2024/6/25火曜日
3時半に起床し朝食作り。
5時過ぎに畑へ。
すると、キュウリの花が咲いていた。
枝豆は莢を着けていた。
トマトに不自然な水滴が。
雨降ったん?
木酢と竹酢の液を掛けといた。
持参した苗を受け付けたら作業終了。
8時過ぎに帰路に。
帰宅後、洗濯を3回。
闘病者が続出したので寝具の洗濯と布団干し。
11時から最新情報のチェック。
昼食は残り物で良いと言われたので残り物。
自分はお腹が空かないのでパス。
午後は読書。
能登半島に関する本を3冊読んだ。
輪島塗て、凄いね。
石川県は行った事が無い。
そのうち訪れてみる事に。
17時半から夕食作り。
良く呑み良く食べた。
昨日に引き続き、一日一食。
それでも全然空腹感を感じない。
体が「食べるな!」と言っているような気がする。
解毒する為に。
悪魔くんが何か仕込んだ?
わいに死んで欲しくて。
確かに胃の靠れを感じる。
一日一食で全然平気なので暫く続ける事に。
お皿は長男が洗ってくれた。
有り難く読書の続きをする事に。
昨日の文永の役の続き。
文永12年(1275年)博多では老齢の父少弐資能に代わり事実上の総指揮に当る少弐経資が「蒙古警固結番」を定め九州諸国の守護や御家人に伝達。
春夏6ヶ月の指揮は少弐経資、秋3ヶ月は大友頼康、冬3ヶ月は島津久経。
春3ヶ月筑前・肥後
夏3ヶ月肥前・豊前
秋3ヶ月豊後・筑後
冬3ヶ月日向・大隅・薩摩
肥前・豊前の守護は少弐資能(1198年生まれだから77歳!)だが老齢なので経資が代わりに夏の指揮を取る。肥後国の守護に命じられた安達泰盛はまだ着任していなかったので春3ヶ月も経資。
蒙古再来に向け着々と準備は整えられていた。
その頃、京都で事件が。
持明院統の後深草上皇が法華経を自分の血で書写した上で尊号を辞退し出家すると言いだした。
昨年、大覚寺統の亀山天皇が御子の後宇多天皇に譲位した事が原因だ。
時宗は猶予を願った。
まーた揉め事。
この間、鎌倉では極楽寺の造営工事が進んでいた。
文永元年(1264年)8/21, 北条重時の子極楽寺流北条長時が35歳の若さで死亡。
弟の業時が総力を挙げて進め、七堂伽藍、十二社、四十九院、馬療屋、療養所なども設けられていた。
が、文永12年(1275年)3/23或いは3/26, 火災により全焼。
これに前後して若宮大路東側の将軍御所も全焼。
焼け出された将軍惟康王は時宗館に移り住んだ。
大陸では文永12年(1275年)蒙古勢が南宋に対し攻勢に。
安慶を制圧。
先に襄陽で降伏した呂文煥が娘婿の安慶守将范文虎を説得。
蒙古に降伏させた。
このあと2/9にクビライは宣撫使を日本に。
2/23,南宋の首都臨安は遂に陥落。
300余年続いた宋帝国は滅亡した。
300余年も続いたのな。
杜世忠ら日本宣撫使は3/10, 高麗に到着。日本への案内人として徐賛、上佐を添えて出航。
4/15, 長門国宝津(豊浦町)に到着。
恨みや憎しみの残る博多では平和的な交渉は出来ないと踏んだ。
そして、まだ平和的な交渉の余地あり。去年の戦闘で懲りた日本は降伏するかもしれない、と甘く見ていたようだ。
が、一行は到着後捕らえられ斬殺された。長門国守護の二階堂行忠は一行の到着を鎌倉へ急報。
時宗は朝廷問題も着手。
これにて、このあと大覚寺統と交互に皇統を継いで行く南北朝時代に。
