2024/7/3水曜日
3時半に起床し朝食作り。
5時に畑へ。
オクラやインゲンの花が咲いていた。
カボチャの赤ちゃんも発見。
作物達が元気になるよう、にがり水を与えた。
雨が降ってきたので6時には帰路に。
帰宅後、シャワーを浴びてから洗濯。
ついでにベランダガーデニング。
朝食の後片付けを済ませたら8時半から読書。
昨日から穂積忠著「落城 戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い」に夢中。
これまで数々の戊辰戦争本を読んできたので復習にもなっている。
そして、この本では棚倉藩藩士の息子勇三郎12歳が度々主役として登場。
兵士として招集が掛かったのは15歳以上なので主人公は対象外。
12歳の子供らしく日々近所の子と魚釣り等をして遊んでいる。
それが、棚倉藩は奥州列藩同盟に参加した為、ある日、久慈川でドジョウを採っていると、薩長軍が押し寄せて来るのである。
城下は大混乱。
銃声鳴り響く中、母親と山の方へ逃げて行く途中、お城から黒煙が上り燃えている姿を見て涙するのである。
父も祖父も藩士なので兵士としてお城とその周辺で戦っている。
その安否もわからぬまま、自分と母親は兎に角、山の中へと避難。
会津若松を目指すも、状況が刻一刻と変わり、途中で仙台への避難に変更。
仙台へ到着すると、棚倉藩藩士とその家族のみならず、他の同盟各藩の藩士とその家族が大勢避難して来ていたそうだ。
棚倉藩は元老中阿部正外が藩主だったところだ。
この頃は隠居し次代の正静が藩主。
重臣の平田弾右衛門は家光公の時代から代々阿部家の重臣を担い代々の当主は弾右衛門を踏襲している。
藩の重臣による会議の場で弾右衛門は「天下の大勢に順応するのが武士の有り様ではありますまい。理非曲直を明らかにし、大義に生きることこそ真の武士の生きる道というもの、、、」と説き藩論は同盟参加に決定。
藩主阿部正静も同盟参加を承認した。
「同行願い申す、、、」
逆川村では越後高田藩の分領がある釜丿子村の陣屋から八木傳次郎に率いられた高田藩立操隊31名が参加。
これにより棚倉藩兵の意気は益々上がった。
越後高田藩は早くから薩長軍に恭順していたが、こっちの会津戦争では参加していたのな。
閏4月25日、西に那須岳を仰ぎながら藩兵は棚倉から二時間程田植えと麦刈り中の田畑が広がる平野の中を行進。金山村で昼食を取り薄暮に白河入り。本町の旅籠大谷屋を本陣とした。その夜、同盟各藩の゙代表が白河城内に集まって軍議。防備部署を決めた。
軍学者で儒学者でもある藩校教授の森嘉会は「守るに難い白河の町に籠るのでなく遠く下野との国境の山間部に布陣して賊軍を迎撃すべきと提案下され。隙を見て黒羽、宇都宮方面に侵攻すれば大きく道が開けましょう」
森は白河在住時に領地を隈なく探索し地形を熟知。
軍議で平田は新選組の斎藤一や幕府歩兵純義隊の小池周吾と共に下野との国境布陣を主張。が、総指揮者の会津藩家老西郷頼母は白河町の防備が隙間だらけになると懸念。町周辺に分厚く布陣すると譲らなかった。
薩摩藩四番隊長川村純義が年貢を半減すると約束したので農民が道案内。最も、白河口の戦いは農繁期に行われたので農民は銃弾が飛んでくるたびに農作業を中断。収穫は激減。2、3ヶ月から多くて4、5ヶ月食べるのがやっと。この年と冷害による凶作だった次年の白河地方の年貢は免除されている。
道案内の2名は後日、会津藩士に成敗された。
農民達にしてみればある日突然軍隊が押し寄せ略奪され、家に火を点けられ、労働力として駆り出され、農作業は度々中断。
不作となり年貢はおろか、食べる物にも困り、迷惑この上無かったに違いない。
それでも、棚倉藩阿部家は善政を布き領民と良い関係を築いていた為、藩士は城には火を点けたけれど民家はそのままにし退去したそうだ。
4/25の白坂口における官軍敗走が江戸の大総統府に伝えられると急遽、因幡備前大村佐土原軍を下野国に派遣。5/1に砲7門で白河を攻撃することに。同盟軍は武器の性能が劣る上に三方から包囲され次第に敗色を濃くした。
武器を売る方は勝たせたい方に性能の優れている物を売るからね〜。
棚倉藩の牧田三之助重孝25歳は路上で薩摩藩兵5人に囲まれた。3人を斬り倒しもう1人に、というところで薩摩藩の森権之丞の短銃に撃たれ死亡。森権之丞は牧田の刀が銘のある業物なので土産として国に持ち帰り家宝とした。
