arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1033日目と畑と本宮の戦い②

2024/7/11木曜日

3時45分に起床し朝食作り。

5時に畑へ。

水遣りをして収穫をしたら6時に帰路に。

 

帰宅後、シャワー。

雨予報なので洗濯はお休み。

6時半に米麹をチェック。

すると、品温は34度をヒット。

見た目もいい感じに麹菌ちゃん達が増殖。

あと数時間で出糀する事に。

 

8時に子供等を駅まで送迎。

ついでにスーパーで買い物。

9時半に帰宅後、買ってきた食材を各所に収納。

麹も出麹。

やる事やったら10時から読書。

 

昨日に引き続き「本宮の戦い」

今日は「7月28日の戦い」

7/27, 本宮宿を占領した西軍は28日は藩主丹羽長国公の奥方の出身地、大垣藩による説得と降伏を期待し待機。

その最中、東軍の本宮奪回作戦が展開され、本宮宿は未曾有の戦争体験をする事に。
原瀬御用留によると「28日仙台藩細谷十太夫手勢300人同藩烏組300名計600名が玉ノ井の内大江村、北町裏雷神堂山辺に於いて西軍宿陣を取り巻き発砲。西軍もこれに応じ大打ち合いに。また、仙台藩坂英力手勢250, 会津藩4,50人、二本松藩丹羽右近隊4,50人も江戸街道・会津街道両方より本宮宿へ鉄砲を撃ちかけてきた。玉ノ井口へ出兵した仙台兵は大敗。西軍は沓ヶ沢の大合戦で仙台・会津・二本松の三藩兵を破り仁井田村辺まで追い詰め同所を焼き討ち。更に高倉館に上がったところも焼き払い苗代田村・玉ノ井山入辺に退却した。この合戦は午前七時から午後四時まで続き両方の戦死・手負い人凡150人にのぼった」

 

 

そして、林洋海著「母成峠の戦い二本松藩

読むのが辛かった。
1868/7/29, 阿武隈川から立ち込める朝霧をついて怒涛の如く押し寄せた西軍に二本松藩は壊滅した。
この戦闘で213名か戦死。その多くが郭内で白兵戦による戦死だった。

戊辰戦争での二本松藩の戦死者は338名。士分162名。卒以下176名。士分391人、卒以下459人の藩でそれぞれ四割を失った。負傷者58名は少ない。「負傷者の数甚だ少なきは、戦士負傷を恥じて之を秘したるに因るという」と二本松藩史にある。

二本松藩の兵力は八番組16個小隊、2400人だった。
一番組 番頭 大山大助
二番組 番頭 日野大内蔵
三番組 番頭 樽井弥五左衛門
四番組 番頭 種橋主馬介
五番組 番頭 大谷鳴海
六番組 番頭 大谷与兵衛
七番組 番頭 高根三右衛門
八番組 番頭 丹羽右近

西軍が二本松に雪崩れ込んだ時、軍事総裁 筆頭家老丹羽丹波は七番組と八番組、遊撃隊に丹波の手勢を合わせ10個小隊、1500名を率いて白河に出陣していた。
二本松の守備兵は僅かに一番組本山大助と二番組日野大内蔵の600名(泣)

600名と言っても、一個小隊150人のうち戦闘員は銃士18名。銃卒32名。

あとは兵站を担う兵や農兵で四個小隊の戦闘兵は230名。
確か、本宮宿に宿陣している西軍は2,300名。10倍やないかー!

7/27, 三春藩の寝返りを知った城代家老丹羽掃部介は須賀川に布陣した軍事総裁丹羽丹波に城下防衛の為、全部隊の引揚を早馬で命じた。
しかし、部隊の引揚は困難を極めた。
二本松は奥州街道沿いにあり引揚は一本道。が、二本松手前の本宮宿を西軍に抑えられている。

正面突破するか安達太良山山麓を迂回するしかない。どーすんだよ~!

城下の防衛には、何とか立ち戻った兵に加え会津藩五小隊、仙台藩三小隊の部隊も加勢。

それでも千人に満たなかった。
片や、西軍の兵は、7/29には奥州街道本宮から4,500,二本松東方の小松から2,300。計6,800て、膨れ上がっとるやないかー!!

おめだぢ、何しにとうほぐへ?

