arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1036日目と畑と二本松城攻防戦

2024/7/14日曜日

6時に起床。

7時に畑へ。

 

雨の後は竹酢液を混ぜて水遣り。

収穫してから8時に帰宅。

 

シャワーを浴びたらベランダでの水遣り。

雨はポツポツとしか降っていない。

いつも通りに水遣りをした。

 

9時からのテニスが雨で中止になったので読書。

 

昨日の続き。

 

今日は星亮一著「霞ヶ城炎上」

「紅蓮の炎」

二本松に敵来襲の報に仙台藩烏組隊長細谷十太夫須賀川から二本松に急行。

二本松が落ちれば次は仙台。なんとか食い止めたいと急いだ。

岳温泉の麓まで来た時、二本松城に黒煙が。

二本松からは老若男女が続々と逃げて来る。

中には昨夜分娩したばかりと言う顔が青白い若い女性も。

 

二本松城炎上の際、城内に家老の丹羽一学、大城代の内藤四郎兵衛、城代の服部久左衛門、郡代の丹羽新十郎らが残っていた。

首席家老の丹羽丹波は主君の後を追って米沢に。

こうなった以上藩に重責を担う人間は落城の責任を取って自刃するのは当然。

本宮が占領された時点で降伏もあり得たが主君丹羽長国は拒否。

一学も降伏を望まず。

後世の人は二本松藩の選択をどう評価するか。

武士である以上、理不尽な降伏の要求に応じられる筈もなく薩長の一方的な新政府なるもの(笑)に賛同するわけにはいかなかった。

力で言う事を聞かせようとする薩長流の政治は我慢が成らなかった。

一学は新十郎、久左衛門を伴い土蔵奉行役宅へ。

まず、辞世の句を詠んだ。

風に散る露のわが身はいとはねど 心にかかる君が行く末

介錯は大島成渡

続いて、新十郎、久左衛門も割腹。

大島は役宅に火を放った。

丹羽一学 享年46

丹羽新十郎 享年43

服部久左衛門 享年56

新十郎の義父丹羽和左衛門が甲冑に身を包み到来。

炎上する城を見上げ「全ては余が微力のせいじゃ」と割腹して果てた。

享年66。

その傍らで安部井又之丞も割腹して果てた。

大城代内藤四郎兵衛は白河で戦死した小隊長内藤隼人の父。

この日戦死した高根三右衛門は実弟

伝来の甲冑に身を包み槍を手にした四郎兵衛の姿は天晴。

「武将たるもの空しく死すべからす」と自刃を拒否。

戦って死ぬ事を決めていた。

最愛の嫡男を戦場で失っている。

敵の一人でも自分の手で討ち取り息子の仇を討ちたい。

 

人は人、おのれはおのれ✨

ええか?大事な事やからもう一度言うで。

人は人、おのれはおのれ✨ 

 

四郎兵衛は槍を構えた。

傍らには藩祖伝来の「金の枝蔓」の馬印を高く掲げた奉行の高橋九郎。

後ろには白木綿の鉢巻に槍を抱えた何人かの老兵。

周囲には傷ついた兵士も横たわっていたが皆四郎兵衛と共に突撃して死ぬ事を望んだ。

「門を開けよ。者共続け。徒に自刃する勿れ」

四郎兵衛は絶叫。

箕輪門がぎいと音を立てて開くや「われは大城代なり。鶴ヶ城の首領なり」と大喝。「わああ」と突進。

四郎兵衛に続く者数十人、敵は驚愕し一旦引いたが忽ち戦列を立て直し雨霰と銃弾を浴びせた。

四郎兵衛は尚も突き進んだ。

目の前が真っ暗になり体のあちこちから血が噴き出したが痛みは無かった。

槍を捨て刀を抜いた四郎兵衛は「隼人の父なり」と叫び遮二無二敵に斬り掛かり壮絶な斬り死にを遂げた。

周囲には数十人の遺体が横たわり敵将も城を枕に討ち死にした二本松武士の勇気に心を打たれた。

えがったな、DS共、映画作れるやん!

