2024/7/12金曜日
3時半に覚醒。
サーッと最新情報をチェックしたら起床し朝食作りとベランダでの水遣り。
4時半に畑へ。
持参した苗を植え付けていると、まーた、緑色の液体がぶち巻かれているのを発見。

すかさず、木酢液で栄養補給。
他の作物にも同様に栄養補給。
収穫を終え帰り支度をしていると、強烈な指向性浣腸エネルギー攻撃が始まった。
実は、畑到着直後にも食らっていた。
が、その事実をメモしていたら攻撃は一度収まった。

わいのスマホ画面リアルタイムで読んでるからね。
で、帰る頃に再び指向性浣腸エネルギー攻撃開始。
ホント、CIAのスカトロショー好きには手を焼いている。
ええ加減止めて欲しいからツイート。

それにしてもさ、人がウンコを我慢して耐えてる姿を見て喜ぶ、というその感性が全く理解できないのだが。
強制排泄みたいな?
強制排泄させて勝利するんか?
全く理解できん。
だから、DSなのか。
帰宅後、シャワー。
雨予報なので洗濯はお休み。
8時から読書&調べ物。
今日は七海晧奘著「二本松藩と郡山」
郡山は夫の親戚が多数在住。
緊張感を持って読んだ。
「郡山宿が燃えている」
1868年8/7, 如宝寺辺りから煙が上がったかと思うと見る間に中町、大町へと燃え広がり阿弥陀町、東町、北町、稲荷町と次々と災禍に巻き込まれて行った。
当時の郡山の検断(経済管理・裁判権を有した名主)今泉久三郎は廃墟に立ち「繁栄ナル郡山市街、一朝ニシテ野原丿如ク相変ジ、夜ハ残リシ土蔵ニ焼火ノ見ユルノミ、寂シキ事イウベカラス。タダ天ヲ仰ギ嘆息スルノミ、、、、」と記した。
この災禍で町の八割710戸が焼失。
死傷者・離散者は600名に達した。
この出来事が語り継がれる事は無かった。ここでは、その語られなかった記録を紹介する。
郡山が二本松藩領となったのは1643年、保科正之の時代で二本松藩に丹羽光重が移封となった頃である。
この間郡山は宿場町として藩領最大の穀倉地として発展。
第10代藩主丹羽長国が治める1868年に運命の時は訪れる。
この時、検断今泉久三郎は23歳。
藩士や侍とは一線を画した、一商人の身分ではあったが実質的に当宿の最高責任者であり藩としても彼なくしては何事も行うことはできなかった。

図らずもこの戦争時に遭遇した彼は大変な苦労を強いられる。
だが、その一部始終を彼は日記に残していた。
この「今泉久三郎日記」は侍や権力者とは別の視点で捉えた戦争の実体を示していた。
以下は戊辰年に限る要約文を通解したものである。
1/3 鳥羽伏見で始まった戦いは軍事力の勝る薩長に徳川方は京より敗走。
将軍・徳川慶喜は恭順を示すが認められず江戸に蟄居。
江戸は騒然となる。
15日 二本松はもとより、東北の諸藩士が、群れをなして郡山を通過。
江戸表に向かう人が日増しに多くなる。
新政府、仙台藩に会津追討の勅令を出す。
2/26 将軍の片腕とされた松平容保公が会津へ帰郷。江戸詰めの藩士家族等も帰国の途に着く。
他の奥羽諸藩の藩主並びに家臣達も江戸を去り自領に引き取り始める。
その行列夥しく郡山宿は大渋滞となる。
27日 二本松藩主・丹羽長国公帰国の途中、郡山宿御泊まりとなる。
これに先だち宿での街道に面した一、二階の窓の障子が全て張り替えられ、本陣には前日より家老・重臣たちが待機し出迎えの準備に追われる。
29日 仙台藩に新政府から会津征令使到着。
3/18 郡山陣屋、代官・浅見競殿郡奉行栄転につき町役員こぞって餞別する。
後任の郡山代官は鹿野兵左衛門殿ご次男・寅之助殿15歳。
20日 江戸無血明け渡しとのこと。
福島藩には、そこを本陣にするので準備しておくように、とつ通達が。
4/3, 二本松藩と郡山宿に軍資金7000両の調達を依頼。←いきなり金寄越せ、だよ。
兵員の無料滞陣から人馬の提供などが矢継ぎ早に打ち出された。←最早、疫病神の何者でも無い。
4/19, 西軍と仙台藩の混成部隊、郡山宿に入る。
仙台兵の殆どは火縄式。←ほらな?