6,800の兵が一斉に二本松へ乱入。

戦闘は3時間で決着。

昼餉には掃討戦も終了。

城も城下も焼け落ち二本松兵の遺骸が散らばっていた(泣)

これはクーデター新政府による「天皇の力を見せつける為に相手に絶望感を抱かせる徹底的に残虐非道な戦争の遂行」(「木戸孝允文書」)を為したもの。

明治2年長州における元奇兵隊員らが「諸隊叛乱」の際の弾劾文で「二本松引揚之次第不宣事」と悔悟を込めて新政府を誹謗した程、安政地震後の惨状を見るようだったと言われる程だった。

長州兵が憐れむ程の惨状、てこと。

えがったな、イギリス始め、日本の支配層が滅ぶのを待ってたフランスオランダ米国共。

侵略に邪魔でしょうがなかった武士達が一杯死んで。

しかも、自分達が関与している素振りを見せる事なく薩長兵が、同じ日本人がやってくれたんやからな。

そら、新政府でご褒美の役職ありますわ。

市街戦では二番組番頭日野大内蔵、七番組番頭高根三右衛門が戦死。
しかし、二本松藩はここまで壊滅的に大敗しても降伏しなかった。

寡兵ながら「死を賭して信義を守るは武士の本懐」とし、生き残った藩士達は落城後も城を退いて戦い最後まで武士の意地を見せた。

後に降伏の際に差し出した将兵の数を見ると、少ない。

本当に少ない。
三番組番頭樽井弥五左衛門 隊下67名
四番組番頭種橋主馬介隊下58名
丹羽主膳隊下62名
江口伝二隊下23名
丹羽直記隊下43人
丹羽族之介隊下38名
五番組番頭大谷鳴海隊下43名
軍事総裁丹羽丹波隊下50名
合計384名。

元々二本松藩兵は2400名居たんよ。

二千名以上が戦死。

えがったな、DS共。
西軍福島参謀局に差し出した所有器械等:西洋小銃44丁(元込め銃18丁、ミニエー銃400丁、ゲーベル銃23丁)残った銃器を見るとミニエー銃が多く西軍に劣ってはいない。
が、その銃器も7月の当月になって仙台藩から500丁を入手したばかり。

練達度も知れている。

それまでの銃器は若干の西洋銃と火縄銃。

火縄銃て一発に賭ける奴や。

ごんぎつねで出てきた。

 

「二本松の回復を図って結集する将兵
二本松攻防戦で城下を退いた二本松兵は8/12午前2時、二本松奪還作戦を決行。が、この動きを西軍に察知され待ち伏せ攻撃を喰らい四散。

第五軍の伝習大隊は本宮に向かう途中、山ノ入村で西軍と遭遇。

激戦したが夕刻に双方軍を引いた。

この西軍が母成峠越えで会津侵攻を謀っていたとは気づかなかったらしい。

西軍参謀土佐の板垣退助は東北の早い秋を知って作戦変更を考えていた。

戊辰のこの年は4月に閏月があり8月は今の10月。

そら寒いわ。

特に標高980mの母成峠は言わずもがな。

8/21午前9時、母成峠の戦闘は谷間から湧き出す濃霧の中スタート。霧は山麓から攻める西軍を包み隠し、更に備えた砲門20から砲撃。霧の中からどんどん飛んでくる弾に東軍は陣地を放棄し壊乱。←尚、霧はDS悪魔がアシスト。

奴らこの戊辰戦争で嵐やら豪雨やらめっちゃアシストしてるで。

ついでに、名将智将も戦にかこつけて殺ってる。

だって最終目的は日本を骨抜きにし侵略する事。

戦争の度に戦争にかこつけて強い指導者を殺ってる。

一気にやるとバレるから少しずつな。

話は母成峠の戦いに戻る。

二本松兵が守る勝岩(猿岩)を攻撃したのは土佐の谷干城率いる1000名の土佐兵及び長州兵。

谷は3個小隊を勝岩の背後に迂回させ背後から襲わせた。

山頂と山下から挟撃され勝岩を放棄して母成峠から猪苗代へ退いた。

母成峠を陥した西軍は8/22には猪苗代を貫き十六橋に到達。

8/23に滝沢峠を抜き一気に城下を急襲。

飯盛山の白虎隊の自尽や多くの婦女子が自尽した会津戦争最大の悲劇を生み会津藩の敗戦に繋がった。

えがったな、DS共!

