2024/7/24水曜日
3時に起床し朝食作り。
4時40分に畑へ。
先日、トマトと茄子にピンポイントで病原菌撒いた、何故なら隣の枝豆は元気一杯だから、と言ったら、隣の枝豆にも病原菌を撒いてきた。
DSの皆さんもわいのブログを読んでいるみたいで。

病気の葉は取り除いた。
で、フォローでにがり水を振り掛けていると、悪魔くんに憑依された夫が登場。
ここの所、毎日のように喧嘩(笑)
だって、一番身近に居る人物だから、悪魔くんの憑依先として格好な存在。
子供らは家に居ないからね。
もうね、喧嘩する気満々でやってきた。
でも、畑作業に対する熱意は無いからやれるのは三角鎌での草刈りのみ。
それでも作物を覚えようとしないから、ネギや綿花等を刈っている。
あと、何回教えてもコンパニオンプランツを理解しない。
だから、雑草と思い引っこ抜いてしまう。
これで農学部卒なのだから信じられない。
こうならないよう、農学部は実習必修にした方がええ。
で、自分が、この作物の直ぐ側にこれが植わって居るから刈らないよう気を付けて、と注意すると逆ギレ。
畑で喧嘩とか最悪や。
去年は田んぼで大喧嘩したけど(笑)
お前、何しに来たねん!て言いたいけど、そりゃあ、わいの畑作業を邪魔しに来た悪魔くんだから、相手にするのも馬鹿らしい。
無視して予定していた作業を続行。
悪魔くんはいつの間にか帰っていた。
7時に帰宅後、ベランダガーデニングのネット取り付け作業。
ベランダで栽培しているカボチャやバターナッツの弦が伸びて行き場を失っていたのでネットを作成。

それが終わったら梅干しの天日干し。
調べたら梅干しを漬けたのは6/21。
一ヶ月以上経ったし梅雨も明けたので土用干しする事に。


それが終わったら、シャワー。
スッキリしたら、赤紫蘇ジュース作り。
今朝、畑で赤紫蘇を大量に、多分700g位を頂いた。
それの葉っぱ取りが大変。
2時間近く掛かった。
そのうち500gで赤紫蘇ジュース。
残りは塩漬けにし冷蔵保存する事に。

11時から読書&調べ物。
昨日から遠藤敎之・遠藤由紀子著「守山藩」を読み始めた。
しかも、守山藩は水戸藩の支藩で守山と茨城県の松川にも領地があり、竈が二つじゃないけど小藩なので経営は大変だったと思われる。
その松川領は太平洋に面し、幕末には度々夷狄船が現れるわけよ。
で、水戸藩の支藩でもあるから、海防に目覚めた斉昭公から見張りや砲台建設に関し度々要請が。
斉昭公が幕末に海防与力に任命されるのもこういう経験と知識があるからなんよ。
特に松川砲台は太平洋の広い範囲が見渡せるから見張り場所としては適していた。
ただ、守山藩としては、小藩だから松川領にしても守山領にしても城郭などない。
無防備な陣屋があるのみ。
だから、戊辰戦争で隣の三春藩が寝返ったと聞き、すぐさま降伏。
御三家である水戸藩の支藩で水戸藩出身の将軍慶喜公は早くから恭順の意を示してイたから、それに倣った模様。
斉昭公存命中は守山藩から天狗党に参加した者も居たけれど、関係者は家族も含め処刑されるなど厳しい処分だったから、それに懲りたかも。
守山領百姓の戦争体験があったので抜粋。
「8/26, 若松の陣屋通りから七日町に宿をとり、そこで毎日兵隊の食事を作っていた。合戦は昼夜を通して行われた。8/29には大きな戦があった。この日備前勢40人余がいる陣場へ会津勢500人が攻め込んできて鉄砲玉が雨の如くに降りかかりその恐ろしさに耐えられず我々は滝沢口へ退いた。そこで炊き出しを行った、、、。こんな悲惨な処での仕事なんて他にあるまい。この戦の詳細はいくら書いても筆舌に尽くし難いものである」

守山領内の15歳以上の男子を残らず徴用。人馬共に二本松・会津方面へ借り出し母成峠の難所では夜中に大地振動の音に驚き西も東もわからず走り出し谷に落ちた者や岩に当たり傷を受けた者も少なくない、という逸話が残る。
早ぐ家さ帰りたがったべの。
会津での戦闘で銃弾を受けた人足1名の死亡があった。
哀悼。
12時に昨夜以来の食事。
食べていると、12時半頃突然外が暗くなった。
雷も鳴っている。
外にでると真っ黒い雲と強風が。
慌てて梅干しちゃん達を取り込み。

ついでに洗濯物も。
午後も読書&調べ物。
16時半から夕食作り。
外が晴れていたので再度梅干しを天日干し。

枝豆、サラダ、赤紫蘇とささげの味噌炒め、モロキュウ、ウォッカ梅酒ロック。
今から食べる事に。
歩数計は8779。
充実した一日だった。