西軍の洋式銃とは雲泥の差。←ほらな?
「体制一転」
閏4/17, 西軍参謀世良修蔵が福島宿で殺害されたことにより事態が一変。
この日を期して奥州諸藩は「奥羽列藩同盟」を結成、反官軍・親会津徳川方へと体制は逆転。
しかし、庶民には理解困難な政変としか映らない。
「サテサテ、昨日マデ敵トシタ会津兵ヲ本日ヨリ味方トシ逆ニ官軍ハ敵対スルトイウ。何ト軽々シク浮雲ノ如キ世ノ中デハナイカ」と久三郎も心情を吐露。
25日 白河城で官軍と会津兵間で戦闘あり、死傷者260人とのこと。
5/2 白河城陥落。敗残兵、郡山宿に至る。
6/14 久三郎は上町当主を拝命。
一方、民兵500名の組織化を命ぜられる。が、もとより商人の町。
久三郎は苦悩した。
6/24 棚倉陥落。
7月 いわき平が落城。三春藩の裏切りもあって状況は最悪。
7/27 二本松からの早馬あり。
郡山宿の三代官は登城するように。
牢屋に居た150名の罪人は特例釈放。
この処置は郡山宿にとって最悪。
28日 午前10時、二本松城落城。
郡山は無政府状態に。
待っていたかのように郡山で暴動が勃発。町の打ち壊しがスタート。
久三郎は今日まで敵とした官軍本陣へ出向き町の保全の為滞陣と取締を依頼。
「運命の日」
8/7 阿武隈川東に隣接する守山藩(二万石)も去る6/25に降伏し西軍側となっており旧幕派の残党が中町、大町などに火を放って逃走。
宿場町は火の海と化した。
が、安積艮斎の生家の安積国造神社は免れた。←これで真犯人わかるやん。
守山藩が郡山宿警備に付いたが焼け残った郷倉から籾を背負い持ち出す兵員が居たので久三郎はこれは被災民に配布する籾なので置いていってくれと新役人に申し入れるも持ち去ってしまった。←泥棒。
守山藩在宅の高野藤八郎及び山崎今五郎宅へ出向き、守山兵籾持ち出しの件を上申。
すると藤八郎は逆ギレ。←パワハラとも言う。
8/13 再び高野藤八郎家へ伺うと守山藩主・松平頼升公も同席。
昨日の件については何事も無しとしてもらいたい。
は?窃盗事件なのに?
8/21 西軍三隊に分かれ母成峠を越え大原村に宿営。
8/22 西軍大原村より猪苗代に入る。この頃旧幕府軍と称する素浪人が鶴ヶ城へ続々と集まり炊き出しにたかる。←恐らく陽動作戦要員。
その証拠に城から追い出された後、隣接する領外に出没しては会津兵の名を騙り強奪・放火。
全く手の込んだ事をやる奴らよ。
会津藩にとって迷惑な濡れ衣。
「会津家訓十五条」↓を知ってれば会津藩士がそんな事するわけない、てわかる。



https://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/matoi/kakun15.html
8/30 この時期の本宮宿も郡山宿と同じ被災下。
南町問屋として新政府軍に手配した軍夫は1360人!馬180頭!
