2024/7/23火曜日
4時に起床し朝食作り。
5時過ぎに畑へ。
昨日、急遽購入したミニトマトの苗を植えたら水遣り。
今日は竹酢液入り。
そして、わいの大好物のカボチャを初収穫。
コルクはまだそれ程茶色くなってないけれど、ここから追熟する。
ついでに種取り用のビーツも収穫。
こんなに大きくなった(笑)

下の赤味が残っている部分は柔らかいのでありがたく食べる事に。
シャワーを浴び洗濯物を干したらベランダでの水遣り。
9時過ぎに買い物へ。
10時半に帰宅。
やっと、読書の時間。
昨日に引き続き大泉光一著「暴かれた伊達政宗『幕府転覆計画』ヴァティカン機密文書館史料による結論」
1611年、伊達政宗はフランシスコ会宣教師フライ・ルイス・ソテロに伊達領内に於ける布教活動を正式に認め家臣や領民にキリスト教に入信する事を許可する布告を発令。

政宗の野望の殆どはソテロから齎されたアイディア。
イタリア人歴史家で慶長遣欧使節一行とマドリードから共に旅をしたシピオーネ・アマーティが1615に記した「伊達政宗遣欧使節記」によると政宗の外国人側室が重病になった時、ソテロの部下のペドロ・デ・ブルギーリョス修道士が治療して快復させた事が切っ掛けで知り合った。
ソテロは1574年、スペインのセビーリャ市エストゥレマドゥーラの裕福なコンベルソ(ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した家系)出身。
父は二十四参議会議員のドン・ディエゴ・カバジェロ・デ・カブレラ、母はドーニャ・カタリーナ・ニーニョ・ソテロ。この夫妻の第二子として生まれた。
ソテロはサラマンカ大学で法学、医学、神学の3学科を学び在学中にカスティリャのサン・ホセ・デ・カスティリャ管区のフランシスコ会の修道院に入会1594年に司祭に叙階された。
ソテロは父のカバジェロ一族がコンベルソである事からセビィリヤでの少年時代やサラマンカ大学時代、周囲から特別な目で見られた。←差別てこと?それを不名誉に思い父方ではなく母方の姓を名乗った。

ちなみにコンベルソとは↓

ソテロの日本語能力は高く日本語書状を一字一句正確にラテン語やスペイン語に翻訳。
1625年、フランシスコ会のディエゴ・デ・フランシスコはソテロを次のように回想。

当時、スペイン国王保護権下のフランシスコ会とポルトガル国王保護権下のイエズス会とは対立抗争を続けていた。
更に、スペイン出身のソテロとイタリアのシチリア出身のアンジェリスの間に民族的な対立感情もあった。

西日本に於いてイエズス会の宣教師達はポルトガルの貿易商と組んで商売を行って莫大な利益を上げて蓄財し政治的な事柄にも関わっていた。
もしかして、奴隷売買?

「商教一致」を受容。
1610年、政宗、米沢でソテロを引見。
同時にソテロはメキシコへの使節派遣の為のナベッタ船の建造を献策。
何故にメキシコ?と思ったら、当時、メキシコはスペインの統治下。
そして、幕府には訪墨するとしか言っていない政宗であった。
ソテロの説教から一ヶ月後、政宗は仙台の青葉城でメキシコ副王の答礼大使セバスティアン・ビスカイノ司令官を迎えソテロの通訳によってメキシコと仙台藩の間で通商貿易を開始する為の協定案の内容について話し合う。
ちなみに家康逝去は1614年だからこの時生きてる。
政宗のこれ、知ってたのか。
家康はメキシコとの通商交易はもとより、当時メキシコの鉱山で採用されていた新しい銀鉱石の精錬法(水銀アマルガム法)にも興味を示し日本への導入を願っていた。
水銀アマルガム法て大久保長安がポルトガル人から教えてもらった奴や。
家康はビベロに対し銀の精錬技術者50名の日本への派遣を希望しビスカイノと交渉。通商交易のみ希望の幕府とキリスト教の布教を条件とするメキシコとの間の溝は埋まらず。
伊達領内のキリシタン人口は急速に増大。
政宗はキリシタンの纏め役としてキリシタン浪人後藤寿庵を召し抱え。
政宗の使節団に幕府の使節も相乗り。メキシコで通商貿易交渉をしようとした。
アンジェリスは後藤寿庵からの情報として、大使の支倉常長の父はある窃盗の罪で数ヶ月前に斬首(日本側の資料では切腹)この息子も追放処分にするところを、エスパニアとローマまでの道中に遭遇する苦難に替える事に。
更に、仙台藩では家格が170番目の600石取りの中堅武士。