午後2時を過ぎドンゴリ仙台藩兵が前後に挟み撃ちされると錯覚し敗走しだしたのが同盟軍崩壊のきっかけに。
仙台藩兵は火縄銃と丸玉を先込めする単発式のヤーゲル銃。
薩長軍は連発式の元込め銃。
特に5/1は降雨により火縄銃は用を成さず。銃無しの仙台藩兵は剣での肉弾戦を挑んたが次々と銃撃され倒れた。
勇三郎の父大野庫太は隊長の阿部内膳や牧田三之助らが撃ち斃されたのもあり白河城まで退く事に。が、そこは既に薩長兵がウロウロし味方の兵は一兵も居なかった。
やむなく城を脱出。そこで会津勢に遭遇。
羽太村に撤退。
そこで上総飯野藩士森要蔵に遭遇。飯野藩は二万石の小藩ながら会津藩の分家筋の保科家。松平容保公の義姉照姫の出身。36名が脱藩して同盟軍に加勢。
羽太村の民家は殆ど焼かれ、焼かれなかった民家は5、6軒のみ。焼け出された住民は掘っ立て小屋を建てて暮らした。明治9年明治天皇が通過した際も掘っ立て小屋のまま。
5/26, 5/29, 6/12は白河に対する同盟軍の総攻撃。6/12は薩長軍1500, 同盟軍4000で対戦。同盟軍は関山の山上に陣取り棚倉藩兵の撃つ号砲6発を合図に激突。
棚倉藩は平田弾右衛門を隊長に旧幕府歩兵純義隊と相馬藩兵と共に合戦坂で戦った。一時は相手の陣地を奪ったが薩長軍の増援で形勢逆転。金山村まで撤退した。
この戦いで番頭(侍大将)権田東左衛門49歳、山岡次三郎22歳、村田眞八郎25歳等15名が戦死。竹細工の内職に励む眞八郎は色白で大人しい人柄だったが、この日は抜刀し敵陣に駆け入ると敵兵1人を斬り殺しもう1人に重傷を負わせたところで銃弾に斃れた。後に妻と4歳の幼子が遺された。棚倉藩に限らず何処の藩でも百石未満の藩士達は木工や竹細工、大工や左官仕事、畳編み、襖張り、傘張りなどの内職をしないと生活出来なかった。藩士の妻や子達も裁縫の内職や鶏を飼い、庭で野菜や麦を育てる畑仕事をし米と魚介類以外は自給自足。また、蚕を飼って繭を取り機織りに精を出し現金収入を得た。
棚倉藩では藩士の子弟で15歳以上の者は従軍。800〜900名が動員されたか。その際、刀や衣服は自前。中には貧窮により刀や槍を質入れしていた者も。慌てて参陣手当を持参して質請けする者も居た。藩庁は戦毎に2〜3両の参陣手当を支給。藩はそれとは別に鉄砲、弾丸、食糧を準備。膨大な出費に。
藩士の各家庭で男子は幼い頃より切腹の作法と「戦場で勇敢に振る舞え」「人に後れを取るな」と教え込まれていた。勇三郎は12歳で参陣出来ない事を他の年少の友人達と悔しがった。
ついこの前まで勇三郎と一緒に鬼ごっこや魚釣りをして遊んでいた少年兵の秋山甚内や石坂吉蔵は白河の合戦で捕虜になったあと斬首刑に。
棚倉藩は一度だけ薩長軍の攻撃を免れる機会はあった。藩主阿部家の聰姫は島津家の出身で健在。薩摩藩参謀伊地知正治は川村純義と計り降伏を勧めた。が、棚倉藩士石山斉兵は話し合いできる者は今ここにおらぬと返答。6/24, 今時分や、薩長軍が棚倉城に攻めてきた。
久慈川でドジョウを採っていた勇三郎はやたら銃声音がするのに気づき、お城に居る祖父忠左衛門に聞いてみる事に。
祖父忠左衛門は60歳に近い身で御本城番を務めていた。その時、若侍達が「敵が来たぞ!逃げろ!逃げろ!」と知らせに。
祖父は見つからなかったので代官町の軍務所にいる父親庫太に会う事に。
その途中家々には火が点けられた。薩長軍の陣所にさせない為だ。
棚倉藩士仁平将胤19歳は病後の身体だが人が足りないので参戦。敵兵と斬り合い傷を負いながら木陰に身を隠しながら銃を乱射。薩長軍は元込めの連発銃で応酬。棚倉藩兵の銃は旧式の火縄銃、先込め単発式のゲーベル銃、ヤーゲル銃と人によってまちまち。味方の砲手が撃たれて倒れた。他に砲手はおらず大砲を撃つものがいなくなり平田の命令で撤退する事に。
棚倉藩負傷兵は旅籠大和屋に運ばれ治療。銃丸の傷は竹製の水鉄砲で焼酎消毒をして荒縄で縛った。が、そこへ「賊がくるぞ!」との声が。慌てて大和屋を脱出し千駄櫃部落へ。ここから阿武隈山中に隠れれば安全だ。その坂に来た時棚倉城が焼けている黒煙が見え涙した。