この中には郡山宿手配の軍夫も大勢含まれていた。
9/1 「会津包囲網ニツキ三春表カラ兵糧米オヨビ弾薬等ノ運搬人夫又馬牛ヲ差シ出スヨウ通達アリ」
これを受け久三郎は本宮軍の役所へ出張。
「コノ度ノ兵火ニヨル難渋デ、トテモ人馬ヲ差シスコトハ出来マセン。当分ノ間御免蒙リタクオ願イ申シ上ゲマス」との嘆願書を提出。
9/2 官吏が出張って来て「事ハ非常ノ場合デアル」と強く督促。
会津表に10日ごとの交代を条件に人足408人馬46頭牛29頭を差し出し。
三春表へは人足22人馬3頭を都合。
それにしても「ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出る」といった施政者が居たが(今もおるで)郡山焼失後は依頼人馬継立所も立ち行かない。
郡山被災地なう、よ。
当分の間、隣村の小原田、福原村へ軍夫継立の役を依頼し守山藩からは吏員を仰ぎ事務取扱を願うこと、とした。
8/23以降、西軍は各諸道より会津へ侵攻。号砲は昼夜、雷鳴の如く響き渡る激戦となっていた。
各村から動員された人夫の家族等の心配は只事ではなく、その安否を問いにくる者数十人。
特に婦女子はその父兄の一刻も早い帰村を嘆願。
9/8 元号を慶應から明治とする。←このタイミングで睦仁親王(慶應天皇)は消されたか。
9/9 二本松藩、降伏。
9/15 仙台藩降伏。
9/22 会津城降伏。
ここに東北に於ける戊辰の年は幕をとした。
「それまでの郡山」
安積香山 影さえ見ゆる 山の井の 浅きこころを わが思わなくに
(万葉集巻十六)
この木簡が滋賀県甲賀市で出土。
歌に詠まれた安積香山こそ額取山(ひたいどりやま)と呼ばれる山である。
この麓には「山の井の清水」そして葛城王(橘諸兄)を祀った祠がある。
その諸兄の子孫で陸奥守を務めた平安の歌人・橘為仲朝臣の歌には、
みちのくの 芳賀のしばはら春くれば 吹く風いとど 香ほる山里
この「香ほる山」から「こおりやま」になったと伝えられる歌である。
温暖な安積平野は福島県のほぼ中央に位置し太古から北日本の交通の要衝だった。
奈良時代には蝦夷地への最前線基地としての郡衙(軍務を扱う役所)が置かれたこともあって「郡山」と記されたとされている。
戊辰戦争によって焼け野原となるまでの郡山は奥州きっての宿場町として栄え奥州諸藩の大名行列にみる参勤交代などその本陣宿や休憩基地として賑わった。
郡山を中心とする安積三郡(郡山・大槻・片平)は城下でも無いのに「安積三万石」と呼ばれたのは商業と穀倉の中心基地だった為。人口4千人。世帯数800だった。
通過する大名は松前、弘前、黒石、八戸、南部、関、秋田、本庄、亀田、鶴岡、新庄、上ノ山 天童、米沢、仙台、福島、二本松、中村藩など25藩に及んだ。
なかでも62万石の仙台藩や20万石の南部藩、18万石の米沢藩一行の大名行列は1000人を超えたとも言われている。

遂に二本松少年隊の戦記に突入。
紺野庫治著「開戦前夜の少年達」
鳥羽・伏見の戦後、各藩使者の往来や軍需取引、はては藩兵の移動・調練と藩内は慌ただしさを増し、白河戦争に及んで二本松城下も戦場と同様に。
「当月中諸藩の兵隊東西に奔走し、早追う」人馬昼夜を分たず、宿駅是が為に疲弊し在々村々一家に男子三人有るものは三人使はれ五人あるものは五人出す。上の夫卒、往来の徭役一人も隙あるものなし」(6月3日中島黄山日記)
