arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1026日目と畑

2024/7/4アメリカ独立記念日 木曜日

4時に起床し朝食作り。

5時半に畑へ。

 

まずは収穫。

大根と小カブ、ズッキーニ、ビーツの葉等を収穫。

持参したバターナッツの苗を定植していると、まーた、緑色の液体が里芋に掛けられているのを発見。

ピンポイントでやるから、すぐバレる。

ネギに関しては一列にぶっ掛けていた。

枝豆はぶっ掛けられた所は発芽せず。

他の人の菜園ブログを読んでいても、同じ緑色の液体を掛けられている画像を見かける。

やはり、発芽しなかったり苗の成長不良を訴えていたりする。

自分は栄養補給に木酢液や竹酢液を掛けていたが今はにがり水。

DS悪魔との仁義無き戦いは続くのであった。

そうそう、奴らは、わいのベランダのバックアップ用の苗の発芽数もコントロール

それで、畑の株をどれだけぶっ殺しても良いかもコントロール

ちなみに、わいのウンコの回数も量も動きもコントロール

家族同時多発ウンコテロ事件を勃発させる為にウンコを溜めとくんよ、連中は。

で、トイレの前に行列出来てんの見て大喜び。

あと、漏らさせるのも自由自在。

気持ち悪いやろ?

ウンコ大好き♥なコントロール好きな集団なんよ。

水遣りを終えたら帰路に。

 

6時半に帰宅後シャワー&洗濯。

最新情報をチェック後9時過ぎに買い物へ。

 

帰宅後、読書。

星亮一編「二本松少年隊の全て」

 

第一章は童門冬二著「戊辰戦争二本松少年隊

 

二本松藩戒石銘碑(国史跡)き刻まれた有名な教訓。
「爾俸爾禄
    民膏民脂
 下民易虐
 上天難欺」

「おまえ(藩士)の給与は住民の汗と脂の賜だ。住民を虐めるのは容易いが天を欺く事は難しいぞ」「自分が誰に養われているかを常に考えろ。民を虐めるような行政を行ってはならない。なぜなら民こそ藩政の主人だからだ。もしも民を虐げるようなことをすれば必ず天が見ていて罰を与える」

 

わーったか?

そこの民を虐げている奴ら!

天は見てるで。

二本松藩5代目の藩主丹羽高寛が儒学者岩井田昨非を招いて厳しい藩政改革を展開したときに藩役所前にあった自然石に刻ませたもの。

岩井田昨非は一晩のうちにこの文章を刻んだという。

寛政2年(1749年)3月のことである。

丹羽氏が二本松城に入ったのは寛永20年(1643年)で初代は丹羽光重。

石高は10万石。幕末まで二本松藩主として治政を行い廃藩置県に至る。

丹羽氏の祖は織田信長重臣として有名な丹羽長秀

秀吉が長浜城主になったとき木下藤吉郎から羽柴秀吉となった。

この羽は丹羽長秀から貰った。

柴は柴田勝家から。

それ程秀吉は丹羽長秀を先輩として敬愛していた。

丹羽長秀は秀吉から越前100万石を与えられた。

が、子の長重は部下の軍律違反で12万石に激封に。

1600年の関ヶ原では去就が明らかでないと改易された。

が、秀忠の温情により1603年常陸古渡で一万石を与えられ家名を復興。

1622年には陸奥棚倉で5万石。

1627年に白河で10万石。

子の光重が寛永20年(1643)に二本松に移った。

光重「水は方円の器に通う」「水は住民の気持であり方円の器は住民が住む環境のことである。従って環境整備をきちんとしなければ住民の気持も良くならず、同時にお互いの事を考えるヒューマニズムも生まれない」

良い水の確保について代々の藩主が努力。2代目長次、三代目長之、四代目秀延に引き継がれ阿武隈川の治水工事に尽力。

藩内の諸所に溜池が作られた。これにより灌漑用水や飲水が確保され新田開発も大いに行われた。

開発後得られた石高は三万石にも及んだ。

丹羽氏による仁政が素晴らしい。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も二本松少年隊本。

童門冬二著「戊辰戦争二本松少年隊」の続き。

 