上総請西藩藩主林忠宗19歳は一度は新政府に服属したが大政奉還に際し維新政府が宣言した五箇条の御誓文の第一条「広く会議を輿し万機公論に決すべし」の誓約が実行されていない事に憤った。当初忠宗は新政府の会議に参加し徳川慶喜の復権と会議参加を主張するつもりでいた。それなのに、一向に会議の招集の知らせが無く薩長の独断でことを進めていることに対して抗議を申し入れようとした。
上総飯野藩士の森要蔵は江戸で千葉周作に撃剣を学んだあと道場を開き門弟1000人を有した。7/1, 飯野藩は下羽太で土佐藩八番隊と戦闘。森要蔵は58歳ながら刀を振るい敵兵3人を屠った後斃れた。息子虎尾16歳も銃弾に倒れ死亡。土佐軍の中には門弟も数人。有名な森父子の遺骸は土佐藩士により下羽太の大龍寺に手厚く葬られた。
7/15早朝は仙台藩を主力とする同盟軍が白河城を総攻撃。
仙台藩参謀の増田歴治は兵士より先に退却。薩長軍は仙台藩兵を「ドン五里兵」と嘲笑した。大砲のドン!という音を聞いただけで五里(20km)も逃げてしまう。ある意味20kmも逃走出来るとは凄いな。
7/27, 薩長軍に寝返った三春藩兵は本宮町に進出。
三春藩兵を見た二本松藩兵は援軍が来たと思い近づくといきなり銃撃された。
二本松藩重臣丹羽一学「降るも滅び降らざるも亦滅ぶ。死を致して信を踏まんのみ」信義を守って列藩同盟に殉じよう。義の為に死ぬ事を本望とする。
ま、正義は孝明天皇と徳川家にあるからね。
この日二本松藩兵は大部分が白河、棚倉、本宮、郡山に出撃し城の守備兵は僅か。急遽、兵役免除だった13, 14歳と60歳以上の藩士に動員が。22歳の砲術指南役木村銃太郎は少年兵達と祝い膳を囲んだ。
運命の7/29, 二本松では早朝から城を守る老兵と少年兵を巻き込んでの凄絶な戦いが繰り広げられた。はぁ~、読まんといけないんか~。
27日の時点で城を守る二本松藩兵は総勢500人。他に会津藩兵五個小隊とドン五里仙台藩兵三個小隊が居るのみ。
29日には本宮から安達山を迂回して引き揚げて来た大谷鳴海隊の一部と自警団的な町人兵が加わり漸く1000人。
薩長軍は砲七門を備え2千数百人で攻めてきた。迎え撃ったのは砲三門の丹羽右近三個小隊300人。この中に木村銃太郎率いる少年兵23名。そこへ下僕に手を引かれた12歳の久保豊三郎が太刀を引き摺るようにしてやって来た。その幼さに少年兵達が呆気に取られる中、敵弾が飛来してきた。
木村銃太郎の指揮は見事で大砲の狙いは的確だった。凄まじい銃砲撃の中で木村銃太郎が倒れた。銃太郎は二階堂衛守に介錯を頼んだ。少年兵達は二階堂衛守の指揮で撤退を開始。
そこへ薩長軍の黒い獅子頭を被った隊長らしい男が現れた。辺見十郎太だろうと言われている。少年兵と認めると「早く行け!」と逃した。
少年兵達は無我夢中で大檀口の丘を駆け下った。大檀口路傍の民家に潜んで機を窺っていた二本松藩士山岡栄治26歳と青山助之丞21歳は凄まじい勢いで刀を振るい9人を斬り倒した。野津道貫が属する薩摩の小隊は二人の勢いに恐怖し1町(110m)程敗走。間もなく二人共銃撃され死亡した。哀悼。野津道貫は後に「幾多の戦場に臨みたるも真に逃げたのはこの時のみであった。実に二本松藩の決死的行動には敵ながらも嘆賞しておった」と述懐している。
12歳の久保豊三郎はこの時受けた銃弾の傷が元で11月に入院先の病院で亡くなる。
こんな凄惨な戦いが僅か155年前の1869年まで繰り広げられたのである。
何故、奥羽地方の人達がこんな凄惨な目に遭わないといけなかったのか。
しかも、DS連中が勝たせたい方に最新式の武器を売っている。
最初っから出来レースですわ。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら、午後も読書と調べ物。
穂積忠著「落城 戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い」が面白くて、夕食前に読了。
この方、命を狙われたりしてないだろうか、と念の為調べると、既に鬼籍に入っていた。
出身は棚倉町、とあった。
それで、こんなに詳しく戊辰戦争時の棚倉藩の様子が描かれているのだな、と納得。
16時半から夕食作り。
ズッキーニとカボチャのスープ、大根と豚肉の煮物、さつま揚げ、エビサラダ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
このあとは二本松少年隊本を読む事に。
歩数計は6284。
充実した一日だった。