2024/7/10水曜日
3時に起床し朝食と昼食作り。
4時半に畑へ。
水遣りをしているとトウモロコシの雄穂にトウモロコシの実?みたいなのが出来ていた。

帰宅後、調べると、タッセルシードと言う実で低温が続くと出来るそうだ。
https://www.townnews.co.jp/0608/2012/07/28/153016.html
5時45分に帰路に。
帰宅後、ベランダガーデニング。
大豆と小豆の苗作りをした。
土いじりが終わったらシャワー&洗濯。
8時に米麹の品温をチェック。
発酵機を使用しなくても41度をヒット。

麹菌ちゃん達が大活躍。
前回、麹蓋に分けないで作ったら麹菌が余り増殖しなかったので今回は麹蓋2つを使用。
今日も30℃超えの予想なので、麹蓋の上にパイレン布と晒布を掛けるだけ。
部屋の中には終日、麹の良い匂いが立ち込めていた。
8時半から読書&調べ物。
「戊辰戦争・三春藩の戦い」
戊辰戦争の終結前に歌われていた歌を紹介。
会津猪 仙台狢 安倍(阿部)の兎はよく逃げた
会津猪 米沢狸 仙台兎で踊り出す
会津猪 米沢猿で新発田狐に騙された
会津桑名の腰抜け侍 二羽の兎はぴょんとはねて 三春狐に騙された
会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒

そして、三春藩を紹介。
「三春藩の由来」
五万石の外様大名。
1865年、15代藩主秋田映季が就いた。
父肥季の急死による為まだ8歳。
叔父の秋田主税季春が後見役となって藩政を掌握。
この頃、三春藩は、城内に調練場を設置したり鋳物師に大砲を作らせるなど軍の近代化に尽力。
更に徳川家の墓所や日光警備、前藩主の葬儀に伴う財政負担の増加で苦しかった。
藩内で御家中俸禄の借り上げ、面扶持制、行政機構の改正、華美な生活の自粛などを断行していたが苦しかった。←皆同じじゃね?
「三春藩の幕末」
1867年12/12藩主名代年寄秋田広記は京都へ出立。
途中江戸屋敷に寄り26日に京都到着。
既に王政復古クーデター終了。
江戸で起きた12/24の三田薩摩藩邸砲撃事件も見聞きしている筈。
1868/1/3秋田広記は大坂城に登城。
上京を将軍慶喜に報告。
その日鳥羽・伏見の戦いが勃発。
夜にクーデター政権から仁和寺宮に偽錦旗と節刀が与えられ幕府側は賊軍として追われる立場に。
1/8慶喜と容保公は江戸へ退避。
1/15秋田広記はクーデター政権から「慶喜追討援護令」を受け取る。
1/22三春藩は新政府への協力を表明する為、御用人秋田右近を京都に派遣。
2/4, クーデター政権は全国大小名に対し慶喜追討の軍を派遣する事を強制。
奥羽諸藩は続々と東北の元締めの仙台入り。
2/9に天童藩。続いて盛岡、米沢、庄内、相馬、二本松藩。
いつまで経っても仙台入りしない三春藩に疑惑の声が。
3/13, 三春藩は漸く仙台入り。
4/13, 秋田右近は芝山内真乗院に伺候し東征大総督府参謀池田穂徳に面会。
その指揮を仰いだ。←二股かけとる。
結構他の藩もやってるが。
閏4/11奥羽諸藩会議。
三春藩から御用人大浦帯刀が参加。
三春藩の署名もあった。完全なる二股行動。
嘆願書は世良修蔵によって拒否。
5/3, 攻守同盟である「奥羽越列藩同盟」を結んだ。
三春藩は藩主秋田映季の名で同盟に参加。旧幕府側に付く事を表明。
「三春藩の本心」
奥羽諸藩会議が開かれた閏4/11, 三春藩は京都に嘆願使を派遣。
5月晦日、秋田広記の名で新政府の弁事御役所に嘆願書を提出。
「官軍御到着奉待尽力仕候外念無御座。万之助始家来共迄決心罷在申候。奉仰望候者右之赤心御憐察被成下早々御進軍御救助奉嘆願候」
「三春藩は力のない藩であるので旧幕府軍から攻められた場合は山野村落に潜んでも城下が焦土となるとも赤心は勤王であるという心を動かす事なくおりますので援軍願います」みたいな?

