2024/2/1木曜日
6時に起床し洗濯と朝食作り。
8時から最新情報をチェック。
最近、最新情報を真面目にチェックしていなかったので念入りにチェック。
DSが食べ物や飲み物に色んな有害物を仕込んでいるという記事を見たのでそれを解毒する食品について調べた。
厚労省が防波堤になっていない。
むしろ有害物を奨励している。
なので自分で防備しないと、だ。
気がつくと12時に。
納豆メインでお腹を満たしたら午後は真面目に読書。
まだまだ橋本左内本。
今日は京都での活動を終えたあとの政治の動きについて整理。
まず、老中首座の堀田正睦は惨敗に終わった京都行きから帰着後の登城で将軍家定に「帝の叡慮ですのでご養君は一橋公(慶喜)で宜しいですね。」と奏上。
家定はその場では何も言い返せなかった。
が、それを聞いた大奥は大騒ぎに。
特に家定生母の本寿院が一橋公が将軍になると水戸の御老公が大奥に乗り込んでくる〜!
そうなったら自害する〜と騒ぎ出した。
大奥では紀州備長炭を配りまくった水野忠央の2人の妹が斉昭公の悪口を言い触らす工作活動が功を奏し、烈公は嫌われていた。
その悪口も内容をチェックするとデマや誇大な表現らしきものが多々あった。
で、家定も生母からの洗脳で慶喜嫌いに。
大奥と家定は何とか紀州慶福を継嗣にしたい、ということで井伊直政が大老に任ぜられた。
ここから直弼による恐怖政治が始まる。
まず、5/3に堀田正睦に世子に一橋慶喜公をと建白書を提出した川路は西の丸留守居役に左遷。
鵜殿民部少輔が目付から駿府町奉行に。
直弼は6/25に世子は慶福とお披露目する事にした。
そんな中、6/19に井上清直と岩瀬忠震により日米修好通商条約が調印された。
勅許無しの調印に怒った水戸老公斉昭、水戸慶篤、尾張義恕(よしくみ)、松平春嶽は登城日では無い日に登城。
直弼に詰め寄ろうとするも春嶽は御三家では無いので押し留められた。
最も勢いのある斉昭は58歳だが既に耳が遠く老衰が始まっていた。
他の2人はテキパキと応答できず一時間足らずで下城。
井伊大老の完勝に終わった。
7/3に将軍家定は脚気衝心で突如重態に。
この時代、脚気衝心が原因で亡くなる人の多い事。
家茂も和宮もそう。
この時、ロシアのプチャーチンが再び日本に来ていた。
ハリス同様プチャーチンも7/4に将軍に拝謁する予定だったがこのように病気だったので会えなかった。
家定をプチャーチンに会わせたくなかったのか。
直弼は7/5の家定薨去の前日の7/4に押しかけ登城した面々に対する処分を発表。
水戸前中納言 急度御慎み
松平越前守 隠居、急度御慎み
老中筆頭の太田備後守は「明白な罪状の証拠もないのに親藩に厳罰を加えるのは如何なものか」と異議を唱えた。
が、直弼は「水戸に陰謀があるのは明白。後日京都を探索すれば証拠は見つかる。見つからない時は拙者が責任を取る」と押しきった。
久世大和守からも「公方様お病気の折柄、これほどの大事を決定するのは穏当ではありません。ご大老の専決と取られるおそれがあります。公方様全快まで待つのが妥当です」と書面が直弼へ届けられたが耳を貸さなかった。
そういえば、小渕元総理が倒れた時、専決して総理になった人、居たね。
我が国には総理が遺言で就任する制度は無い筈。
長くなったので今日はこの辺で終わり。
17時から夕食作り。
中華麹シュウマイ、ほうれん草の胡麻和え、しめ鯖刺し身、根菜サラダ、豆乳スープ、ウォッカ梅酒ロック。
横浜から帰宅した夫は疲れたのか寝てしまった。
一人で食べることに。
歩数計は4714。
充実した一日だった。