2024/2/19月曜日
5時半に起床。
まずは豆麹の出麹。
次に洗濯。
外は小雨。
浴室乾燥機を使うことに。
朝食と昼食を作ったら、次の豆麹作りの用意。
圧力鍋で豆を蒸し始め。
タイマーをセットしたら、醤油の仕込み。
4瓶目が完成。
ついでに他の瓶の醤油も混ぜ混ぜ。
8時15分に豆が蒸し上がった。
冷ましている間、長女を駅まで送迎。
ついでに買い物を済ませてから帰宅。
10時から、最後の豆麹作り。
種麹と麦を合わせたものを大豆にまぶしたらパイレン布と晒布に包み発酵機へイン。
やることやったら、読書。
11時50分から食事の用意。
夫とモリモリ食べた。
お腹が満たされたら読書。
昨日に引き続き、島津斉彬本。
この方のひいおじいちゃんの島津重豪がこれまた凄い。
蘭癖と言っても良いくらい蘭学に興味を持ち、将軍謁見の為に江戸に来たオランダ商館長に随行の医師シーボルトと何度も会見。
丁度手に患っていた丹毒を診察して貰ったり、狩で獲った鳥を剥製にして貰ったり。
更に、ひ孫の斉彬を伴って訪れた事もあったそうだ。
同じ様に重豪に可愛がられたのが調所広郷。
薩摩藩では隠居の重豪の経費だけで20万石、重豪に隠居させられた子の斉宣は10万石。
2人の隠居料だけで30万石。
藩の借財は凄い事になっていた。
重豪の命令で藩の財政立て直しを任されたのが調所。
琉球との密貿易で荒稼ぎ。
借財を返済する事に成功したそうだ。
彼による藩の借金返済は素晴らしい。
が、彼による分断工作活動はいただけない。
主君斉興公に世子斉彬の悪口を吹き込みまくったそうだ。
確かに、重豪公が拵えたとされる借金を危険を冒して返済したのだから気持ちはわかる。
同じく蘭癖の斉彬公が藩主になると薩摩が再び借金塗れになる、と危惧したそうだ。
分断工作はDSのお家芸。
後ろで誰かが糸で操っている。
薩摩藩では斉彬派と久光派に。
水戸藩でも分断工作し対立させた。
更に将軍家は一橋派と紀州派に。
DSは分断工作をしては、内乱、内部抗争に導き、真の愛国者、真の憂国者が処断されるように持っていった。
幕末にあって水戸の斉昭公と薩摩の斉彬公は、藩の事だけでなく日本という国の事を考えていた。
将軍家にあっては家慶公が。
家慶公亡きあとは、その意を汲んで老中首座の阿部正弘が。
この面々がもっと長生きすれば幕府は、主権国家日本はもっと延命出来たかも。
阿部正弘が39歳という若さで亡くならければ安政の大嶽は起きなかったかも。
斉彬公は、安政の大獄が始まった時、薩摩から3,000の゙軍勢で京都経由で江戸に向かう予定だったんよ。
幕府のこれからを担う優秀な人材を断罪し始めた井伊直弼の暴挙を止めさせようと。
出発予定の数日前に急病で急死。
藩主在任僅か3年で。
わかった事がもう一つ。
斉彬公の男子5名が尽く夭折した理由。
それは、1名でも存命していると、久光公の跡目は無くなる。
斉彬公は分断工作の事もわかって、藩の一枚岩を保つ為に何も言わなかったのだと思う。
最後の方に生まれた女子3名が生き残ったのは、何故だろう。
うち2名は10代と20代で急死している。
11人中8名が夭折してるからね。
高崎くずれの事も知れて良かった。
父の斉興公はこの事件で世子斉彬公を゙追い落とそうとしたが、脱走した数名が黒田候の元へ逃げ込み、何が起きたか説明。
そこから四賢公の面々に伝わり、最後は、阿部正弘が、将軍家慶に、斉興に茶碗を贈り"隠居勧告"
薩摩国内の事件で終わらせたかったようだが四賢公ネットワークで将軍家の知る所に。
この時代は外患憂慮のご時世。
国の行く末を心配した諸侯達は盛んに手紙で交流してたんよ。
で、現代はネットで瞬時に伝わる時代になりましたとさ。
DSによる悪事も。
17時から夕食作り。
紅鮭、焼き芋、焼売、チーズonクラッカー、ツナコーンサラダ、玄米ご飯、昨日の鍋の残り汁、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
食後も読書をする事に。
歩数計は8541。
充実した一日だった。