2024/4/27土曜日
5時半に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
8時過ぎに畑へ。
昨日耕した畑への肥料として木酢を撒くことに。
その最中にじゃがいもの葉が食害されている事に気付いた。
ナミテントウが来ていた。
アブラムシ等を食べてくれる益虫なんだそう。
そっとしておく事に。
最後に緑色のクモを見つけたのでグーグルレンズ。
検索結果は「ハナグモ」 だった。
このクモも益虫。
アブラムシ等を食べてくれるそうだ。
急遽じゃがいもの葉にも防虫目的で木酢を散布。
9時に畑をあとに。
帰宅後、読書。
幕末・会津藩士銘々伝の上巻を読んでいるが、酷い話を発見。
p.202の「倉沢平治右衛門」のところで見つけた。
倉沢平治右衛門は上田八郎右衛門氏彬の六男として生まれ藩校の日新館でも学術に優れていたが武術でも神道無念流の目録を許されるまでに至った。
その後、家禄400石の倉沢家の養子となり1863年に公用人として召し出された。
上京後は中川宮朝彦親王に気に入られ宮家の諸太夫の地位をゲット。
会津藩と朝廷の連絡を繋いだ。
この方の活躍は何といっても、維新後。
18+年、廃藩置県における旧会津藩士族に対する新政府救済金であった家禄公債の取り扱いの交渉にあたった。
1873年、明治政府はそれまでの支給米制度から秩禄制度に変更した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%A6%84%E5%87%A6%E5%88%86
ウィキに拠ると「支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる[1]。
1897年には家禄賞典禄処分法が発令。全国の士族に秩禄に応じて公債が下附されることとなった。
旧会津藩士のみが除外され公債の配布対象外となった。
これに対し倉沢を代表として「旧斗南藩士族授産金下賜運動」を開始。
倉沢は1900年に76歳で亡くなるも運動は続き裁判に発展した。
被告は大蔵大臣。
結審は1909年。
勝訴。
17年も掛かった。
そして、本は下巻へ。
そこで、p.26の佐川官兵衛の伝説を読んで目がハートに。
佐川家は300石を拝領する武道練磨の家柄。
官兵衛も幼少の頃から剣術に於いて右に出る者が居なかったそうだ。
1866年に公用人として京都へ召集されると藩士の中から剣、槍、弓、馬術のうち2つ以上の免許を持つ者を選抜。
新たに別選組を組織。
藩侯の護衛と市中警備にあてた。
隊員達は隊長に官兵衛を要望。
重臣達もこの猛者共を統率するのは官兵衛以外に居ない、と官兵衛を別選組隊長に任命した。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは宇治川堤防上の千両松原の戦いで活躍。
抜刀し縦横無尽に斬りまくった。
これに恐れを成した政府軍は官兵衛に集中射撃。
銃弾は、まず、官兵衛の打ち振るっていた大刀に当たり太刀は折れた。
すぐ小刀を抜いて突進。
銃弾が胸に当たったが胸甲を当てていたので大丈夫。←普通倒れないか?
更にもう一弾が右眼の上に命中。
血まみれとなったがひるまず爆進。←普通死なないか?
敵中に躍り込み血刀を振って荒れ狂う阿修羅のような官兵衛の姿を見て敵は恐れをなして震え上がり、鬼神の再来だ、と「鬼官兵衛」と呼んだ。
鬼官兵衛は会津戦争でも大活躍。
母成峠の敗報で鶴ヶ城は窮地に。
西軍が続々と城下に流れ込んでいる中、官兵衛は糧道は確保しようと城外から出撃。
長命寺の゙戦いに於いて白兵突撃。
西軍が退いたところで糧道を確保した。
降伏後、官兵衛は一切の役職に就かずひっそりと暮らしていた。
そこへ、明治政府から旧会津藩士と共に西南戦争へ出征してくれないか、と依頼が。
旧会津藩士達からのプッシュで官兵衛は奉職。
横浜港から九州小倉を経由し豊後に到着。
ここで上司の元土佐藩士檜垣直枝の判断が遅すぎて戦う前に官兵衛は負けを確信。
出撃前夜辞世の句を詠んだ。
翌日、黒川の麓に到着。
既に山上に堅塁を築いて待ち構える西郷軍に対し下から攻め上がって行った。
その佐川隊に脅威を感じた敵将鎌田は塁より躍り出て佐川に一騎打ちを挑んだ。
一騎打ち、な。
会津藩随一の゙剣豪の佐川の剣は鋭く鎌田も追い詰められて行った。
ここで、西郷軍の狙撃兵は鎌田隊長危うし、と至近距離から佐川を狙撃。
3発を浴び斃れた。
西郷軍、卑怯やな。
阿蘇の地元の方々は鬼官兵衛の顕彰碑を建立してくれたそうな。
官兵衛無双やな。
12時に昨夜以来の食事。
14時にテニスへ。
男子4名女子1名が参加。
17時まで楽しんだ。
帰宅後、夕食作り。
残り物メインなので撮影無し。
ウォッカ梅酒ロックと共に良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれたのでありがたく読書と調べ物。
幕末・会津藩士銘々伝下巻の続きを読むことに。
歩数計は13765。
充実した一日だった。
」