元々二本松藩足利時代に足利氏一族の畠山満泰が奥州探題に任命され1404年に白旗が峯の山頂に霧ヶ城を築いたのが始まり。

奥州探題は足利、伊達、蒲生、上杉、蒲生、加藤氏と務めたが丹羽氏の代に「高い山の上から見下ろしても住民の本当の苦労はわからない」と麓に城を築いた。

護民官精神」
城の役人は地域住民を害から守る責任がある
二本松神社祭神
上座 民の守り神
下座 藩主の守り神

9代藩主長富が1817年、藩校敬学館を創立。

将軍家斉治政下で将軍が緩み人心もゆるんだ。

長富は気を引き締める為藩校を作り学問は朱子学主体とした。

朱子学の柱は「大義名分を明らかにする」「治者は王道政治を行わなければならない」

容保公は孝明天皇から2度も「京都守護職の勤務ぶりが見事なので京都はよく治まっている。感謝する」との感状を貰っている。←周知の事実。

京都市民にも高く評価された。←周知の事実。

それが、孝明天皇死後、突如朝敵とされた。

藩主島津久光孝明天皇から高く評価されていた薩摩藩も当初は会津藩と協力し帝のお膝元を蛤御門の変等、長州藩からの攻撃から守っていた。
が、慶應2年1月、薩摩藩は密かに長州藩と軍事同盟。

長州藩と共に倒幕路線に変更。←この間何があったんだろうね。

果たして久光公は承知だったのか。

薩摩藩の謀略」
これも復習な。

1867年12月末、薩摩藩はその名も「御用党事件」を引き起こした。←周知の事実。
御用党と称する盗賊団が江戸の富商の家を襲っては多大な資金を強奪。

その盗賊団は三田薩摩藩邸に堂々と帰った。

それを見た庄内藩は三田薩摩藩邸を砲撃。この報せが大坂城の幕軍に届くと幕軍は激昂。

幕軍は討薩の表を手に京都御所を目指した。

が、途中で通せんぼの薩長軍に攻撃され撤収。
薩摩藩の江戸騒擾作戦緒戦大成功。←周知の事実。

京都に居た連中は政治の流れを具に見聞きしていた。
大政奉還があったにも拘らすそれを強引に王政復古に切り換えたのは薩摩藩の謀略。

王政復古のクーデターな。

東北諸藩の京都駐在員達は帰藩し見聞きした事を報告。

会津藩を朝敵としている以上東北に攻めてくるだろう、と奥羽列藩同盟を結成。
薩長軍は藩主容保公の首を要求。
孝明天皇から2度も感状を頂く程、帝に尽くした容保公が何故切腹しないといけないのか?

薩長軍は、幼い14歳の明治天皇を意のままに動かし勅令を書かせている。←藤原氏のやり方を踏襲。

薩長軍が最初に攻めるのは白河城であろうと、二本松藩の主力は白河へ。
留守の二本松城を守るのは高齢者と少年に。
13歳以上の少年が動員された。←中学生以上な。
纏まって壮烈な討死を遂げたのは城下の要所である大檀口に配置された隊。

隊長 藩の西洋式砲術師範木村銃太郎(22歳)
副隊長 二階堂衛守(33歳)
総員25名
1868年7月27日に出陣
29日朝から始まった戦闘で良く戦った。
しかし、元々使う武器の新旧が勝敗を決した。←ほーらね。出来レースよ。
木村隊長が戦死。
8名の戦死者を出した。
少年隊(13歳と14歳で構成。中1と中2な)総員62名。
戦死者14名。
負傷者7名。

 

16時半から夕食作り。

ジャーマンポテト、メカジキの味噌漬、ズッキーニと人参の梅酢サラダ、ビーツの葉と蜆の味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

暑いので良く呑んだ。

 

後片付けを済ませたら読書の続きをする事に。

 

歩数計は9897。

充実した一日だった。