arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー989日目と読書三昧

2024/5/28火曜日

6時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。

外は雨。

洗濯物は浴室乾燥することに。

フットサル教室はお休みに。

駅まで子供らを送ろうと思ったら夫が行ってくれた。

ありがたく8時半から読書。

途中、9時に図書館へ行き予約していた本、17冊を借りてきた。

まずは水原紫織著「もう一人の『明治天皇』箕作奎吾」

この本を借りるのは二度目。

前回は3年前だと思うが嘘でしょ?嘘でしょ?と反問しながら読んだ。

今回は周知の事実として読んでいる。

まぁ、ユダヤに関する記述は信じていない。

大和民族は飛騨の大淡上方様の系譜と認識している。

それが一番納得する。

話を明治天皇のすり替えに戻す。

まずは孝明天皇崩御の日の件から。

ウィキによると崩御された日は慶應2年12月25日(1867年1月30日)となっている。
ところが、同日、徳川慶喜の弟、昭武が孝明天皇ご機嫌伺いに参内との記録が存在。
久邇宮朝彦親王日記にも12/25の欄に「徳川昭武が休暇を賜り参内。京都見廻役に就いたばかりの石見守飯田藩主堀親義が参内。」と記載されているそうだ。
翌26日にも慶喜が参内。

更に、12/26の朝彦親王日記では「禁中の昨夜よりの大変な御容体の話には誠に恐れ入りました。嘆いてため息をつく嘆息とはこのことです。淑子内親王も今朝未明に参内したそうで、関白は昨夜より参内。京都守護職会津藩松平容保と徳川将軍が午前11時から午後1時の間に参内の意向です。今、何よりも私に言ってこないのは不審なばかりで実に忠義のない人々だと思うのです」とあるそうだ。

また、驚く事に、「維新史料綱要・巻6」に15編の資料と共に慶應2年12月25日突然の践祚、「祐宮睦仁親王践祚すること」を広く告げ知らせたそうだ。

孝明天皇は1858年7月29日に日米修好通商条約が締結された時に1858年8月7日に「帝位を他人に譲り度決心候」と書かれた宸翰を関白九条尚忠に渡した。その宸翰は沢本江南編「阪下義挙録」に掲載され国立国会図書館にデジタルコレクションとしてウェブ掲載されている。
↓これの事だろうか。

武家伝奏披露の書状に驚いた」とある。

一体何が書かれていたのか気になるところだ。

が、譲位にしろ崩御にしろその直前に孝明天皇から中川宮に相談は無かったのだろうか。

自分のあとは伏見宮有栖川宮二宮の何れかに託す、とも書かれている。

中川宮とは疎遠になってしまったのか。

分断工作されたのであろうか。

中川宮はその後、親王も剥奪されたり不遇の時を過ごす。

DSは優秀な支配層を嫌う。

だから遠ざけられたか。

1875年には伊勢神宮の祭主になられたそうだ。

午前中はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

ヤロー共には焼きそばを用意。

自分は納豆と玄米ご飯、味噌汁メインでお腹を満たした。

午後も読書。

 

午前中の続き。

もうね、孝明天皇、中川宮、と来たら長州の尊王攘夷過激派が暴れまくりよ。

同じく過激派の三条実美と謀って孝明天皇の大和行幸天皇の意に反して勝手に計画。

が、これを何とか阻止してくれ、との天皇の内意を受けた中川宮は一会桑藩の協力の元、長州藩士と過激派公卿を御所から締め出した。

これを八月十八日の政変と言う。

長州藩で燻っていた尊王攘夷過激派は藩主の冤罪を晴らそうと武装して上京。

御所に攻め入るも一会桑藩軍に跳ね返された。

これが蛤御門の変

この長州過激派は因州二十二士事件にも関与。

慶喜公の弟が藩主となっている因幡藩の重臣ら4名が京の本圀寺で河田景与率いる尊王攘夷派22名によって襲われ命を落とした。

哀悼。

ちなみに河田景与は長州の木戸孝允と親交があった。

それでもって、中川宮邸への放火も画策。

↑殺人未遂罪やろ。

しかも皇族に対して。

事件後、暗殺された重臣黒部権之介の遺族が仇討ちに島根の松江まで追ってくると河田らは長州藩に逃げた。

この事件に関しては本を借りたのでまた後日。

トラブルメーカー長州に戻るが、その最たる事件は下関戦争。

幕府は攘夷期日文久3年5月10日に決定。
前日の5/9に横浜港鎖港を各国に通告。
幕府は武力によらない攘夷を実行←賢い。

ところが、5/11未明ヴァカな長州藩が馬鹿海峡で米商船を砲撃。

幕府の、外交力を使った攘夷の方法を水泡と化した。

これ、誰がどう見ても偽旗作戦やろ、と思い調べるとやはりそうだった。

長州藩が外国船を砲撃した理由は幕府を諸外国との戦争に巻き込むことで弱体化し幕府を転覆するきっかけを作ろうとした。
薩英戦争の賠償金も生麦事件の賠償金も薩摩藩に代わり幕府が肩代わりして払っている。

態と外国と事を起こし幕府に賠償金を払わせる売国行動をした長州藩だが、その講和条約に於いても長州側の通訳と謀り幕府に被害の何十倍もの賠償金を払わせる策略に成功。

通訳誰だよ!と調べると伊藤博文だった。

この方、先程の国会図書館の資料、沢本江南編「阪下義挙録」にもめっちゃ悪行、塙氏の暗殺とか書かれていた。

よくまあ総理大臣とかお札になったもんよ。

今日はここまで。

 

17時半から夕食作り。

焼き芋、赤魚の粕漬、紅鮭、冷奴、サーモンマリネサラダ、笹蒲鉾、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

読書と調べ物の続きをすることに。

 

歩数計は6132。

充実した一日だった。