2024/5/31金曜日
5時に起床し朝食と昼食作り。
外は雨。
洗濯は保留。
7時過ぎに長女を駅まで送迎。
帰宅後、ベランダガーデニング。
すると、今日も悪魔くんによる悪戯を発見。
一つの鉢から5つの芽🌱。
しかも3種類の芽。
一番大きいのがカボチャ。
次に大きいのがキュウリ。
一番小さいのはゴーヤ。
自分はここにゴーヤの種を蒔いた。
しかも、1個。
ま、芽が出た事自体は目出度い。
授かり物だから。
ありがたく苗用のポットへ移植させて貰った。
鳩も早朝からベランダで鳴いていたがあちこちに糞をしていた。
ただ、悪魔くんなのか鳩なのかわからないがズッキーニの鉢植えを荒らされていたのには怒。
雨だけれど、念の為、みんなに木酢入りの水をあげた。
9時から読書。
久しぶりに「増補 朝彦親王景仰録」
「もう一人の明治天皇」を読んでからも、孝明天皇が崩御してからどうしてたんだろう、と気になっていた。
あれだけ、英邁で孝明天皇の片腕と評されていた御方だから。
明治新政府になってから明治8年に伊勢神宮祭主に任ぜられた事はウィキにもある。
が、この景仰録をパラパラ捲っていたら近江国五個荘に領地を賜った、との記述を発見。
これはどこなのだろうと検索していると東近江市にあった。
しかも、その近くに「箕作城」を発見。
そういえば、箕作阮甫が川路聖謨と日露和親条約の交渉で長崎に向かう道中、中山道から箕作山を眺め「自分の祖先はここから出たんだよな」と感慨深く話していたのを何かの本で読んだ。
ちなみに、朝彦親王が扁額を書いた百々神社にも箕作氏に関する案内板がある。
箕作氏はめっちゃ由緒正しい家系。
流石、徳川氏から次の天皇の系譜に選ばれただけある。
https://twitter.com/honest_kuroki/status/1257927382230462465?s=19
箕作奎吾は面接にパスしたあとは帰国後、1868年、父秋坪から家督を譲られ、幕臣に。
また、父が始めた三叉学舎もお手伝い。
ウィキ「三叉学舎」より
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8F%89%E5%AD%A6%E8%88%8E
箕作奎吾はイギリス留学から帰国後、1868年に゙家督を譲られている。
また、三叉学舎の手伝いをしているから1867年12月9日の王政復古のクーデターや1868年1月3日の徳川征討令が出された鳥羽・伏見の戦いの時はまだ"天皇"になっていないか。
ま、誰がなっても所詮"傀儡"
明治新政府中枢メンバーにとって何の影響も不都合も無いわ。
朝彦親王と箕作氏とのニアミスを知って興味深い読書となった。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら午後も読書。
幕末の新発田藩家老、溝口半兵衛の物語だ。
まだ20数ページしか読んでいないけれど、出てくるのは、藩の借金塗れの惨状。
そして、領民の窮乏。
幾筋もの川に囲まれた新発田は兎に角洪水被害に悩まされてきた。
更に、冷害やウンカ被害もあり収入源は米のみ、という藩にとって不作は死活問題。
更に、数年毎に大火も起きている。
借金に継ぐ借金でもう藩に貸してくれる豪商は居ない状況だった。
備蓄用の米の買い付け用にと何とか借りる事が出来たお金や、それで得たお米は大火で焼け出された人々に施され、無くなった、というところまで読んだ。
米どころ新潟と思っていたら、毎年の事ではなかったのな。
不作の年は大勢の餓死者も出ている。
それもあって家老の溝口半兵衛は備蓄用の米の買い付けに奔走していた。
17時半から夕食作り。
塩麹花椒漬け鶏手羽元、タコスピザ、帆立と玉ねぎと人参のわさびマヨネーズサラダ、玄米粉ケーキ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
歩数計は5243。
充実した一日だった。