arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1001日目と畑とご近所テニス

2024/6/9土曜日

3時45分に起床し洗濯と朝食作り。

6時に畑へ。

 

するとズッキーニの花が元気に咲いていた。

害虫予防を兼ね竹酢液入りの水を与えた。

7時に帰宅後、汗だくの服を総着替え。

朝から蒸し蒸ししていた。

 

9時にご近所テニスへ。

男子3名女子4名が参加。

アップ後、4ゲーム先取セミアドの試合をスタート。

13時まで楽しんだ。

 

帰宅後、昨夜以来の食事の用意。

家族5人が在宅。

つけ麺7食分を茹でた。

お腹が満たされたら読書。

 

昨日に引き続き青蓮院宮本。

この本を読むと青蓮院宮が如何に孝明天皇から信頼されていたかがわかる。

 

真木和泉の策略で三条実美天皇の大和行幸の偽勅を出した時もそう。

偽勅てフェイクニュースの走りですわ。

しかも勅許て天皇の御触れだから。

天皇でない三条が天皇に成りすまして御触れを出したんよ。

しかも、天皇は大和行幸など望んでいない。

その意志を確認した青蓮院宮は御所に蔓延る過激派公卿とその元凶の長州を排除する事に。

まずは近衛忠煕、忠房父子、二条斉敬徳大寺公純に参内を命じ京都守護職松平容保所司代稲葉正邦薩摩藩島津茂久名代に18日午前零時に藩兵を率いて参内、宮門の内に入れと令旨を下した。

更に、青蓮院宮は宮門警護で参内した因幡備前、米沢、阿波、土佐などの諸藩諸侯或いは世子に勅上を伝宣。更に堂上に立ち音吐朗々として読み上げた。

「この頃、議奏並びに国事掛けの輩、長州主張の暴論に従い、叡慮にあらせられざる事を御沙汰の由に申し候事少なからず。就中、御親征、行幸などの事に至りては即ち今未だに機会来らずと思し召され候を矯(た)めて、叡慮の趣に施行候段、逆鱗少なからず。攘夷の叡慮は動き給わざるも、行幸は暫く御延引あそばされ候。一体右様の過激、疎暴の所業或るは全く議奏並びに国事掛けの輩が長州の容易成らざる企てに同意し、聖上に迫り奉り候は不忠の至りに付き、三条中納言始め追って取り調べる相成るべく、先ず禁足し、他人との面会は止められ候事、、、、」と読み終えてきっと正面を見据えた。

 

三条実美を筆頭とする朝廷激派の議奏、国事奇人二十余に別の勅勘が下されたのはこの直後。文辞は厳しく連ねられている。
これを受けた三条実美、滋野井実在、沢宣嘉らの過激公卿は鷹司邸に集合し気勢を上げた。

長州兵士も勅命など何処吹く風とばかり銃隊を門の左右に展開し、大砲の筒先に至っては御所宮園の内に向けて、声高に砲射の位置まで定めている。←御所を攻撃する気満々。尊王じゃなかったんか?

 

薩摩藩指揮官奈良原喜八郎「長州のわろどんらは勅命に楯突く気でごわすか!勅命に叛くとなりゃあ逆賊じゃ。どうでも引かんというちょるんなら構うことなか。あるだけの砲丸ば射ちこんでくるる!」このあと長州は兵を退いた。

 

 

東山妙法院まで退いていた三条実美ら七人の公卿は長州藩に警護されつつ笠を目指して西奔した。←七卿落ち

このあとの流れを時系列で紹介。

 

8/18 政変。からの七卿落ち
8/24 七卿の官位を褫奪(ちだつ)

9/1 実美らの処罰を在京諸藩に諭告すると共に長州藩主毛利慶親父子の入京参内を禁じた。

10/28 堂上廷臣に天子が実美を憐れんでいるという風説を信じてはならぬとの諭告が下された。
この3日前にも関白以下の上卿に同様の内容の宸筆の勅諭が降下されている

12/3, 孝明天皇が青蓮院宮に送った宸翰。
「さて申し入れたし候儀は昨日もちょっと前関白も約言ありし一件にて、かねて予、尹宮へ申し入れたしと存じ候事に候。先ず昨日承り候ところにては、尹宮事、なにか奸謀これあり候儀の一件、じつはこの方に於いても、なにか耳に入り候事も候えども強いて申し出ださざるは、有体じつに頓着せず。すなわち右様の儀も種々申しふらし候は、すなわち長州を根本として、右長州に付属の輩が申し出て、人気を迷わせ、ついには予の腹も覆す手段と存じ候。これが予、暴人ども八月十八日の一条を俗にひっくり返し、咎の輩の再生の手段、右手廻し、足廻し候策略に候間、さ候えば予に於いての讎(あだ)策故一説頓着無く、強いて、発言までもこれなく打ち捨て候、、、」

孝明天皇は長州の奸策を見抜いていた。

孝明天皇と青蓮院宮は固い絆で結ばれていた。

流石、仁孝天皇の薫陶を受けたお二人である。

 

18時から夕食の用意。

トマト酒粕コンソメ鍋、パクチーウォッカ梅酒ロック。

唐辛子を効かせた鍋は大好評だった。

お皿は長男が洗ってくれた。

ありがたく読書を楽しむ事に。

 

歩数計は16720。

充実した一日だった。