武器の増強や活発になった調練で弾薬が不足。
生産が間に合わず木村道場の門下生が応援に出動。
少年隊員の上田孫三郎氏は「特別の訓練は5月頃より行われ火薬調製は毎日弁当持参で行った」と回想。
白河城攻防戦に出動した藩の主力は日を追って後退。
戦雲が身近に迫ってくるのをひしひしと感じた。
6/29, 河原田で儒者渡辺梅窓新助が戦死したとの報を聞いた少年達はいよいよ身近に戦争が迫ったことを痛感。

白河派兵の未帰還と迫って来た西軍の情勢を知った少年達は出陣を嘆願。
銃太郎の門下生達は銃太郎を通して藩に嘆願。
二本松藩では満二十歳に達すると藩に出仕するのが普通。
但し特別の事情、或は父が特に功績があって死亡し子が幼かった場合は未成年でも当主に。
例えば少年隊員の250石高根源十郎(13歳)・300石丹羽寅次郎(14歳)はその該当者。
しかし、18歳になった時点で二十歳に達した旨を藩に届け出れば藩では成人と見て取り扱うのが藩の慣例。この事を「入れ年」と言った。
従って17歳以下は戦争に参加出来ない事となるが、父に従って行く場合とか鼓手は例外だった。
両三の嘆願には藩は兵力の不足を補うべく16・17歳の少年の出陣を許可。
各隊に配属した。
大谷与兵衛に配属された小川又市(17歳)山岡房次郎(14歳)但鼓手、松田馬吉(16歳)、
樽井弥五左衛門の岩本清次郎(17歳)中村久次郞(17歳)田中三治(16歳)武藤定助(15歳)但鼓手、
大谷鳴海隊では小山貞治(16歳)松井官治(17歳)但し祖父!に従って。
祖父て。
久保鉄次郎(15歳)らが名簿に見られる。
但し、大谷与兵衛隊の場合は遠くにいたので少年達の戦線への参加については疑問が残る。
鼓手を命ぜられた武藤定助は江戸帰りの小沢みは)幾弥について鼓法を学んだ。
幾弥は江戸で鼓法の免許を得て開戦間近に帰藩。
「6/27, 武藤定助 三番組 鼓手方被命 二人扶持」という辞令が出た。
大谷鳴海隊の名簿には大砲方として久保鉄次郎(15歳)、小山貞治(16歳)の両名が記名されている。
15歳までの出陣許可が出たのは7/26。
27日に15歳の鉄次郎は重傷を負っている。
15歳の出陣許可は入れ年の慣行から13歳までの出陣を黙認。
木滝幸三郎の追想談によると「余は戊辰の当時15歳にて従軍を許されず兄万次郎(20歳)の従軍せるを見て羨ましく藩庁に対して数回嘆願せしに7/27に漸く許可される」
水野進(14歳)の「二本松戊辰少年隊記」には「訓練五ヶ月にして大いに上達す。七月初旬に至り味方の敗報頻りに至る。或は本宮・三春付近までに敵軍の押寄せ来れるを伝ふるものなり。7/26の朝、俄然余等に出陣の命下る。余等の満足例うるに物無し。両親の門出を祝ふ盃などにて早陣頭に立ちたらん心地して夜の眼も合はず、、、、」
と書いてある。
「二本松戊辰少年隊記」は著者の水野進が西崎銀蔵(14歳)と話し合ったことを戦友の五十回忌(大正6年7月)に当たって書き綴ったものを謄写して配布したそうだ。
岡山篤次郎(13歳)は出陣に際し母に自分の戦場への持参品全てに記名を願ったので母のなおがそのわけを聞くと篤次郎は「字が下手だと敵に見られた時に恥ずかしい。それに屍が腐った時にお母さんが僕を探す時に直ぐ判るでしょう」と答えた。←13歳でそこまで思い至るとは、、、。
母は篤次郎の晴着の衣装の襟や鉢巻にも「二本松藩士岡山篤次郎13歳」と書いてやった。
