arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1015日目と読書三昧

2024/6/23日曜日

6時に起床し朝食と昼食作り。

相変わらず夫、長男、自分と療養中で余り食欲が無いので、ミキサーを利用し、じゃが芋蜂蜜レモンジュースとじゃが芋玉ねぎポタージュを調理。

ミント入りのルイボスティーも用意しておいた。

食欲が無くても水分は摂らないと。

簡単な調理しかしていないのに大汗。

全身ずぶ濡れに。

まーた、電子レンジ攻撃かー?

シャワーを浴びる事に。

ついでにお風呂掃除。

ここで掃除に力が入り過ぎ、シャワーを浴びた直後なのに汗が出てきた。

程々で止めといた。

やる事やったら扇風機の風に当たりながら読書&調べ物。

 

もうね、奥富敬之著「時頼と時宗」に夢中。

今まで元寇についてこれ程分かりやすく書かれていた本あったかな?というくらい。

時系列も素晴らしい。

おかげて、あー、このイベントの下準備でこれやっとんのなー、と推察出来る。

で、昨日の続き。

 

蒙古使一行は対馬での抑留に苛立ち抑留9日目の24日に喧嘩を切っ掛けに逃げ帰った。
野次馬か物売りか宗資国の手兵かわからぬが喧嘩が発生し離岸。

その際、島民の塔二郎と弥三郎を連れ去った。

大丈夫かー、塔二郎と弥三郎。

蒙古と言えば西はハンガリーまで蹂躙した強国やでー。

心配を余所にクビライは拉致した二人の日本人を饗応。

そして、丁重に日本に送り返した。

勿論、牒状付きで。

一行は文永6年(1269年)9/17, に対馬伊奈浦に到着。

そして、今回は島人2名を連れて居たので太宰府へ案内された。

ここで、副使の高柔が一計。

霊夢を見たから」と称して所持していた毛皮造りの冠を安楽寺太宰府神社)に奉納し霊夢を詩にして奉納。

ここに祀られているのは菅原道真

日本人が神と崇めて居る人が高柔の夢に現れた、というのである。

太宰少弐の武藤資能はあっさりと騙され牒状を受理してしまった。

高柔:騙される方が悪い。

これの早飛脚は24日間で京都に到着。

再び返牒すべきか否かで評定。

一ヶ月余続いた。

結論は返牒あるべし。

この時の関白は鷹司基忠(23歳)

若きリーダー近衛基平の死後、返牒派が多数になっていた。

これに対し幕府は「異国の牒状、無礼なる字句あり。よって返牒あるべからず」と返信。

蒙古使一行は諦めて帰国した。

文永7年(1270年)1/27, 六波羅探題北方の北条時茂が31歳で死んだ。

後任の北条義宗が着任するまで六波羅探題北条時輔時宗庶兄)のみに。
時輔は和親返牒派に変化。←DS得意の分断策か。

足利氏とも縁が希薄になり上杉氏とも蟠りが残っていた。

国の一大事に国内で争ってる場合じゃないよな。

 

そして、大陸での事情も知っておくと元寇を理解し易い。

この頃、朝鮮半島東南端の金州(巨済島の北岸)では大事件が起こっていた。

広大な田地が強引に蒙古に接収されて日本遠征軍の基地とされたのである。

やがて蒙古の大軍が進駐してきて屯田

蒙古軍クリンチ、高麗人の洪茶丘女真族の趙良弼、宋人の王国昌など指揮官クラスも。

1271年正月、趙良弼一行は高麗の首都開城に到着。

三別沙の反乱以来、高麗人の抵抗は激しくなり道中は危険。

三別沙は蒙古と高麗の混成軍に敗れ南走。耽羅済州島)に新たな根拠地を設けた。クビライは新たに10箇所の屯田地を追加指定。

屯田とは言うものの実体は進駐軍であり占領軍。

屯田兵六千人の兵糧の他、軍馬用の秣、農業に用いる牛三千頭、各種の農具、種子なども供出するよう命ぜられた❗

高麗にとって恐ろしい命令だった。

一方、日本国内では、時宗が宋から招いた高僧から大陸の情報を得ながら、九州に所領を持つ御家人に防備を固めるよう指示。

準備を進めていた。

また、一族内の争いにも速やかに対処した。

その頃、京の゙六波羅探題では20歳の新任赤橋流北条義宗と25歳で探題職7年の時輔との間で対立が。

時輔方には、常に得宗家に楯突く名越流北条氏の名越教時が加担。

院政の主だった後嵯峨上皇は病臥中。

次の亀山天皇は奔放不羈且つ豪放磊落。

文永9年(1272年)2月に陰謀が時宗に漏れ、時宗名越教時の館に兵を向けた。

甲冑を着る余裕なく制圧され名越教時は其の場で誅殺。

続いて中御門流藤原実隆が捕縛。

天皇を護衛すべき左近近衛中将でありながら鎌倉に居て陰謀の相談をしていた。

2/15には六波羅探題北方の赤橋義宗にも指令が。

六波羅探題北方と南方は背中合わせに隣接している。

義宗が在京御家人を集めた音は聞こえている。

なので時輔もそれなりの用意はしていたので迎撃もした。

時輔は討ち死にしたと伝えられる。

 

 

趙良弼は文永9年(1272年)5月再び博多へ。

10ヶ月も博多に居た!

密かに日本の事を調べていた。
クビライは激賞した。

 

クビライは日本遠征の前準備として南宋の占領を計画。

そこを日本遠征の出港地にしようとした。南宋帝国西北隅の襄陽は足掛け5年に渡る、蒙古兵による籠城戦に耐えていた。

理由は三つ。

①襄陽が堅固な囲壁都市であること。

②眼下を流れる漢水の岸辺に付城の樊城があった。そこから僅かでも兵糧米が搬入されていた。

③南総兵が守将呂文煥を信頼。城内の食糧を確保する為に妻子を城外へ放出。←ひぇー蒙古軍に囲まれた中に!? と心配した。

が、調べると妻子は丁重に保護されておりました。

後で色々と利用、じゃなくて呂文煥が智将なので死なすのは惜しい、ということで。

 

この戦いで蒙古軍は堅固な襄陽要塞の攻略に新兵器を投入。

その名もマンジャニーク。

またの名を回回砲。

巨大な投石機である。

大の男と同じ重さの石弾を、錘の力を使ってテコで遥か彼方へ投げ飛ばす機械だ。

はるかペルシアからやってきたアラーウッディーンとイスマイールという技師がこれを作ったのだという。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=719621

クビライは外国人も抵抗無く登用。

スケールの大きい人だったようだ。

そのスケールのデカさが如実に表れるのが下記命令。

運命の文永11年(1274年)正月、クビライより高麗へ3ヶ月で大船300艘!軽疾舟300艘!給水用小舟300艘!合計900艘❗を建造せよ、と命令が。

1/15に造船工事が開始。

木材が豊富な全州道の辺山と羅州道の天冠山との両地に工匠と人夫で計3万5千人が集められていた。

3ヶ月で900艘。

突貫工事≒手抜き工事だったのはしょうがない。

 

今日はここまで。

 

12時に木曜の昼以来の食事。

断食時間が長かったせいか自分の回復が一番早いような気がする。

午後も精力的に読書と調べ物。

雨で畑に行けないもので。

 

17時から夕食作り。

昨日のみぞれ鍋が残っていたのでトマト缶を足してトマトスープに。

ヤロー共は美味しそうに食べていた。

自分はお腹が空かないので抜く事に。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は2502。

充実した一日だった。