2024/2/12月曜日
5時に起床。
まずは豆麹の品温をチェック。
30度。
まだ15時間しか経ってないからこんなもん。
ここから麹菌ちゃんは本気出す。
洗濯物を干したらテニスの準備。
7時に車で吉見総合運動公園へ。
8時に到着。
男子3名女子1名が参加。
対面でのアップを済ませたら4ゲーム先取セミアドの試合をスタート。
男性陣3名は基本が出来てる上に足もある。
ラリーが続きまくりバテバテに。
1試合が終わる度に長めの休憩を取った。
12時には解散。
帰る途中、じゃがいも用の゙種芋を購入。
13時半に帰宅後、まずは豆麹の「盛り」の作業。
品温をチェックすると43.4度をヒット。
麹菌ちゃん達、本気出し過ぎ。
品温を下げる為に、麹蓋に移しては豆を一個一個にバラした。
大事な作業が終わったら、お風呂の追い焚きのスイッチをオン。
その間に昨夜以来の食事。
残り物で済ませた。
お腹ペコペコの時は何を食べても美味しい。
入浴後は読書。
再び、八甲田雪中行軍遭難事件の本。
「八甲田から還ってきた男」によると、福島中隊長は明治34年(1901年)7/26〜7/30の日程で炎天下長期強行軍を計画。
目的は第三年度教育中の長期伍長の行軍慣熟と苦難に対する気力養成であると共に、行軍路周辺の道路図作成、盛夏炎熱下における長期行軍下の゙人体に及ぼす影響の調査も行われた。
第一日 弘前〜十和田 山路13里半
第ニ日 十和田〜五戸 山路17里余
第三日 五戸〜野辺地 国道12里余
第四日 野辺地〜青森 国道11里半
第五日 青森〜弘前 国道12里
合計5日間 全行程66里余(約264km)
一日平均約53km歩くとか。
しかも半分近く山路だで。
更に、十和田から宇樽部までの五里は断崖絶壁続きとか。
20kmに及ぶ断崖絶壁渡りて想像つかんわ。
今度見に行くか。
幸いこの行軍は1名の落伍者も出ずに終了。
この行軍の゙報告書を見た立見師団長より「冬季に在っては如何、研究を要す」との批評があったそうだ。
これが、翌年の十和田八甲田越え雪中踏破に繋がる。
福島中隊長は児玉連隊長の許可を得て、計画。
1/9には上北郡法奥沢村役場へ休憩所や宿泊所、道案内人の斡旋、食料の補給を依頼している。
これらの事を批判する意見も散見するが、出来るだけ援助を依頼するのは当然だと思う。
代価を支払う、との条件付きで。
青森に住んでいる人は厳冬期に山へ入らない。
平地に住んでいても吹雪の日はなるべく家から出ない。
地吹雪の怖さを知っている。
目が開けられないし、周りが何も見えない。
更に顔が凍りつく。
積雪の中歩く事のしんどさも知っている。
自分も高校生で汽車通していた時、胸の辺りまで積もった雪を漕いで駅まで行った事が何度もある。
朝早いと除雪車がまだ来ないんよ。
1901年の゙当時、福島隊は対露戦を想定。
厳寒での行軍に慣れているロシアと対峙するのだから行軍も協力依頼もやむを得なかったと思う。
当時、どれだけの人がロシア軍が日本に上陸するかもしれない、という危機感を持っていたか、だ。
青森は北海道の゙次にロシアに近かったからね。
ただ、この十和田八甲田越えの行軍の際に依頼された七人の道案内人が酷い目に遭った事は言及しておく。
福島中隊長の依頼に基づき大深内村から道案内人の゙マタギ1名とラッセル役の屈強な若者6名が選ばれた。
そして、最後の集落、増沢部落を゙27日午前6時に出発したあと天候に異変が。
以下はその時の様子を語った案内人の一人、沢内吉助氏の言だ。
『9時頃同所出発双股の急坂を登ること14,5町で中平に着くとき驚いたことに物凄い爆音が樹上を過ぎたと思うと天候が急変し風雪を゙伴い瞬く間に降雪で膝を屈する現状になった』
↑この爆音てさ、DS悪魔による、何つったか、空からの電磁波攻撃じゃね?
プチャーチンのディアナ号沈没の時にも突如黒雲が現れたけど、あれと同じやつ。
ともかく、この爆音のあとの猛吹雪で行軍は熾烈を極めた。
福島隊は通称'赤川'の辺りで露営する事に。
そして、道案内人のうち2人を遺し5人を、この日の目的地である田代台の田代温泉の建物を探しに行かせた。
その田代温泉は建物自体が雪に埋もれてしまったのか探しても見つからず困っていると、炭焼小屋が見つかった。
5人はそれを知らせに露営場所に戻り皆で小屋へ避難。
流石に全員は入れないので半分ずつ交代で休憩したそうだ。
また、道案内人は当初、増沢から田代台を日帰りの予定だったので食糧は1食分のみ携帯。
が、その1食分もカチカチに凍って食べられない、という状況。
十分な補給も得られないまま、出立する事に。
福島連隊長にここから増沢へ戻るより青森へ行った方が良いのでは、と言われそうする事にしたものの、待っていたのは辛いラッセル作業。
2人ずつ3交代制とは言え、先頭はキツイと思う。
そして、大峠まで来た所で突如ご苦労さん、と給金を渡され道案内人はここでバイバイ。
と言っても、まだ山の中。
一番近い集落の田茂木野まで3.5kmもある。
ここでマタギの沢内鉄太郎氏は意識朦朧になり動けなくなってしまった。
無理もない。
極寒猛吹雪の中、2昼夜不眠不休で食事は僅か1食。
しかし、彼は八甲田の山々を知り尽くす貴重な存在で今回の行軍での彼の功績は大きい。
ここで失うわけに行かない、と残りの6人も満身創痍ながら代わる代わる彼を抱きかかえながら、転びながら、まるで雪だるま状態で何とか夜中に田茂木野集落に到着。
何とか家に入れて貰いたくとも、何処の家も第五連隊の捜索隊員が宿泊。
やっと一軒の家の土間を借りる事が出来た。
そこで火を起こして貰い、持っていた凍った食べ物を鍋で煮て食べて補給したそうだ。
午前4時には田茂木野を出立。
12時に浦町駅へ到着。
沼町駅で下車し8里(32km)を増沢まで歩き夜中の2時に漸く我が家に到着したそうだ。
7人全員凍傷で苦しみ、中沢由松氏に至っては心を病み10数年後に亡くなったそうだ。
哀悼。
http://toshibos-museum.my.coocan.jp/hakkouda_koujutuhikki.htm
17時半から夕食作り。
玄米ご飯、もろみ汁、イカとキャベツとさやいんげんの炒め物、もろみ漬け豚肉、ハムサラダ、べったら漬け、カブのもろみ漬け、チーズトースト、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
食後も読書をする事に。
テニス4時間。
歩数計は18443。
充実した一日だった。