2024/6/11火曜日
4時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
6時に畑へ。
ズッキーニにウリハムシが来ていた。
が、ここまで大きくなれば大丈夫。
一応木酢液は掛けた。
大根の葉にもアオムシやらウリハムシではないオレンジ色の虫やらが来ていた。
こちらにも木酢液をプレゼントしておいた。
7時に帰宅後、服を総着替え。
結構汗を掻いた。
9時半にフットサル教室へ。
コーチ1名男子1名女子4名が参加。
ゲームデイなのでアップが終わったらゲーム。
今日はいつになくコーチが暴走。
フットサル教室を辞める踏ん切りが着いた。
これも神様の思し召しなのかも。
いつまでもDSの3S政策に加担してるでない、という。
12時まで楽しんだ。
買い物をしてから帰宅。
13時半に昨夜以来の食事。
食べながら夫はカッカして自分に八つ当たり。
折角の食事がまずくてしゃーない。
きっかけは直前の次男とのやり取り。
大学4年の6月になろうと言うにまだ研究室での実験が始まらない。
そういえば理系の夫は大学3年から研究室で実験をやっていた。
長女も。
夫は自分の時との違いに納得いかない。
授業料も年間150万円払ってるからね。
何でも就職活動をしている学生が居るので終わるのを待っているそうだ。
次男は春休み返上で就活し春休み中に決まった。
自分は大学が悪いと思う。
学生の本分は勉強。
高い授業料をふんだくっているのだからやらせろよ、と思う。
夫も長女も毎日忙しそうに実験をやっていた。
夫は次男に学校行って実験やんないの?と尋ねても適当にあしらわれ、その怒りを自分に向けてくる。
二言目には馬鹿バカ言われるから頭に来て家中の窓を開けた。
公開夫婦喧嘩(笑)
ご近所さん始め集団ストーカーしている皆さん、悪魔くんが目撃者で証人(笑)
ま、悪魔くんは夫に憑依している可能性もあり。
で、不思議な事に窓を全開したら夫は怒鳴り散らすのを止めた。
一応、不味いと思っているのか。
窓全開のまま夕食作り。
自分は梅酒とツマミのチーズで済ませた。
諸々は長男に任せ、自室で読書&調べ物。
夫の暴走も、わいに読書をさせたくない勢力が夫の脳味噌ハッキングして暴れさせたのだと思う。
取り敢えず、次男の件は夫が次男と再び話して、次男は毎日学校に行く事になった。
理系の4年は忙しい筈なんよ。
さて、読書に戻る。
今日も広瀬仁紀著「青蓮院の獅子」
この本は本当に良い。
幕末に一体何が起きていたのかが、青蓮院宮と松平容保公サイドでわかる。
知る人ぞ知る、孝明天皇が最も頼りにしていたお二方。
同時に歴史から抹殺されがちなお二方。
このお二方がこの本では生き生きとしている。
孝明天皇のバックアップの元で。
こんな事書いてこの著者広瀬仁紀氏は大丈夫なのか、と調べたら1995年に64歳で鬼籍に入られていた。
哀悼。
またまた話は戻る。
長州が御所を銃撃し逆賊となった1864/7/19の蛤御門の変後の、長州への処罰は火災で焼け出された大勢の京者が口をあんぐりする程軽かった。
更に、青蓮院宮の密偵が言うには、蟄居中の岩倉邸へは連日薩摩藩の西郷と大久保の使いの者が出入りしている、という。
この報告には青蓮院宮も「島津は、久光は、帝を裏切り奉ろうとしているのか!」 と、色めきだった。
青蓮院宮曰く、この国の政情が保たれているのは薩摩と会津という強藩が同盟しているから。
そんな時に薩摩が岩倉に抱き込まれているとは、朝議も四分五裂になり、結果、天子の進退にも及ぶ懸念が生じる、と懸念した。
非番の日に大久保は岩倉村を訪ね「倒幕」を説きつけ。
この頃、岩倉は自論「叢裡鳴虫」の草案を書き終え、薩摩藩士、井上岩見に託して大久保に閲覧させ意見を求めた。
文章中の後段の筆頭に「、、、今ヤ大樹大坂ニ在リ。和宮ヲ迎エテ二条城ニ有リ、日々参朝シテ天顔ニ咫尺シ、君臣ノ間水魚ノ如クナルトキハ誰カ能ク之ヲ離間セン。政令ハ内外ヲ論セス大事ハ具状宸裁ヲ仰キ、万機一途ニ出テシムヘシ。是ニ於テ、幕吏カ曽テ望ム所ノ公武一和其実始メテ挙カリ、国内協和論サスシテ成ルヤ必セリ。誠ニ国家ノ幸福ナリ、、、、」と記述したように従前からの岩倉の持ち前である調和的公武合体論の色彩が濃い。
これを一読した上で大久保は岩倉に倒幕論を持ち込んできた。
1865/9/15に家茂が入洛すると、その翌日の9/16に英仏米蘭の四国連合艦隊が兵庫港沖合に艨艟8隻の姿を浮かべ恫喝、威嚇行動。
プリンセス・ロイヤル号には英国公使パークスが座乗。
フランス艦キャンシャン号に現れた老中小笠原長行と阿部正外は「慶應元年11/15に大坂・兵庫を開港する事を期待する」と明記された外交文書を受領。
青蓮院宮の日記における記述にも動揺が見られる。
何せ兵庫港から御所までは僅か70kmやから。
事態がここまで来たのを見て当初長州再征に反対していた慶喜もこれが棚晒しになれば幕威が致命的に失墜する事を恐れ勅許を願った。
青蓮院宮も会津、桑名、肥後、久留米、土佐等の諸藩有司を説きつけ同意させた。
が、薩摩者だけは頷かず。
特に大久保に入説された内大臣近衛忠房は長州再征に反対。
「今、摂海を夷船が横行している時に長州再征など論外」と唱えた。
山階宮も同調。
ちなみに薩長同盟が結ばれたのは1866/3/7。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F
パークスは、もう将軍とではなく天皇と直に交渉すると言い出した。
パークスによる無礼な振る舞いで朝廷は老中を罷免。
「朝廷」が老中を罷免て、これ、朝廷によるクーデターやないか?
老中の罷免権は朝廷じゃなくて幕府にある。
怒った家茂は将軍職を辞職し慶喜に譲ると朝廷に奏上。
20歳が28歳に将軍職を譲る〜。
ええぞー家茂〜👏やるねぇ~。
なかなか大久保や岩倉の思う通りに行かないのは、青蓮院宮と二条関白が立ち塞がっているから。
岩倉は遂に青蓮院宮と二条関白を追い落とす事に。
まず、慶應2年(1866年)8月30日、中御門経之が二条関白邸に参入。
青蓮院宮と野宮中納言の事件?を陳述?←多分しょーもない内容。
次に御学問所で大原重徳以下22人が参列し青蓮院宮と野宮定功の弾劾を開始。
が、それを聞いていた天子は激怒。
言上している大原に対し「朕への不義不忠である」と宣った。
今日はここまで。
歩数計は14357。
充実した一日だった。