支倉六右衛門常長は1571年、米沢城主伊達輝宗の家臣山口飛騨常成の子として生まれ1577年、伯父・支倉紀伊時正の養子となった。
が、1596年、義父時正に実子が生まれたので家禄1200石のうち柴田郡支倉村で600石を分与され分家した。
1613年、月浦港からサン・ファン・バウティスタ号で出航。
首席大使ソテロ。
伊達藩士12名。
幕府の船奉行・向井将監忠勝家臣10名。
90日後、メキシコ・アカプルコに到着。
メキシコで粗末な扱いを受けた為、支倉が日本に帰る、と言い出した。
政宗からの書状によると、侍3名を同伴させている。そのうち2名はメキシコから帰国。他の1人は奥国(ヨーロッパ)まで赴くよう申し付けてある。
2名は今泉令史と松木忠作。
残り1名は支倉六右衛門。

支倉は伊達藩とスペインとの間の八か条から成る「申合条々(案)」↑締結をメキシコ副王マルケス・デ・グアダルカサール侯に申し出。
この「訪墨通商使節団」は幕府との合同企画。
副王は政宗がメキシコとの通商交易開始の条件の「商教一致主義」をクリアしていると認めた。
支倉一行は密かにスペインとローマへ向けて出発。
メキシコ市を出発した支倉はスペイン艦「聖ヨゼフ号」に乗船しキューバ経由で南スペインのサン・ルカール・デ・パラメダへ。支倉は船上でスペイン国王フェリッペ3世及び宰相のレルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス宛の書状をしたためた。
スペイン到着後、ソテロと共に精力的に活動したが残念ながらスペインでの成果無し。

1615年、使節一行はスペインのバルセロナ港からイタリアのサヴォナ港に向けて出発。到着後、支倉とソテロはモンテ・カバルロで非公式にパウルス5世に拝謁。

名門貴族ボルゲーゼ家に生まれ、宗教改革で弱まった教皇権の回復に努め、サン・ピエトロ寺院の完成、ヴァティカン図書館の充実を行い、ヴァティカン機密文書館を創設した。
ローマ訪問の主目的の「カトリック王」の叙任と「キリスト教徒の騎士団」創設の二つの請願は却下。
政宗が受洗していれば或は状況は違っていたかも。

1617年、支倉とソテロは国王からの返書を待っていたが、インディアス顧問会議から強制退去を命じられ帰国の途に着く事に。支倉はセビィリヤ滞在中、政宗へ「サン・ファン・バウティスタ号」をメキシコへ派遣してくれるよう要請。
家臣の横沢将監に命じアカプルコ港へ向かわせた。
1613年時点でキリスト教徒は37万人前後。
支倉らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号はマニラに到着。
そこに1年半滞在。
14隻のオランダ艦船がマニラを襲撃するだろうと言われ、スペインはサン・ファン・バウティスタ号をスペイン艦隊に組み入れる交渉を始めた。スペインへの売却が決まり、オランダ戦に参加。砲撃されマニラ沖で沈没した。
マニラに残留するソテロと別れ支倉と横沢ら伊達藩随行員は便船で長崎へ。
そして仙台へ帰着した。
すぐさま青葉城へ登城。
政宗と7年ぶりに再会。
遣欧使節の結果を報告した。
この報告により、政宗は日本に於けるカトリック王になれないし、ローマやスペイン艦隊からの助力は受けられない、
つまり、徳川幕府を相手に戦う事は不可能、と悟った。
これまでのキリスト教保護政策から、幕府が厳しく取締を強化している禁教令に従う事に。
藩内でキリシタンを厳しく取り締まり始めた。
幕府の法令に従う事にした。
尚、参考までに重要人物の死亡年月日をメモ。
1613年6月13日大久保長安死去:八王子千人同心を立ち上げる
1615年6月4日豊臣秀頼死去
1616年5月31日信松尼(武田信玄娘お松御寮人)死去:武田旧家臣の心の拠り所
1624年8月25日ルイス・ソテロ殉教
1632年3月14日徳川秀忠死去
1636年8月24日伊達政宗死去
1683年8月24日徳川忠輝死去
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
蕎麦を茹でて食べた。
午後も読書。
16時半から夕食作り。

鯖の干物、豆腐つくねバーグ、枝豆、焼き芋、小松菜とモヤシのナムル、笹かまぼこ、昨日の残りの汁、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
ブログを投稿したら寝ることに。
歩数計は8671。
充実した一日だった。