少年や婦女子も一杯死んで。

お前らの大好きな生贄や。

母成峠の戦闘で二本松兵は7名が戦死。

会津唐津藩兵、新撰組など40余命が戦死。

唐津藩兵は小笠原長行配下か。
この二本松奪還作戦には福島城滞在中の元老中の小笠原長行も絡んでいる。
9/4, 米沢にいた藩主丹羽長国は西軍総督に降伏嘆願書を差し出した。

次は二本松藩丹羽長国を保護してくれた米沢藩との関係について。

 

栗原伸一郎著「二本松藩米沢藩

「奥羽列藩同盟結成前夜」
慶應4年閏4月1日、仙台藩米沢藩会津藩代表による会議が仙台藩領関宿で行われた。
二本松藩は近隣諸藩と政治的・軍事的に協力。

特に米沢藩との関係を深めていった。

「奥羽諸藩間の使者往来」
二本松藩丹羽家は大広間席で10万700石の有力藩。

1/15にはクーデター政府から東征軍応援を命ぜられていた。

二本松藩米沢藩に指針を問い軍事的な協力も依頼。

3/23奥羽鎮撫軍が仙台に到着。

25日に二本松藩会津藩征討の応援を命令。←大義名分何?

何で諸藩は大義名分を問い質しもせず恭順したり降伏してるんだ?

少なくとも、ずっと京都に滞在して何が起きていたかを見聞きしていた諸藩の駐在員は錦旗も慶喜討伐令も会津征討令も可怪しい事を知ってただろ?

何度も言うけれど、孝明天皇が最も信頼を寄せていたのは京都守護職会津藩主の松平容保公。

その証拠の孝明天皇からの宸翰も複数ある。

孝明天皇の薫陶を受けてきた睦仁親王践祚して明治天皇も容保公を信頼していた。

睦仁親王は容保公参内の折に同席しているから。

鳥羽・伏見の戦いが起きた時、幕府軍は御所に向かっていたんよ。

江戸三田薩摩藩を根城に浪人達が江戸で犯罪しまくっていたから、御所に薩摩藩を討伐させてくれとお願いしに。

その途中の鳥羽と伏見でそうはさせるかと薩長軍がバリケードを築いて通せんぼ。

通せ!、通さない!の遣り取りを数時間したのち薩摩軍が突如発砲したんよ。

先に発砲したの薩摩軍。

なのに、何がどうなって慶喜追討令になるんだか。

薩長軍は玉(明治天皇)を取り込んでいたから、勅令を出させた。

14歳の幼帝を言いくるめるのは容易いわな。

で、156年経過したけれど、慶喜追討令の根拠と大義名分を知りたい。

何も悪い事してないから。

当時はネットとか無いから、錦旗も勅令も出したもんがち。

それが、町の寄合での決定事項位ならフェイクニュースもありえるかもだけど、日本の政権を変えるフェイクニュースを発令したのが王政復古クーデターをやった連中よ。

日本にそういう罪状あるのか知らんけどアメリカだと「Treason(国家反逆罪)」よ。

そういう事平気な顔してやっちゃう連中だったて事。

嘘も100回言えばホントになる、みたいな。

多くの諸侯は騙された。

が、京都で実際に見聞きした諸侯は薩長の謀略を許さん!て戦ったわけ。

めっちゃ少数だったけれど。

フェイクニュースを見極める力を付けんと。

で、話は二本松藩に戻る。

仙台・米沢両藩は奥羽鎮撫軍が奥羽に下向するという段階に至って二本松藩会津藩救解運動に加わるよう打診。

これを契機とし仙台藩米沢藩を中心とし列藩同盟が結成された。

二本松藩主従の米沢避難」

西軍の二本松城下侵攻が予想された二本松藩は7/26に米沢藩に使者を派遣し援軍を依頼。

7/28, 病臥中の藩主丹羽長国二本松城を脱出。

水原村へ。

夫人及び前藩主夫人麗性院ら藩主一族は前日に脱出。

長国一行は8/3米沢城下に到着。

先に避難していた福島藩板倉勝尚や棚倉藩主一行も米沢藩に。

米沢藩に避難した二本松家中は3千人。

米沢藩は流石に3千人全員は無理で千人の保護を約束。
他は千人ずつ会津藩仙台藩へ移動した。

最後の二本松藩主は上杉家から迎えられた。

上杉斉憲の第9男の頼丸を迎え長国の長女峯子の婿養子とし長裕と称した。

 

今日はここまで。

明日は郡山宿について。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫にはラーメンを調理。

自分は納豆と玄米ご飯、中華スープメインでお腹を満たした。

 

午後も読書&調べ物。

15時から夕食作り。

紅鮭、ししゃも、ササミカツ、焼き春巻き、フライドポテト、枝豆、サラダ。

ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。

お皿を洗ったら営業終了。

読書をしてから寝ることに。

 

歩数計は9865。

充実した一日だった。