6/1, 三春藩は「敵の耳目に触れ潜居の術計も施しかねると深く心痛しているので事成るまでは御出板等に相成ることは暫時御猶予下されたく、、、」との追加の嘆願書を提出。
旧幕府軍を敵として恐れ秘密裡に工作を進めたい意向であった。

これの前、旧幕府軍による白河城奪還戦(5/26)に於いて三春藩は旧幕府軍を援助。
新政府軍から嫌疑が掛かっていた。
二本松藩は国境の小野新町や糠沢村に国境警備という理由で藩兵を派遣。
糠沢村はこの後も出てくる要所。
7/16, 棚倉奪還を目的に浅川の戦い。
この戦いで三春藩は仙台藩を背後から攻撃。
三春藩外事掛不破幾馬は誤りであったと弁明。
7/16, 秋田右近、河野卯右衛門、河野広中は棚倉駐在中の新政府軍参謀板垣退助へ密かに帰順嘆願。
これ以前、河野らは独自の嘆願行動として土佐藩美正貫一郎率いる断金隊に入隊。
河野らの動きに対し三春藩は7/17, 会津・仙台藩に三春藩への援軍を要請?
なんじゃ?このダブルスタンダード。
藩の実権を握っていた藩主の叔父で後見役の家老秋田主税(季春)は大村藩11代藩主大村純顕に妹のおセイの方が嫁いでいる。また、薩摩藩系倒幕過激派公卿大原重徳とは歌道の師弟関係。
後に藩主映季の養子に重徳の子を迎え重季として三春藩を継がせている。
新政府軍とのパイプを早くから二重三重に築いていた。
会津藩へ救援を求めに行った田部井求は会津藩から兵を借り二本松領まで来た所で三春城無血開城を知り落涙。
そこへ三春藩先導の薩長軍が到来。
会津藩兵は三春藩士田部井に連れてこられ、そこで三春藩と一戦。
もう、三春藩のおかげで何が何だか。
黒幕は秋田季春やろ。
今日は菅野与著「本宮地方の戦い」までいっちゃうね。
「白沢の戦い」
これは従軍記「渡辺園右衛門戊辰戦争記」に詳しいので紹介する。
6月下旬より三春藩の動きが怪しい為、国境の三春辺より石川・菅谷・広瀬の辺を二本松家中大谷与兵衛を番頭役として組子同心・在々小者・若党を引き連れ、固めていた。
その留守中の警固として糠沢村城丿内・原辺に番所を立て糠沢組猟師を始め村々男一人を農兵と定めて松沢村堺の岫(みね)六本木弥右衛門の隠居を借り番所としていた。
又、同村村境屋敷へも番所を立て、猟師・番兵・農兵の者共へ官軍来たる時は打ち取れと命じ固めていた。

