2024/1/31水曜日
5時半に起床し洗濯と朝食作り。
ベランダでの水やりも済ませたら朝読書。
昨日に引き続き白崎昭一郎著の橋本左内本。
今日は京都で何があったのか自分なり整理。
安政5年(1859年)1月21日、堀田正睦、川路聖謨、岩瀬忠震の3名は日米修好通商条約調印の勅許を得るために京都へ出立。
それをアシストするべく、土佐藩山内容堂から三条公への直書を預かった橋本左内は1月25日に出立。
箱根を越え由井を過ぎ薩陀峠に掛かる頃2人の紀州侍に同行を頼まれたそうだ。
島田宿では長野主膳とその従者3名が張っていた。
大垣宿でも。
2/7に京へ到着。
堀田一行は2/5に到着していた。
これに先立ち孝明天皇から九条尚忠関白に「関東からの金子は受け取らないように」との宸翰が送られていた。
金銀の誘惑に弱い公卿に釘をさした。
2/9,左内は三条実方を訪問。
まずは山内容堂からの直書を渡した。
その後の面談では条約調印には反対の意見だった。
が、将軍世子の件には興味津々。
話題はそちらがメインになった。
左内は次に梅田雲浜に会いその門人伊丹蔵人の仲立ちで、孝明天皇が頼りにしている青蓮院宮と面談。
条約調印の必要性を説いた。
2/23になって漸く伝奏の広橋光成と東坊城聰長が堀田正睦宿舎の本能寺を訪れ帝の叡慮を伝えた。
「今一度三家以下諸大名に意見を聞くように」との返答だった。
主膳も井伊直弼に堀田をアシストするよう命ぜられていた。
彼は九条家の島田左近と昵懇になり九条関白と接近していた。
その九条が堀田に連絡。
九条のアドバイスで「三家以下諸大名で話し合う件はお引き受けしますので何卒叡慮(勅許)をお願いします」と返答する事とした。
その後、九条関白は攘夷強硬派の青蓮院宮、三条内大臣、近衛左大臣を参内停止に。
更に「関東に一任する」という内容の勅答案を草案。
これを見た孝明天皇は難色を示し強硬派の久我大納言に内勅。
それを受けて久我大納言は大原重徳と岩倉具視を招いて相談。
3/12朝に88人の公卿が宮中に参集。
中山忠能大納言が諫言状を読み上げだ。
肝心の九条関白は病気で欠席していたので軍集は関白の屋敷前へ移動。
夜の10時まで帰らなかったそうだ。
左内は九条関白が長野主膳の働きかけで紀州寄りになっているのでもう一人の重鎮、鷹司太閤に働きかける事に。
まずは鷹司家の儒官、三国大学と面談。
次に、その紹介に預かり諸丈夫、小林良典とも会談。
鷹司太閤に取りなしを頼んだ。
さて、「関東に一任」という草案は88人の公卿による反対で暗礁に乗り上げた。
更に、幕府寄りとの批判を受け伝奏の東坊城聰長は辞任。
幕府側も都筑駿河守が3/17に急死。
不穏な動きが続く中3/20に「条約調印拒否」の勅答が成された。
かくなる上は将軍世子に一橋慶喜を、との内勅に期待が集まった。
鷹司太閤の助言によると、名指しは無理だろうが「年長・英明・人望」といった条件を入れることは可能とのことだった。
が、それには春嶽による直書が必要、とのことで左内は3/14に早飛脚で江戸に要請。
3/21に京都に到着。
鷹司太閤も近衛左大臣も満足し左内も安心した。
3/24、堀田正睦に渡された内勅には「急務多端の時節、養君ご治定、西の丸御守護、政務ご扶助にあいなり候わば、おにぎやかにて、およろしく思し召され候」と書かれていた。
年長・英明・人望の三文字が九条関白によって全て削除されていた。
これでは何のことか判らない、と勅使に質問すると「年長」という条件が口頭で伝えられた。
堀田はそれを文字にして欲しいと頼み「年長」と書かれた紙が付け加えられた。
京都における2ヶ月間の苦闘は惨敗で終わった。
この左内の京都での活動の中で気になった部分があった。
確か、彼はその昔、塾を経営するも家計は苦しく若くて美人の奥さん(上原立斎の娘)は着物を質に入れるなどしてお金を工面していた程だ。
困窮は続き奥さんは安政2年に2人の幼子を残し労咳により29歳で亡くなった。
そして、同年、後妻を貰っている。
その彼が、いつの間にかお金持ちに。
何でも長州から上方への物流を一手に引き受けているのだそう。
そら羽振りがいいわ。
儒学者から実業家へと転身ねぇ。
その彼も翌年、安政の大獄で捕縛第一号となり拷問により獄死。
使い捨てにされた感MAX。
12時に昨夜以来の食事。
午後は最新情報をさーっとチェック。
からの読書。
18時に夕食作り。
夫は不在なので手抜きメニュー。
良く呑み良く食べた。
後片付けと入浴を済ませたら営業終了。
読書を楽しむ事に。
歩数計は5380。
充実した一日だった。