arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1004日目と畑

2024/6/12水曜日

4時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。

 

6時半に畑へ。

水やりをしていると人参の根元に緑色の液体が撒かれているのに気付いた。

レタスにも。

すかさず、木酢液をかけた。

8時半に帰宅。

 

次はベランダで作業。

大きなプランターに苗の移植をしたり、ポット苗を作ったり。

夢中になってやっていると夫がじゃが芋を掘りに行く!と畑へ出掛けた。

12時に大量のじゃがいもと共に帰宅。

すぐさま新聞紙を敷いたトレイに並べて干した。

 

12時半に、昨夜以来の食事。

お腹が満たされたら読書。

 

昨日に引き続き青蓮院宮本。

 

岩倉の策略で岩倉派は関白二条と青蓮院宮を弾劾する事に。

それを受けて、9/4, 二条関白は辞表を提出。青蓮院宮も同調。帝の信任を問う事に。
天子は清閑寺豊房を勅使として辞職を勅許されざる旨を伝宣。更に両者に参内を促した。

天子は「明日当さに慶喜に参内を命ずべし。何人が之を拒止せんと欲すること有るも、朕決して聴かず」と勅語
16日には慶喜を小御所に招命。天子はその行列、次第までも下知。その待遇は将軍職にある者と同様にした。

10/27,勅命により山階宮、三条実愛ら23名が解任、蟄居、閉門謹慎、差扣(さしひかえ)に。それぞれの邸には会津、桑名以下諸藩の士卒が監衛として見張りに。

 

↑上の23名の中には岩倉の子息具綱、具定も含まれる。岩倉派が処分の対象に。
そして、薩摩藩は帝の信頼を失ったか。

これにより岩倉は最後の手段、孝明天皇を退位に追い込む事に決めた。

 

12/12, 天子は突如として発熱。以後の天子の病状の推移は伊良子織部正の「御所御疱之節並ニ御凶事勤仕日記 慶應二寅年より卯年中」の記述に従って書く。

 

翌日、翌々日と発熱は続き、全身倦怠と病状には変化が無く、山本典薬大允も病因が判別出来ぬままに過ぎた。15日には織部正が昼夜共に拝診したが相変わらずの高熱に天子は食欲を失った。
16日、初めて発疹が見られ西尾土佐守らが疱瘡であろうと診断出来た。病状を分析した典医達が疱瘡と治定したのは17日。天皇の側近で罹った者はおらず。文政二年に仁孝天皇にこの事があってから47年ぶりの変事。

24日には快方に向かっていた。

が、25日未明に突然崩御

宮家に伝わる話として以下の真相があるそうだ。

病間に侍従する「御差」と呼ばれる命婦が付き添っていた。崩御当夜の御差は生島成房の娘「駿河

駿河がウトウトしている間に天子が居なくなり皆で手分けして捜索。すると、蹲の下に倒れて死んでいた。下腹から胸部までを一気に刺し貫かれていた。

前天子大喪による恩赦の勅旨が15日に発せられた。
大赦にあう者の尽くが先帝の勅勘に触れた者ばかりという奇妙さが罷り通った。9日に践祚したばかりの16歳の幼天子の意向とは思われない。

 

倒幕を阻止する邪魔者達は居なくなった。
大久保は9/19に毛利敬親父子と面会。薩長挙兵を盟約。討幕の手筈を整えた。
大久保は前月の8/14には芸州藩の家老辻将曹をも抱き込んでいる。
岩倉は薩長軍を官軍に仕立て上げる為に①正親町三条実愛、中御門経之等を使い「討幕の丿勅」を清書させ、事態もわからぬ幼天子の玉璽を得て密勅を作り上げた。10/13にこれを薩摩藩に降下。←これに対し慶喜大政奉還を発布。問題は回避された。
慶喜は更に将軍職辞退を奏上。武力を持たない朝廷はこれを却下した。

岩倉と大久保は密謀し続け、幼天子を良いことに毛利父子の官位を復す勅や入洛参朝を許す勅等を乱発。←天子の名でやりたい放題。

更に、大久保と共に中山忠能口説き落とし、①関白、議奏武家伝奏国事御用掛の参内を禁制に。②「王政復古」の辰断を仰いだ。幼天子には何の事やらわからぬ事態であったろう。わからぬまま岩倉らの上奏に頷いた。岩倉にすればこれで十分。←これで王政復古のクーデターが始まる。天子(を騙くらかした)勅として③会津藩京都守護職桑名藩京都所司代並びに禁門守衛を罷免。替わりは尾張、越前、薩摩、土佐、芸州の五藩。④藤原氏が作った摂関職等を廃止。総裁、議定、参与の三職を設けた。

今日はここまで。

てか、もう岩倉と大久保のやりたい放題ショー。

読むのも嫌になってきた。

が、残り15ページ。

読み遂げる事に。

 

17時から夕食作り。

蜆と新じゃがとキャベツの煮物、メンチカツ、ササミカツ、千切りキャベツサラダ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

お皿は長女が洗ってくれた。

ありがたく読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は8424。

充実した一日だった。