4時半に覚醒。
最新情報をサーッとチェックしたら5時半に起床し洗濯と朝食作り。
ベランダでの水やりを済ませたら10時まで読書。
昨日から幕末に幕府の老中首座として黒船ペリーへの対応に活躍した阿部正弘さんに夢中。
1819年福山藩5代藩主阿部正精(まさきよ)の5男として江戸で生まれた。
1836年兄の正寧(まさやす)から家督を譲られ17歳で第7代藩主に。
幼い頃からその聡明さで知られ19歳で幕府の奏者番に任じられると21歳には寺社奉行、25歳の年には老中に抜擢された。
時の将軍、家慶公の覚え目出度く、彼が老中首座として仕事がやりやすくなるよう失脚した水野忠邦を再び老中に戻し、幕閣内の負の遺産を精算させたような形跡も見られる。
家慶公によるアシストは素晴らしい。
それに応えるかのように水野忠邦の部下だった鳥居耀蔵が陥れ刑に服していた高島秋帆等を再審等で無罪放免。
幕閣として復帰させるなどした。
更に、英邁な島津斉彬公が実父斉興が隠居しないのでなかなか藩主になれないでいたのも裏からアシスト。
斉興を隠居に誘導。
その取り巻き達も排除した。
これにより外様大名グループトップとタッグを組む事に。
また、人材不足を痛感した阿部正弘は藩校名を弘道館から誠之館に変え身分に拘わらず学べるようにした。
「弘道館」を1841年にいち早く水戸に開校した水戸の徳川斉昭公には一目を置き誠之館創立の際は命名を頼んだのだそう。
このように親藩の雄とも誼を通じ幕府は一枚岩となって夷狄に臨もうと体制を整えていた。
加えて、和宮を゙将軍家に降嫁させる事により公武合体も進め朝廷と幕府が一枚岩になり国として夷狄に対応しようとしていた。
1251年に執権北条時頼の嫡男として生まれた。
幼少より元(モンゴル)が日本に攻めてくる計画を知った父の時頼公から英才教育を受けた。
そして1274年、弱冠23歳にして文永の役に対応。
更に1281年、30歳の時弘安の役に対応。
元軍を撃退した。
その僅か3年後の1284年に32歳で逝去。
DSに暗殺されたんだろね。
幕末に降誕した阿部正弘公も1857年、日米修好通商条約締結(1858年)直前に39歳の若さで急死。
暗殺されたな。
ちなみにその翌年には盟友の島津斉彬公も急死。
幕末から明治維新に掛けて急死祭りよ。
まだ読書の途中なので何があったのか解明していく事に。
10時に畑と買い物へ。
畑に嫌がらせ要員3名がスタンバっていた。
この人達にお金払ってるの誰なんだろうね。
いい若いもんが10時から11時半まで畑作業のおばさんに嫌がらせ行動て。
他にやる事ないんかい?
12時に昨夜以来の食事。
夫は二日酔いが残り余り食べなかった。
午後も読書と調べ物。
17時から夕食作り。
湯豆腐、タレ、リンゴ。
夫がお腹が空いたと言うので18時から夕食。
次男の送迎があるのでアルコールは自粛。
19時半にお迎えに。
帰宅後、ブログ編集。
投稿したら読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は5841。
充実した一日だった。