2024/12/25水曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、ヤロー共の昼食作り。
洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたらサーッと最新情報をチェック。
8時50分に孫達のピックアップへ。
嫁が体調不良の為、夫と遊びに連れ出す事に。
ベビーカーを押して近くの公園へ。
気温は低いが風は無いので気持ち良く遊べた。
夫は今日は病院の受診日なので10時半には公園を後に。
帰りのベビーカーで2人共寝始めた。
抱っこで送り届けたら家路に。
夫は11時に一足早く食べ病院へ。
自分は12時に昨夜以来の食事。
午後は読書。
カイザー著小原正明訳「パラケルススの生涯」
パラケルススのちょい前のJ・マナルディとピコ・デラ・ミランドラは当時全盛の「占星術医学」を拒絶。
パラケルススも。

1516年、パラケルススはフェラーラで両医学博士の学位を取得。
但し公の記録は無し。
パラケルススは1516年、フェラーラを出立。
1524年にザルツブルクに滞留するまでの8年間、グラナダ、リスボン、ヒスパニア、イングランド、マルク、プロイセン、リトアニア、ポーランド、ハンガリー、ヴァラキア、ジーベンビュルゲン、クロアチア、ヴェンド・マルクと諸国を巡った。
"しかし、それがどの病気に役立つかを確信させるような事は何一つ聞けなかった。私はしばしは反省した。医術とは如何に不確実な技術であり、殆ど役に立たないものであろうかと、、、。一人を治療する一方で十人を殺している。それが私に、これこそが人間を欺いて堕落させる精霊の仕業であると思わせる根拠になった"
↑パラケルススも精霊(悪魔くん)を信じたんか?
パラケルススは行く先々で民間療法も学んだ。
"職人は普段使っている道具で実験。鋳掛け屋は銅の鋳速物で血を止め化膿した傷を乾かした。鍛冶屋はマルスのサフランと呼ばれる灼熱した鉄で傷を処置。陶工は銀密陀(一酸化鉛の淡黄色の粉末)或いは金密陀(一酸化鉛の赤色の粉末)で実験"
ホーエンハイム(パラケルスス)曰く、「 民衆の生活から直接得られる知識は人類それ自体と同じくらい古い。あらゆるこの種のことは魔よけの宝石を身につけているエジプト人に始まった。あらゆる術が虚構にして自称の学者達によって詭弁で誤魔化されていた。正しい基礎に立つ学問が忘れられ、その代わりにぼろの形骸があった。
一つの術しかなく、それは実地経験により得られたものであつた」
↑パラケルススの言っている事、的を得てないか?しかも、現代にも通じる。
再三再四、彼は単なる非経験の書斎学問に逆らった。
ホーエンハイムはヴェネチア戦争など2、3の戦争に軍医として従軍し経験と知識を蓄えた。
戦争が終わると第一期の大遍歴に出発。
ローマとサレルノを通ってシチリアへ。
エトナ火山を訪れ「隠された火」に感動。
"その火は水によって消えないし石を石灰にする働きがある"
彼は昔鉱山や溶鉱場で働いた時に鉱石から金属を単離するのにどうしても「火」が必要であったのを思い出した。
シチリアから海路ジェノヴァに向かいモンペリエへ。
その地の大学を訪問し何人かの教授とも話したが「モンペリエは医術の門でありサレルノも同様であるがそこからは小さな扁平な赤帽のほかは何も出てこなかった」と大学の華麗さを非難した。
ホーヘンハイムは「サレルノやモンペリエはそのような状態なのでどの医師も良くない。医師は殺人行為で2、3の墓地を一杯に満たすだろう」と酷評。
モンペリエからスペインへ移動。バルセロナやグラナダ、コルトバ、セヴィリヤに短期間滞留。その後、アルジェリア経由でリスボンへ。リスボンは「新世界発見」で興奮の坩堝と化していた。ホーエンハイムはそこで未知の医薬や珍奇な薬草、香辛料を知った。
その後、サラマンカやヴァリァドリードを通りピレネーを越えて遍歴。
更にトゥールーズからパリへ。ここまで凡そ5千キロメートルに及ぶ。
今日はここまで。
今のところ、パラケルススに不審な点は見受けられない。
むしろ、本質を捉えているようにも思える。
今後の展開でどうなるか。
18時から夕食作り。

焼き芋と焼きじゃがいも、銀鮭、大根と豚とちくわぶと油揚げの煮物、サラダ、豆乳味噌汁、つまみ、ウオッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をしてから寝ることに。
歩数計は10522。
充実した一日だった。