成田才次郎(14歳)の父外記右衛門は出陣する才次郎に「敵を見たら刺せ。切ってはならぬ。突くのだぞ」と訓えた。
徳田鉄吉(13歳)の父は茂承という。茂承は文久3年に富津在を命ぜられたが病気の為従役出来ない身の不甲斐なさを無念として割腹して果てた。幼かった鉄吉はこの事を知らずに育った。
いよいよ出陣と決まった夜、母の秀(老人組遠藤段七の娘)は仏壇の前に鉄吉を呼んで「当主佐七郎は出陣していますから、女子ではありますが出陣についての心得を話しましょう」と最後の訓えを語った。
遠い祖先が天正の戦争の時に(伊達政宗と二本松城主畠山義継との合戦)君の場前に戦死したことや夫茂承の最後の事を語り、続けて「お前様は兄上と二人でお父様の分も忠勤を励んで貰わなければなりません。他に遅れを取らぬばかりか他に倍して働くよう」と愉し、夫の遺言状を見せた。
上崎鉄蔵(16歳)の家は四人扶持と小身の為裕福でなかった。
父の織衛が出陣したあとには戦陣で斬り合いに用いられるような大刀は無かった。
せめて武士の魂の大刀だけは恥ずかしくないものを持って出陣したいと考えていた鉄蔵は浮かない顔をしていたので母に詰問され本心を語った。
母は外出し暫くして風呂敷包みの大刀を持って帰ってきた。
母のすまは実家斎藤弥治兵衛家に行き事情を語って一振り(相州ものという)の大刀を貰って来た。
出陣の朝祖母と母が玄関で「いってらっしゃい」と言うと鉄蔵は「いってらっしゃいではないでしょう。僕は行くだけです。帰ってきません。今日は行け、とだけでいいのです」16歳、、、、。
遊佐辰弥(13歳)も、兄昇之進は与力として出陣。
家庭も裕福ではないので叔父の家老丹羽一学から大刀を借りて出陣した。
久保豊三郎(12歳)は友人の高橋辰治(13歳)が出陣すると聞き母に自分も出陣したいとせがんだ。
そこで母は下僕を付けて大檀口に行かせた。
見たら直ぐ帰ってくるよう言ったが下僕だけが帰って来た。
豊三郎は負傷後11月に入院先の病院で亡くなる。
隊長木村銃太郎の軍装は緋色の袴、白く龍雲を描いた陣羽織、(二本松)明珍の具足。
これは目立つな。
標的にされるやろ。
二本松兵の共通は肩章のみ。
7/26, 27に少年達に出陣の通知。
木村銃太郎門下生のみ丹羽右近の一団の大砲方として大檀口の防戦に当たることに。27日午後五時、北条谷の道場に集合。
28日は午前七時に道場に集合。
学館前に引率されている。
藩校敬学館前に集合しライフル大砲壱挺、小銃元込と二口バンド軍用金壱両三分を渡され総勢25名、木村銃太郎隊長に従い大壇口向かって右に着陣。
学館前で少年達は副隊長二階堂衛守(33歳)を紹介された。出陣の際は大砲が重いので大八車に載せて運んだ、
松坂門を出ると下りの坂道。急な坂道で大八車を制御できず桑畑の中へ突っ込んだ。大砲に損傷は無かった。
大檀口守備隊は八番組組頭丹羽右近を隊長とする三個小隊で西軍の屯集する本宮に対する要職である。
銃太郎の率いる少年達23名はその配下に。
大檀口の右手は多くは畑地。
杉の木の中間に大砲を据え置いた。
身を隠蔽する所無きゆえ枠木を打ち込み横に丸太を渡し之に畳を2枚ずつ並列し縄を以て括り附く。
相原秀郎著「少年隊・木村銃太郎戦死」
慶應4年(1868年)7月29日未明、二本松城下への入口である大檀は白い霧に覆われていた。