樽井弥五左衛門(番頭役)も人数を引き連れ高木辺より糠沢、白岩、松沢此三ヶ所を見廻りし松沢酒屋に止宿。
糠沢城ノ内役所を固めていた。
二本松家中栗生庄司・横田伊織2名を止宿させ番所の警固に当たらせた。
7/25, 三春の先仁井町には大谷与兵衛が出張していたが、午前8時岩城口から繰り込んできた官軍方と大谷勢との打ち合いに。与兵衛方は打ち破られ潰走。
官軍勢が三春城下に繰り込んだのは7/25夕方より26日昼時分。
その注進をを聞き二本松城下は大騒ぎに。糠沢、白岩、松沢三ヶ所の番所を猟師と壱万石より集めた農兵で固めた。
官軍方は三春を立って三ヶ所の番所の様子を伺い、7/26夕方、三春領平沢、七草木、御祭等の百姓共が案内した。
朝4時にまず、松沢番所が打ち破られ、次に糠沢番所が破られた。
午前8時には堺番所が。
逃げようとする者達に対し官軍は鉄砲を打ち放した。
白岩の農兵、孫太郎内林右衛門妻壱人、大葉内善作、関ノ上安左衛門、戸ノ内義作、屋戸藤介、原の徳松等6名は討死。
外に二本松家中栗生庄司は文之丞蔵の前で討死。
糠沢組代官笠間一之進は大稲場で討死。
糠沢城ノ内役所では3,40名が討死。
また、官軍の放火で民家30軒余りが焼失。
城ノ内警備の樽井隊の中に武藤定助(15歳)田中三治(16歳)は銃士として、岩本清次郎(17歳)中村久次郞(17歳)は太鼓方として出陣。
岩本、中村、田中は戦死した。
樽井隊の犠牲は藩士29名、農兵28名、計57名。
哀悼。
「小浜の戦い」
当時22歳で小浜の町目付役を務めていた菅野善之助の証言によると「7/27早朝、中沢鼎と梅原新吾が小浜に来て西軍事情の偵察を命じた。両人が三春街道を稲沢村まで行くと松沢・白岩・糠沢は勿論、稲沢、長屋、和田の一部は西軍の物になり本陣を名主菅野伝四郎方に置いた。総大将は大村藩渡辺清左衛門。一時後退したのは諏訪神社の獅子舞の笛や太鼓音を聞いて丹羽の大軍の逆襲と思っての事。西軍は総勢2〜3000人。28日は二本松藩から帰順の使者が来るのを待っていた。29日早朝、西軍は出陣。
供中方面で大砲の音が聞こえた」
尚、29日、二本松城下への進撃は朝5時、薩摩兵一番隊を先陣とし、やや距離を取って兵具方一番隊・二番砲隊・私領一・二番隊、次に長州藩三中隊、最後に備前兵(669名)・佐土原藩の順で小浜を出発。
「高木の戦いと本宮宿占領」
本宮進撃を目指す板垣軍は黒羽藩(2個小隊と砲二門)忍藩(1個小隊)を先鋒とし本隊の土佐藩(3個小隊と砲)大垣藩(2個小隊)館林藩(1個小隊半と砲二門)彦根藩(3個小隊)が出陣。
また、三春藩兵に導かれた断金隊(土佐藩美正貫一郎隊長)が先頭に。
忍藩記録によると三春出発午前11時。
前夜の薩摩3隊による糠沢村城ノ内奇襲攻撃も記載されている。
この時本宮村を守備していた二本松藩第四番組大谷鳴海隊(二小隊、卒隊長青山伊右衛門・軍目付黒田伝太)80名程。
鳴海隊は7/26の三春藩降伏を知ると須賀川滞在の二本松藩総裁丹羽丹波に報告。丹波は成田助九郎、丹羽主膳の遊撃隊に本宮急行を命令。
二本松からは上田清左衛門が急行。
鳴海隊は午前2時本宮宿に到着。
隊長大谷志摩・成田弥左衛門隊30名も援軍として早朝到着。
合計110名で中舟場・上舟場を守備。
7/27の戦闘状況と経過について「黒田伝太回顧録」と南町本陣原瀬家の合戦記録「御用留」を参照。
大谷鳴海隊が軍服のまま仮眠中の7/27夜明頃、阿武隈川対岸の高木村から銃声。渡船し探索したが敵影発見出来ず。
板垣軍の三春出発が伝えられ探索後に渡河する予定が血気の兵は我遅れじと渡河。忍藩兵と遭遇し一戦。
後続の黒羽藩も援護射撃。
戦いにならなかった。
西軍の人数はどんどん増え敗色濃厚に。
西軍も阿武隈川を渡河しようとするも舟が無いので沓ヶ沢を目指した。
西軍は筏を作り渡河。
ここで土佐藩断金隊隊長美正貫一郎は二本松藩兵奥野音人に撃たれ斃れた。
二本松手勢は少なく、官軍勢は沓ヶ沢・中舟場二か所より上陸。
本宮へ宿陣した。凡そ二千三百人だった、と「原瀬御用留」に書かれている。
仁井田村に上がった大谷鳴海隊は青田村名主佐藤東十郎倅直蔵が苗代田村より名倉山の裏手を通り正法寺村辺へ出向く方が安全であるので道案内しようと言ってくれた。
一同山田善性寺を通り大檀口へ出た、と「黒田回顧録」にある。
7/27の戦いで戦死した二本松兵は25名。うち藩士23名、農兵2名。
哀悼。
今日はここまで。
明日は本宮の「7月28日の戦い」から。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書&調べ物。
17時から夕食作り。

ニラつくね、キャベツの千切り、サラダ、チーズ&ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
夫は呑み会で不在の為、簡単料理。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
読書の続きをすることに。
歩数計は6467。
充実した一日だった。