2024/4/29月曜日
6時に起床し洗濯と朝食作り。
ついでにおやつのクッキー作り。
9時にご近所テニスへ。
男子5名女子2名が参加。
対面でのアップとクロス半面でサーブ練習をしたら4ゲーム先取セミアドの試合をスタート。
11時まで楽しんだ。
帰宅後、まずはシャワー。
暑くてめっちゃ汗を掻いた。
スッキリしたら食事の用意。
12時に昨夜以来の食事。
納豆とご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後は読書と調べ物。
ネットで検索したら京都大学貴重資料アーカイブで左大臣島津久光公による建白書の資料が出て来た。
「皇国終に西洋各国の奴隷たらんを鏡に懸て見るか如し実に危急存亡之秋ナリ」
と書かれている。
この明治初期に西洋各国の悪行をここまで見透かした旧藩主がどれだけ居たのか。
彼は斉彬公と仲良かったと言われている。
間違いなく斉彬公の薫陶を受け継いでいる。
西郷だけでなく三条実美や大久保利通に対して何度も意見したそうだ。
書中に何度か「万民」と出てくる。
万民を想い藩を治めてきた藩主として新政府による政策に「おかしいだろ」と声を挙げていた貴重なリーダーだったのでは、と思った。
尚、全文を読みたい方は下記リンクからどうぞ。
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00007152#?c=0&m=0&s=0&cv=4&r=0&xywh=126%2C-42%2C2242%2C2214
幕末・会津藩士銘々伝下巻の方は「山川浩」の話が興味深かった。
会津藩は当初、新政府軍と和平交渉中だった為、日光口で戦っていた大鳥圭介軍の会津入国を拒否していた。
浩が大鳥軍に加勢した頃から勢いが出た。
そんな彼の元へ会津若松城帰国命令が。
城に入ろうにも敵に包囲されていた。
ここで浩は奇策に出る。
会津の郷土民俗芸能として有名な彼岸獅子舞を山川隊の先頭に立てて偽装。
「通り囃子」の演奏を開始し行軍を開始。「会津戊辰戦争」によるとその時の官軍の様子は「意表天外、拱手傍観、只唖然として銃を杖つき遥かに之を望見し空しく迎送するのみ」だったそう。
浩の帰城で士気は大いに上がったそうだ。
が、この篭城中、彼は19歳の妻とせを亡くしている。
「焼玉押さえ」と称する落下砲弾の消火に失敗し炸裂した砲弾の犠牲になった。
哀悼。
長くなったので今日はここまで。
17時半から夕食作り。
ビーツの葉とソーセージのドリア、鶏つみれとビーツのもろみ汁、生ハムサラダ、昼の残りの麻婆豆腐、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書の続きをすることに。
歩数計は8858。
充実した一日だった。