arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1014日目と畑

2024/6/22土曜日

5時に起床し洗濯と朝食作り。

倦怠感は残っているが熱は無い。

畑に行く事に。

6時40分に家を出ようと玄関まで行くと強烈な腹痛に襲われトイレへ駆け込み。

同時に全身から汗が吹き出て血圧低下を感じた。

意識を失うかと思われたが、トイレで倒れるとか、用足してる最中とか、絶対ヤじゃね?

神様に祈りながら何とか持ち堪えた。

朦朧としながら自室に辿り着き暫し横臥。

15分後に気分が良くなり起き上がると全身汗でずぶ濡れ。

ジーンズまで。

まるでプールに入ったかのよう。

マイクロウェーブ攻撃を受けた感満載。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E5%90%91%E6%80%A7%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E5%85%B5%E5%99%A8

わいは暴徒か。

畑に行こうとしただけやで。

気違いに刃物持たせんなよ、米軍。

総着替えし、7時15分に畑へ。

 

大雨の後に、必ず緑色の液体が撒かれている。

今回も作物の周りや雨で生じた水溜りにも撒かれて水が緑色になっていた。

すかさず、竹酢液を撒いておいた。

 

帰宅後、読書と調べ物。

 

昨日から奥富敬之著「時頼と時宗」に夢中。

父の時頼は早々と亡くなるが、きちんと次への体制を整えていた。

そして、多分DSサイドに仕掛けられた内乱や揉め事にも冷静に対応。

流石、祖父の泰時の薫陶を受けただけある。

そして、子の時宗も天才的に素晴らしい。

18歳でナンバー1の執権に就任しているがナンバー2の連署には14歳で就任。

時宗の代になってもDS側からあの手この手で鎌倉幕府の切り崩しに掛かってくる。

これらを一族の長老、政村と共に乗り切っている。

そうこうしているうちに、元から国書が届いた。

しかも、高麗人の使節で。

この頃、高麗は元の属国だからしゃーないのか。

使い走り扱いやな。

 

文永5年元旦蒙古からの使者が博多に到着。

太宰府御家人武藤資能(71歳)はこれを早飛脚で鎌倉へ送った。途中、京都で院政後嵯峨上皇にも上奏。その日の御賀の儀式が取りやめになる騒ぎに。

この時期外交権は朝廷にあったか。

評定でただ一人二十代の近衛基平の意見:無礼な蒙古の国書に返牒する必要無し。下手に返牒すれば返って侮られる事に成るし日本国の体面も潰す事に成る。よって返牒する必要無し。←至極まともな意見。素晴らしい!

評定は、現在官職を帯している者は「返牒せず」、現在任官していない者達「返牒せよ」に分かれた。

嵯峨院の御所での決議は「返牒せず」となった。

後日、それを亀山天皇に報告。そこへ二人の前関白一条実経二条良実の兄弟、が参内。議決を引っ繰り返そうと来たらしい。

2/17の評定には新たに引退した2名、前中納言葉室定嗣、前太政大臣徳大寺実基が参加。
14日の評定を引っ繰り返そうと参加。前例の無いやり方で一種の政変。基平は激怒し書面を提出せず。一条実経も提出せず。黒幕は提出した弟の二条良実か。

基平は推敲に推敲を重ね「返牒、あるべからず」という所存を力説した書面を書き上げた。快心の文章が出来上がると基平は高檀紙を取り出して清書。「高檀紙」とは檀(まゆみ)の樹皮から製した紙で一般の紙より白く厚手。基平は特別な場合に備え遠い陸奥国から取り寄せていた。←若干23歳なのに気骨あるねぇ~近衛基平

基平は2/29, 上皇に上程。其の日、蒙古の襲来に供え、三万六千柱の神を祀るよう朝廷の命が下った。特に伊勢大神宮に異国降伏の祈祷を命ずる勅使が差遣された。

ここで再び物言い。

3/27, 蒙古への返牒するかしないかが再び議題に。老人派の主張:先の決定は後嵯峨上皇の院の御所での決定。現天皇亀山天皇は預り知らぬ。よって先の決定は無効なり。

老人派は宜しく「杖議」を行うべしと主張。「杖議」とは「陣議」「陣の定め」或いは「殿上の定め」とも言い、内裏(現天皇の御所)での最高の合議機関である。出席が許されるのは太政大臣、右大臣、左大臣内大臣、大納言、中納言及び参議など儀仗(飾りの太刀)佩用が許されている身分の公卿のみ。原則摂政・関白は出席しない。が、出席してはいけないというのではない。

開催された杖議で老人派が期待したのは下位先議制。下位の者から発言するのだから若年の公卿達も忌憚無く意見を述べる事に期待。が、この日の杖議には関白基平が出席し睥睨。皆、「返牒せず」に同意する、と意見。このあと、基平は同年11/16に発病。19日に23歳の若さで死亡した。哀悼。日本侵略に邪魔だから消されたか。

返牒が無かった事に蒙古は激怒。黒的、殷弘のモンゴル人と高麗の3名を使節として再派遣。文永6年(1269年)2/16, 対馬島に着岸。島主の宗資国が抑留。対馬国の守護は武藤資能。が、資能は太宰少弐を兼任していので太宰府に居た。よって宗資国は守護武藤資能の代官。資国は早舟で太宰府に急報。2/22に到着。武藤資能はそれを早飛脚で京の゙六波羅探題へ。3/7に到着。
太宰府から京都まで前回は35日間、今回は16日間。19日間も短縮される。山陽道の宿駅毎に伝馬、継馬の設備が無された。

自分はこれまで元寇に際し朝廷は何も出来なかったと言って来た。

が、ここに近衛基平という一人の気概のある青年公卿を見出した。

が、彼は程なく23歳の若さで病に倒れる。

発病から3日で身罷るとか毒でも盛られたか?

彼の死が今後の評定にどんな影響を与えるのか考えながら読み進めて行きたい。

評定て国会みたいな物だよね。

1268年から756年経ってるけれど検証するのは興味深い。

歴史は繰り返されるから。

 

12時に昼食を用意しようとしたら病み上がりの夫が食欲が余り無いので残り物で良いと言う。

有り難く、午後も読書&調べ物。

自分は時頼の東国巡業について読みたかったが、思わぬ拾い物をした。

有り難く続きを読む事に。

 

16時半から夕食の用意。

豚とキャベツと蜆のみぞれ鍋。

大好評だった。

自分は余り食欲が無いのでパス。

引き続き読書をしていたら、腕がムズムズ。

蕁麻疹が出る電磁波攻撃されてた。

木酢液か蛇苺液のどちらかを塗る事に。

 

歩数計は5212。

充実した一日だった。