この戊辰の年は閏四月があるので現在の暦では9/15に相当する。
藩主丹羽家の菩提寺である大隣寺の二十六世高松先魁學師が三年間の托鉢で得た浄財を基本として有志と謀り昭和6年10月に着工。
竣工式は二本松落城の日に当る9/15に本山から導師を招いて開眼式を行っている。「二本松少年隊」の呼称も大正6年7月29日に営まれた戊辰戦争戦死者の五十回忌の法要の際に配られた「二本松戊辰少年隊記」が最初である。
著者は水野好之、戊辰戦争当時14歳で大檀口へ出陣し生き残った水野進である。
昭和元年12/29に発行された「二本松藩史」では第二篇「戊辰史」に「少年隊勇戦附老人組の奮戦」の章があり17歳以下で各戦場に配備され戦った51名の少年の記録が記載されている。

慶應4年5/6に奥羽列藩同盟が締結され白河城を巡る東軍と西軍の戦いが始まった。
この白河戦争は7/15・16日の浅川戦まで約2ヶ月半の間に10回の戦いが行われている。
この白河戦争に二本松藩は藩の正規軍を次々と繰り出し参戦。
が、東軍に利あらず、領内最南端の笹川宿等に駐屯していた。
このように正規軍を白河戦争に繰り出していた二本松藩は7/3, 領内警備の手薄を補う為農兵を組織。
二本松藩は領内支配に際し十ヶ村位で組を作りそれぞれに代官を配置。農兵もこの制度に拠っている。
安積郡の場合、片平組100人、郡山組100人、大槻組100人、唯一の町宿の郡山町宿200人の計500人、他に猟師20人。猟師には鉄砲預証文により現在にいうところの有害鳥獣駆除の為弾目三匁五分の火縄銃が貸与されていた。
これらの農兵達は六尺棒や鎌を持ち武器らしいものは猟師の火縄銃くらいである。それでも寺の境内で訓練を行い火縄銃の銃声が聞こえていたという。
白河での戦いが始まり5月に入ると砲術の各道場で白河の前線へ送る弾丸作りが大忙しに。
硝石、硫黄、木炭を薬研で極微細な粉末に仕上げそれを竹筒に入れて金棒で突き固め七、八寸の蝋燭状のものを作った。
そして、火薬は火薬製造所で作られ御鍛冶屋で作られた鉛の玉を用いて小銃弾を門弟達が作った。
親指大で五寸位の棒があり棒の端が凹んでいた。これに紙を巻き棒を外した後、火薬と玉を詰めて完成。これが「ハトロン」と呼ぶ小銃弾。1日1人300発作った。
火薬製作所では6月頃に火薬の破裂事故が発生。←DS悪魔による仕業。
職人2人と役員が犠牲に。
出陣前の少年達は各々の道場でこの作業を行った。
今日はここまで。
戊辰戦争はとうほぐに住む庶民が人夫として、農兵として、宿所として、寝る所や食糧も提供させられ、挙げ句に家や田畑を焼かれ散々な目に遭った。
クーデター西軍の思惑で。
そのクーデター西軍が作ったのが明治新政府よ。
DSの傀儡政府な。
わかりやすく言うとDS悪魔に魂売った奴らによる政府。
今もその流れを汲んでいる。
12時に昨夜以来の食事。
夫には温かい冷や麦を調理。
喜んで食べていた。
自分は納豆と玄米ご飯と昨日の残りの煮物と鮭。
お腹が満たされたら午後も読書&調べ物。
17時から夕食作り。

冷奴、なめこの味噌汁、人参と竹輪のサラダ、昨日の残りの鮭、ししゃも、ササミカツ、ウォッカ梅酒ロック。
ウォッカ梅酒ロックは美味し過ぎてお替りもした。
今日みたいに湿度が高い日は格別に美味しく感じる。
お皿を洗ったら営業終了。
読書&調べ物をしてから寝ることに。
歩数計は7668。
充実した一日だった。