arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー801日目とフットサル教室

2024/1/30火曜日

5時半に起床し洗濯と朝食作り。

7時半から朝読書。

昨日に引き続き橋本左内本。

昨日からは白崎昭一郎著「橋本左内」を読んでいる。

橋本左内の父、橋本彦也についても詳しく書かれていた。

越前藩医田代春綱の三男として生まれたあと君命により藩医橋本春貞の養子に。

17歳で家督を継いだ彦也は25歳で紀州へ遊学。

そこで華岡青洲に師事し外科学を学び、引き続き京都で内科と産科も修めた。

そして、帰藩後、長崎帰りの猪俣端英という人物を寄宿させ洋学の知識を吸収したそうだ。

転機は藩主の松平春嶽の骨疽(そ)を治療したあとに訪れた。

当時は藩主の病気はお匙医しか診れなかったが彦也は抜擢され治療。

見事治療に成功。

当時お匙医は外科はなれない決まりだったが外科医として初めてお匙医に任用された。

嘉永5年(1852年)労咳で亡くなる直前「夢の中で横井(小楠)とお会いした。先生は天下の人傑だ。お前のことを宜しく頼んどいた」と言い遺した。

彦也は嘉永4年に横井小楠と会って以来傾倒していたそうだ。

確かに横井小楠はその後の左内の人生に大きな影響を与える。

左内も小楠の事を父の言った通りだと思ったに違いない。

 

もう一箇所注目したのは弘化2年(1845年)に当時18歳の松平春嶽と27歳の阿部正弘と37歳の島津斉彬が会談した部分。

それによると島津斉彬は戸塚静海というシーボルト仕込の医師から蘭学を学んだそう。

そして、阿部正弘は蒸気船について斉彬に質問。

すると、斉彬は「火鉢の上に鉄瓶を置くとします。鉄瓶の蓋を取らずにおきますと湯が蒸気になるときの力は莫大なものがござって厚き蓋をもはね飛ばします。この力を機械に応用しようと企てたのがイギリスのワットと申す男でござる」

「石炭をもって大きな釜に湯を沸かし、その蒸気の力にて船の横腹に取り付けた外輪を廻し、水を掻きます。その力は莫大で速度は帆船の及ぶところではありません。この頃は船を鉄にて造るそうです」

春嶽が船を鉄で造って沈まないのか尋ねると、「船の外装を鉄で造り内部は空洞にすることで水に浮くのでごさるよ。その為如何なる波浪に遭っても破損沈没ということがなくなりました。夷人どもはこれによって大洋を自由自在に乗りまわすのでごさる」と答えた。

蒸気船について、何て分かり易い説明なんだ!と感心した。

理科の先生や!

当時、蒸気船の仕組みについてこれだけ説明出来る大名が果たして居たのだろうか。

しかーし、こんな博識な斉彬はこの時37歳ながらまだ藩主になっていない。

父親の斉興が未だ藩主に居座り、側室のお由羅の方の子の久光に後を継がせたくて斉彬が藩主の座に就くのを阻止していた。

更に嘉永7年(1854年)6月、斉彬は大病に。

何とか快復するも続いて五男の虎寿丸も重病に。

一日に十数回の下痢を繰り返し6歳で短い生涯を終えた。

藩主の世子の男子5人全員夭折とか。

お由羅騒動の闇、深いな。

このお由羅騒動では赤山靭負という器量に優れ将来の薩摩藩を背負う大物と見られていた御仁が切腹を命ぜられ25歳でこの世を去った。

闇、深過ぎ。

これに関しては後々調べる事に。

 

9時半に自転車でフットサル教室へ。

コーチ1名男子1名女子6名が参加。

風も無く、絶好のフットサル日和。

月末でゲームデイなのでアップ後、早速ゲームをスタート。

12時まで4対4を楽しんだ。

 

帰宅後、まずは汗だくのジャージを着替え。

13時から昨夜以来の食事。

お腹が満たされたら、最新情報をチェック。

アメリカで色々と動きやデクラスがあった。

どうせ、日本では真実は報道されない。

だから、最新情報を言っても「?」て顔をされるだけ。

自分で調べて掴んだ情報じゃないと実にならない。

EBSが成されるまでは生き残りゲームよ。

 

17時から夕食作り。

菜っ葉と豆腐の味噌汁、タアサイと豚の炒め物、鱈のケチャップあん、ポテトサラダ、チーズonナン、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら、読書を楽しむ事に。

今日は上からの眠れ眠れ攻撃が無かった。

なんでだろ?

 

歩数計は12152。

フットサルが楽しかった一日だった。