arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1109日目と畑と信長と十字架⑤

2024/9/25水曜日

3時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

5時半に畑へ。

綿花の花が出迎えてくれた。

トマトは遂に花も咲かなくなってしまった。

寒いからね。

急遽、冬瓜の支柱を片付ける事に。

紐で縛って作った支柱なので9時半まで掛かった。

 

帰宅後、シャワー&洗濯。

ベランダでの水遣りも済ませ、中華麹の仕込みとカボチャプリンを焼いたら11時を過ぎた。

最新情報をさーっとチェックしたら、読書。

昨日に引き続き、立花京子著「信長と十字架 「天下布武」の真実を追う」

 

エスズ会からの期待

フロイスは「〈信長は〉毛利を平定し日本66箇所の絶対君主となった暁には一大艦隊をを編成してシナを武力で征服し諸国を自らの子息達に分かち与える考えであった」と記している。

 

この記事がある以上、イエスズ会側では信長に中国の武力征服を期待し、信長に課した目標として設定していたのは確かである。

ザビエルが1551年4月、周防長門大内義隆を訪問した時、時計、3つの砲身を有する高価な燧石の鉄砲、結晶ガラス、鏡、眼鏡、緞子(どんす)など十三の立派な贈り物を進呈したとある。

フロイスは戦乱に出会う度に黄金などの財産を偽装させて地下に埋めた。

大友宗麟と信長を繋ぐパイプは堺の日比屋一族と天王寺屋一族であった。

信長を大友宗麟と連結させ信長を全国制覇の舞台に押し上げた担い手は堺の豪商達。

日比屋ディオゴ了珪とその父「クンド」と小西ジョウチン立佐が初期バテレンの入京に協力。

後に今井宗久千利休と共に信長の茶堂となり協力するのが前述の天王寺屋津田宗及。

堺の豪商、津田宗及は天正六年(1578年)正月、安土城に信長を訪問した際、或る一室で黄金一万枚を見たという話(『天王寺屋会記』)がある。

宗及の叔父に大友宗麟の御用商人となって豊後と堺を頻繁に往復していた天王寺屋道叱が居る。

信長が永禄12年2/11(笑)に堺の町を接収する為、佐久間信盛柴田勝家を派遣した時は宗及は百人に及ぶ上使衆を自宅で接待。宗及はこの時宗久と共に妥協派に回り堺町衆に信長への服従を説いていたとみられる。

信長に抵抗した会合衆頭領の紅屋宗陽が宗及を招いて懇ろな茶会を開いているのも信長派への降順を示したものであろう。

信長が永禄13年に上洛した時宿所とした代々典薬頭を務める京都半井家の半井驢庵も支援者。驢庵の一族の堺半井家の云也は後にキリシタンに。そして、津田宗及の娘と結婚する。

同じく堺の商人今井宗久は豪商武野紹鴎の女婿として活躍。永禄11年10/2に信長に降伏した松永久秀と共に摂津芥川城へ名物の茶器を持参して信長に献上。それ以後、堺衆を統率して鉄砲の製造をはじめ信長に兵糧弾薬を供給。永禄12年8月に信長が制圧した但馬の生野銀山に代官を派遣し管理している。

大友氏のもとに鉄砲鍛冶が仕えたのは弘治2年(1556年)永禄七年に毛利氏を迎え撃った際、大友軍は1200挺の鉄砲を備えていた。

京都馬揃えは天覧の元華々しく行われた。主賓は当然天皇であるべきだが実はイエスズ会巡察師ヴァリニャーノが主賓だった。

天正7年、口之津に上陸したヴァリニャーノは有馬領、大村領を経て翌八年には豊後府内に入り大友宗麟のもとでミサを行い、杵臼に新設した修練院の開院式で講演。イエスズ会の協議会を開くなど布教、視察活動を行った後、フロイスらを伴って9年2/4に堺に向けて府内を船出。第一の目的は京都及びその周辺での布教状況の視察と安土での協議会開催にあった。

ヴァリニャーノ一行は2/13, 堺に到着。15日から若江、八尾、河内岡山のキリシタンを訪問。17日に高槻に到着。

ヴァリニャーノから贈られた椅子ー権威のシンボル

2/28, 朝8時に本能寺を出た信長は一門以下歴々の武将からなる大騎馬隊と共にパレードをしつつ馬場に入った。華美な衣装に着飾った信長とその軍団の威容を見せつける一大軍事パレードであった。

馬場では華やかに装った天皇、公家、女官が桟敷に居並び、大群衆が見守る中、晴れがましく着飾った何十騎もの騎馬が馬場の中をぐるぐると一度に駆ける、という競技が午前八時から午後二時まで続けられた。

『日本史』5によれば、入場の時、信長は4人の男に肩の高さに椅子を担がせて自分の前を歩かせ競技の途中、馬から降りてそれに座ってみせた。その椅子はヴァリニャーノからの贈り物。予てこの目的の為にマカオに住む敬虔なポルトガルの婦人がヴァリニャーノに贈呈したもの。金の装飾が施された濃紅色のビロードの椅子であった。

後に秀吉もヴァリニャーノから『パランキーン』というインド製の椅子を贈呈され吉見の花見を始め、

全ての晴れの場所では必ず使っていた。

スペイン使節から贈られた『ドン・ペドロ』という名前の象もパランキーンも権威のシンボル。

信長の装束は唐・天竺で帝王のみが用いる織物『きんしや』を用いていた。更にこの椅子に座ってみせることで『他と異なる者』即ち天皇をも凌ぐ『日本国の帝王』であることを天皇を始めとする群衆に見せつけたか。

3/10に信長は安土へ。それを追うようにヴァリニャーノも安土へ。ヴァリニャーノは近辺を旅行しつつ7/16まで滞在した。

『イエスズ会の為の仏教への鞭』であり『イエスズ会の為に立ち上がった』武将信長はスポンサーの巡察師ヴァリニャーノにこれまでの進捗状況を報告せねばならなかった。

信長が全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのはヴァリニャーノのみならず、ローマ教皇グレゴリウス十三世であり、イエスズ会総長メルクリアンであり巡察旅行の費用を負担したポルトガル国王ドン・セバスチアンであった。

三職推任に関して、誠仁親王の書状(畠山記念館蔵)によるの武田氏討滅を天下静謐の達成であるとみなし『朝家のご満足は古今比類ない』と賞賛。『いか様の官にも任ぜられる』と書かれている。更に『すべては信長が上洛したときに申すであろう』と述べている。三職の一つ、太政大臣には近衛前久が就任したばかり。二つ目の関白職は五摂家のみ。三つ目の将軍職は足利義昭が在任。どれも無理なのでは?が、本能寺の変によって信長は死んだので全て無かった事に。

これまで本能寺の変に関する本を色々読んだが誠仁親王の書簡は初めて知った。

まぁ、事前に知ってたっぽいな。

若くして亡くなるけどな。

長い間譲位を希望していた正親町天皇は孫に譲位する事に。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫は病院を受診し不在なので一人でご飯。

トランプ大統領の演説を聞いて美味しく頂いた。

午後も読書。

嫁と孫は体調不良で今日は来なかった。

17時から夕食作り。

鶏もものガリバタ甘酒炒め、納豆オムレツ、ニラ味噌豆腐、サツマイモの茎とごぼうと蒟蒻のきんぴら、キャベツのアーモンドサラダ。

ウォッカ梅酒ロックを呑みながら良く食べた。

後片付けを済ませたら読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は7409。

充実した一日だった。