2024/1/22月曜日
5時半に起床し洗濯と朝食作り。
最新情報をさーっとチェックしたら読書。
昨日から出久根達郎著「桜奉行〜幕末奈良を再生した男川路聖謨」を読み始めた。
この本を読んで良かった事は、渡辺崋山や江川太郎左衛門、二宮尊徳、大久保忠真など、幕末に活躍した人々について知れた事である。
まず、渡辺崋山は言わずとしれた「蛮社の獄」で捕縛され、のちに自死した偉人である。
渥美半島の田原藩の家老の家柄で蘭学に造詣が深く、江戸で「尚歯会」という座談会みたいなサークルを作った。
その人望の高さにより錚々たるメンバーが集うところとなった。
たまたまメンバーの一人が「近くイギリス船が来航するが幕府はそれを打ち払いするようだ」という話から、「そんな事をすれば返り討ちで江戸は大変な事になる」と渡辺崋山は建白書を書きしたためた。
当時は幕府を批判しただけで罪になる時代。
何故か幕府に知られ洋学嫌いの南町奉行鳥居耀蔵の標的となった。
この鳥居耀蔵は昌平黌の校長林述斎の子として生まれたのち鳥居家へ養子に。
他に江川太郎左衛門も彼の標的になった。
先祖代々伊豆韮山代官の家に生まれた江川も外国の事情に詳しく、海防の重要性を唱え、自ら砲術を学んだり洋船の建造にも関わった。
ロシアのプチャーチンの船が座礁した際、通りかかった彼の船は多くのロシア兵を救助し戸田へ送り届けている。
また、兵糧の研究もし「乾パン」を作ったのも彼である。
志半ば、55歳の若さで亡くなった。
そして、領内の貧しい集落を救おうと小田原藩主大久保忠真に相談。
この方は老中まで昇り詰めた幕府の重鎮。
後に老中首座となる阿部正弘に幼少の頃より目を掛け、引き立てた。
藩の財政が傾いた際、農民の二宮尊徳を見出し士分に取り立て、下野国にある藩の飛び地の財政立て直しを命じるなどした。
その二宮尊徳は幼い頃両親が相次いで死亡。
幼い弟2人を抱えながらも若干10代で田畑を開墾。
田植えで余った苗を用水路に植え米俵一俵分の収穫を得たり、厄介になった親戚に「夜勉強用に使う行灯の油代が掛かり過ぎる」と言われると畔に油菜を植え菜種から油を取り行灯に使った、等エピソードに事欠かない。
先述の江川太郎左衛門が二宮尊徳に「山の中の貧しい集落を富めるように開墾したいがどのようにすれば?」との問いに二宮尊徳は「まず春に筍を掘らせ、その穴に山芋を植えさせる。山芋は収穫するのに深く掘らないといけない。それにより竹の根が断ち切られるので竹を容易に伐採。これでどんどん開墾出来る。」とアドバイスした。
なるほど。
素晴らしい智恵だ。
そして、人の繋がりの大事さよ。
幕末は身分を気にせず交わっていたようだ。
10時に畑と買い物へ。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら午後も読書。
午後も川路聖謨本。
漸く奈良奉行時代の話になった。
が、すぐに佐渡奉行時代の話に。
自分は奈良も佐渡も旅行で訪れた事がある。
懐かしく感じながら読み進めた。
が、川路聖謨の嫡子、彰常の訃報の場面で止まった。
22歳の若さである。
しかも夕食を食べたあと僅か数時間で死亡。
腹痛に苛まれながら死亡した、とあった。
何かの毒が原因じゃね?
折しも、川路は奈良奉行として寺に隠されていた密輸品の取り押さえ等、大捕物をしたあとだった。
幕末に活躍したもう一人の幕吏、岩瀬忠震も多くの子を失っている。
10人以上子を成したのに成人した男子は1名のみ。
DSは邪魔者を排除する際、まずその子を消し、弱らせたところで本人もヤル、とどこかで読んだ。
田沼意次もそのパターンだった。
彰常の死因は「脚気」とする本もある。
が、その症状を調べると酷い腹痛とかは出てこない。
数時間で死ぬ、とかも。
色々と怪しい。
17時から夕食作り。
玄米ご飯、豚の塩麹漬け、サニーレタスとわさび菜のツナサラダ、ブリあら梅汁、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
呑みすぎたのか読書中に寝落ち。
日付が変わってから覚醒。
ブログを投稿したら最新情報をチェックする事に。
歩数計は5916。
充実した一日だった。