更に、杜世忠が持参した牒状を朝廷に提出する際、時宗の意見書が添えられた。「前々の如くこの度も返牒あるべからず」こうして外交権は完全に幕府の物に。
次に時宗が着手したのは蒙古が攻めてくる可能性がある国々で守護を改補する事。
従来の相続制を止めて実力のある者を任じる事。
豊前国を金沢流北条実政に、大友頼泰の筑後国は時宗弟の北条宗政に与えた。
播磨・備中両国の守護には時宗自身が就任。
幕府の高麗遠征案に対し朝廷は反対。
が、外交権のある幕府は着々と準備を進めた。
宗頼の長門国守護就任は北条実政が高麗に遠征したあと後背の兵站を守る意味も。
豊後国守護大友頼康は九州御家人に対し所領の規模、高麗遠征に従軍出来る一族の人数、交名、年齢、武具、調達出来る船の数、水手、舵取りの人数、交名、年齢などを15日間以内、3/20までに報告せよ、と下知。
しかし、九州御家人の返信は期限を一ヶ月以上遅れていた。←みんな気進まないわなー。
3/10, 少弐経資が「異国警固のための要害石築地のこと」と題する下知を出した。
博多湾に沿って石築地を築くから甲高麗遠征に従軍しない御家人は自領の農民を人夫として連れて行き工事を行え、と。
この時はまだ逆襲と防衛の二本立て。
が、建治2年(1276年)8月には防衛のみに。
石築地の割当は
香椎地区 豊後国
筥崎地区 肥前国→薩摩国
博多地区 筑前、筑後国
姪浜地区 肥前国
生ノ松原地区 肥後国
青木横浜地区 豊前国
今津地区 日向、大隅国
早い所では建治2年8月に着工。
終了は建治3年。
建治4年、改元し弘安元年正月、高麗で大事件が。
全く同じ事が2月にも。
金方慶は大青島に流された。
忠烈王は洪茶丘が蒙古に帰ると金方慶を救い出しクビライに釈放を願い出た。
鎌倉では7/24, 蘭渓道隆が示寂。
時宗は12/23, 無及徳詮、傑翁宗英の2名に渡宋し俊秀の名僧を招致せよと命令。
その子兼時17歳が後任として赴任。
6/25, 対馬に異国船が来着。
宋人の周福と欒忠で元南宋の将軍夏貴と范文虎が送った招諭使だった。
日本人の僧の本暁房霊果、通事の陳光も同行。
牒状には「宋朝は既に蒙古の為討ち取られおわんぬ。されば次は日本、これ危うし。よって日本、蒙古と好を通ぜずんばまた攻めらるべし。よくよくご考慮あるべし。 亡宋遺臣夏貴 同范文虎」
同じ6月、無学祖元の一行が博多に到着。鎌倉の建長寺に入った。
弘安2年10月頃東国武士が多数京都を通って九州に向かっていた。
時宗が九州に送り込んでいた。
蒙古の再襲を待つのに飽きると勝手に出撃して高麗沿岸を襲った。
これを倭賊と呼んだ。
漁民を捕らえ事前情報収集した。
聞き出したのは、高麗合浦港発の東路軍都元帥は蒙古人の忻都。
右副元帥は高麗人の洪茶丘
左副元帥は高麗人の金方慶
蒙古人、旧北宋系漢人、高麗人合わせ四万。兵船は900艘。
中国江南から出撃するのは江南軍。
都元帥は蒙古人の阿刺罕(あらかん)
右副元帥も蒙古人の阿塔海(あたはい)
左副元帥は旧南宋の范文虎
旧南宋兵で10万、兵船は3,500艘。
両軍は明年5月それぞれ出発し壱岐で合流。全軍で博多を衝く事に。
前回は900艘。
今回は4,400艘。
前回のはただの小手調べやな。
それにしても凄い数の船。
スケールが違いますわ。
いよいよ、次は弘安の役。
歩数計は8358。
充実した一日だった。