2024/2/10土曜日
6時に起床。
まずは醤油用豆麹の品温をチェック。
高すぎても低すぎてもいけない。
37.3度。
ちと高い。
夜中の発酵機の設定温度は28度にしていた。
日中は25度で様子を見ることに。
洗濯と昼食作りを済ませたら朝読書。
昨日から八甲田山雪中行軍遭難事件に関する本を読んでいる。
同時期に同じ八甲田で雪中行軍を計画していた弘前三十一連隊に対抗して急遽やらせた津川第五連隊長師団長も浅はかだったし、演習を任された神成第五中隊長も準備不足だったとは思う。
装備とか見ても雪山舐めてんな、と感じた。
それよりも、同じ八甲田山雪中行軍で前年失敗した経験のある軍医からの引き返した方が良いという意見も聞かず前進を決めた山口第二大隊長の責任は大きい。
しかも、演習の総指揮権は神成中隊長にある筈なのにそれを覆し、命令してたそうな。
助かるチャンスは何度かあったように見受けられた。
同じ日に弘前から福島第二中隊長率いる第三十一連隊も出発。
こちらは怪我人1名を出しただけで無事に演習を終えている。
ただこちらは人数も日数も異なるので一概に比較は出来ない。
それで、次は高木勉著「八甲田から還ってきた男 雪中行軍隊長・福島大尉の生涯」を読むことに。
まだ、半分も読んでいないが、この方の経歴は凄かった。
一言で言うと'叩き上げ'
商家に生まれたが家が傾き農家に。
学校を卒業後、非常勤の先生をやりながら給料の半分を実家に仕送り。
漢文を学びながら、地理の先生にも邂逅。
司法生の試験には落ちたが士官候補生試験に合格。教導団で2年学んだあと晴れて陸軍士官学校に入学した。
明治24年(1891年)に卒業すると高崎連隊(歩兵第15連隊)に陸軍歩兵少尉として任官した。
特技は'地図'だ。
高崎では永田鉄山の兄と共同生活をしていたそうだ。
その福島少尉に実戦の時が訪れた。
日清戦争だ。
福島少尉の属する高崎連隊は第一師団第一旅団第二軍として出陣することに。
宇品港から三池丸に乗船し遼東半島南岸の花園口沖に到着。
金州城の攻略を担当する事に。
この1894年12月から1985年1月にかけての遼東半島の寒さは厳しく、防寒に対する装備は十分では無く冬期作戦に慣れていないのもあり苦労が絶えなかったそうだ。
この経験もあり福島小隊長は雪中露営法の研究や雪中行軍演習に取り組むようになった、とある。
その後、台湾にも派遣され、この時、日清戦争の論功名簿を閲覧する機会を得、家柄の良い者には論功が厚いのを知り憤慨。
これに関連し、陸軍では士官は元士族や薩長閥の者が多く、神成中隊長のように平民出身の士官はまだまだ少なかった、と「八甲田山 消された真実」にも書かれていた。
12時に昨夜以来の食事。
午後は最新情報をチェック。
そして、再び読書。
17時半から入浴。
18時に豆麹の品温をチェック。
35.1度。
これは良い。
よーく解してから再び発酵機内へ。
18時過ぎからウォッカ梅酒ロックとスルメで晩酌。
家族皆、呑み会やらバイトやらで不在。
残り物で済ませる事に。
19時から再び読書。
福島大尉の努力が凄すぎて圧倒されまくった。
めっちゃ読書家なところにも共感。
大尉に昇進が発令された時は広島に滞在。
来るべき日露戦争に備え、出国の地となる広島周辺の地図の作成を命じられていた。
その任務が終わるや明治31年(1898年)には弘前連隊(歩兵第三十一連隊)への転属命令が下された。
今日はここまで。
福島第二中隊長を追っていたら、当時の陸軍士官学校への行程や、陸軍の師団編成、そして、日清戦争の戦況についても知る事が出来たのは僥倖。
このあとも読書の続きをする事に。
歩数計は3207。
充実した一日だった。