「逃避行」

藩主丹羽長国一行は米沢への道を急いだ。

夫人の麗性院は信夫郡庭坂にあり。

城が陥落、早く逃げろと、藩士の子女も続く。

夕刻李平に到着し一泊。

夜中に出発し板谷宿を目指す。

急峻な峠を死ぬ思いで登っていると産気づいた者が。

赤子は小川の水で洗い産婦はそのまま歩き出した。

米沢の関門に着く頃には雨に打たれ体が冷え疲労困憊。

しかーし、ここで足止めを食らう。

堀次郎太夫が関門に入り、米沢本庁へ向かい交渉し戻ってくるまでの数時間谷間の河原に蹲って待っていた。

ここで丹羽新十郎の妻きみは夫の自刃を知り自ら自刃。

やっと米沢入国が許され板谷宿に泊まる事が出来たのは夜になってから。

二本松藩にはもう一人強気の武将が。

首席家老兼軍事総裁の丹羽丹波

白河戦を戦い須賀川に退き白河奪還を期している時に本宮占領を知り急遽玉ノ井村へ。

朝方には黒煙が上がり城が落ちた事を知った。

藩を立て直す為に藩主の後を追い庭坂へ。

二本松藩奪還作戦」

会津参謀南摩綱紀が庭坂に駆けつけた。

福島には仙台藩の軍事局が。

そして、前老中の小笠原長行も居た。

無血開城をした勝海舟に反発。

薩長の政権は認められないと頑張っていた。

丹波は兵を六小隊に編制。

家老の丹羽掃部介を作戦の担当に任命。

母成峠の会津藩守備隊が同時に出兵。

丹波は土湯から横向き峠を経て猪苗代の会津軍前線基地に到着。

母成峠に布陣していた大鳥圭介が応援を約束。

会津、仙台、米沢、上山、山形、棚倉藩兵が福島と会津国境から出撃。

二本松を奪還する作戦が練られた。

決行は8/17。

午前8時に安達郡油井村に着くと、前方に薩長軍の陣地を視認。

猛烈な銃撃を加えてきた。

敵は彦根土佐藩

先鋒の仙台藩が、小隊長の梅村信太夫が真っ先に斃れ兵が動揺。

20名を超す戦死者を出した。

この日は秋雨。

仙台兵の火縄銃は使い物にならず反撃出来なかった。可哀想に。

丹波は諦めきれなかった。

代々家老座上、首席家老の家柄。家禄3160石。

藩士の最上位の地位にあった。

8/21, 石筵の関門、母成峠で奮闘。

猛将大谷鳴海と大谷与兵衛の二本松藩二小隊、50余人が居た。

二本松兵は旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介の指揮下に入り左翼の猿岩に布陣。

二本松を占領した薩長軍は虎視眈々と会津を狙っていた。

西軍は郡山の中山峠から攻め入ると言い触らし、玉ノ井から石筵に向かい母成峠に攻め込んだ。

会津藩は主力を中山峠周辺に置き石筵は大鳥圭介に任せていた。

厳しい山塊に囲まれた天然の要塞。

地元の猟師の先導で2000余の薩長軍が濃霧の中、山岳地帯に奇襲攻撃を掛けた。

守る会津軍は数百。

DSアシストの濃霧の為、敵の姿が見えず気付いた時には目前。

二本松藩兵は必死に戦ったが数時間で会津軍の砲兵陣地が落ち退却を余儀なくされた。

西軍は猿岩の背後にも回り挟撃。二本松藩兵は割奉行滝川九右衛門、宗門奉行種橋荘吾、広間番大森此母、青山又十郎、松本織之介らが戦死。

丹波会津若松へ。

そこで仙台と米沢が降伏と聞いた。

米沢滞在中の藩主の元へ向かうも入国出来ず会津城下へ。

やむを得ず土佐の陣営に出頭し恭順の意を示した。

二本松に残った商人の中島黄山が奔走。

庭坂滞在中の日野源太左衛門、梅原剛太左衛門、和田一らと謀り薩長軍本営に出頭。降伏の意を表した。

9/5, 二本松藩降伏。

藩主長国公は大隣寺に謹慎。

二本松藩の戦いは終わった。

最後まで「義」を貫いた、後世に胸を晴れる見事な戦いっぷりだった。

 

12時に昨夜以来の食事。

ヤロー共にはラーメンを調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁と玄米ご飯メインでお腹を満たした。

 

午後も精力的に読書。

14時半に畑用資材を買いにホームセンターへ。

寸法を測るのに畑に寄った際、トウモロコシを2本収穫。

早速茹でて、夕食に。

夕食の画像は撮影し忘れた。

トウモロコシ、親子丼、サラダ、味噌汁、ジャーマンポテトウォッカ梅酒ロック。

初収穫のトウモロコシは虫に食われた箇所もあったけれど、甘くて美味しくて夫にも大好評だった。

夫が半分以上食べた。

今日も蒸し暑くてウォッカ梅酒ロックが美味しくて2回お替り。

お皿を洗ったら、営業終了。

読書をしてから寝ることに。

 

歩数計は6231。

充実した一日だった。

以前はこのブログ編集の最後にスマートウォッチで歩数計をチェックするとスマートウォッチの画面がブラックアウトして見れなくてアプリで歩数を確認してた。

3日位前からスマートウォッチを見ると確認出来るようになった。

これは何で?

嫌がらせ項目が一つ減ったのだが。

今まで、夜にわいのスマートウォッチをハッキングしてた人の仕事一つ減ったけど、お給料は減ってないのか?

そもそも、人に嫌がらせする事で給料貰うとか、やだわな、そんな仕事。