バーゼルに戻ると大学から露骨で本格的な攻撃が。

ラテン語による諷刺詩を掲示

ホーエンハイムは市議会に訴えたがバーゼルでは最早、市医に原因があるとされた為助けなかった。

1528年の2月にバーゼルを去った。

バーゼル滞在期間は僅か11カ月。
ホーエンハイムバーゼルからエルザスのコルマールを目指した。

彼の人生の残り13年の遍歴が始まった。

1528年、コルマールに到着。

ここで外科についての著書「ベルテオネア」や梅毒について触れた「小冊子」等を執筆。
ホーエンハイムは危険な水銀製剤を出来るだけ注意深く精密に秤量し処方することを勧め、記述した最初の人♥️
更に、この悪疫との闘いに砒素製剤を正しく適用するよう勧めた♥️
医学史家のR・H・ブラーザーはこれを新しい観点から認識。

論文の中で「パラケルススの梅毒学は19世紀の半ばになって初めて蘇生し完全なものになった」と述べた。

↑だってよ!?
どーなってんの?

適切な量を秤で量って調合すれば水銀も砒素も薬になる、と。

そう思うと、メチル水銀起因の公害病や和歌山砒素カレー事件などは水銀と砒素は猛毒だから体に取り込まないように、と刷り込む為のものだった?

パラケルススの本を読んで良かった。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後は孫守り。

下の孫が発熱したので上の孫の面倒を頼まれた。

夫は送迎を担当。

が、夫は13時半に到着後、昼寝を開始。

16時まで寝ていた。

夫が起きてから夕食の支度に取り掛かり。

孫は17時にわいの歌(童謡)で寝落ち。

17時半に長男がお迎えに来た。

が、嫁も発熱したのでうちで夕食を食べてから帰る事に。

マグロの刺身、蓮根肉挟み、豚キムチルッコラと水菜のツナサラダ、焼き芋。

ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。

孫にはうどんを作った。

後片付けを済ませたら孫と団欒。

機嫌良く遊んでいたが20時を過ぎ、「帰る」と言い出したので帰る事に。

パパの抱っこで帰りたいと主張したのでベビーカーは自分が押して行く事に。

パパママ無しで長時間頑張ったからそれくらいのご褒美無いとな。

帰宅後、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は9524。

充実した一日だった。