2024/9/27金曜日
4時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
畑に行く前に天気予報をチェック。
終日雨、とあったので畑はお休みする事に。
昼食の下ごしらえをしおやつのカボチャクッキーを焼いたら、読書。
昨日に引き続き、立花京子著「信長と十字架 『天下布武』の真実を追う」
全国制覇を他の武将に任せる必要に迫られたイエスズ会は単にある武将Aに討たせたのであれば主殺しの汚名を一生背負う事になる。その時、武将Aをすぐさま別の武将Bに弔い合戦の名目で殺害させたなら武将Bの功績は賞賛されて武将Bによる全国制覇は順調に遂行出来る事になる。
バテレンが全般的に評価し選んだ結果武将Aが光秀、武将Bが秀吉に決まった。
あとは、その気になるように工作員達に頑張って貰った、と。
で、秀吉がキリスト教禁教政策に踏み切ると、今度は徳川家康に首をすげ替えた、と。
大坂城に穴を開ける大砲は家康にのみ買う権利があったのでは、とゲス。
勝たせたい方にだけ最新最強の武器を売る。
おいおい調べる事に。
9時半に孫達が来訪。
12時に帰って行った。
そのまま、昨夜以来の食事。
午後も読書。
ここでのキーマンとして高山右近が紹介されていた。
オルガンティーノと親交のあったキリシタンに高山右近が居る。右近は信長、秀吉、家康に仕えたがキリシタン信仰を堅持した事で知られている。
永禄七年(1564年)右近は13歳の時、父友照、母と共に受洗。この時、結城忠正と清原枝賢も受洗。
主君の松永久秀らが将軍足利義輝を暗殺した事で友照は久秀から離れ和田惟政に従う。しかし池田知正との戦いで惟政が戦死すると、知正の家臣の荒木村重に仕える。
主君の村重が謀反を諦めて逐電したあと、右近は摂津国の領主として信長に仕える事に。信長亡き後は秀吉に仕える。が、天正15年(1587年)の伴天連追放令の直前、秀吉から棄教を迫られるも節を曲げることなく信仰を貫いた。結果、秀吉の命令で改易され領地没収に。
慶長19年(1615年)右近はキリシタンの信仰を棄てなかった事を理由に禁教令によりフィリピンに追放。右近はマニラ到着の1ヶ月後に病死。
村重の謀反の際、高山家は村重側に。信長はオルガンティーノを呼び出し右近の説得を命じた。この命令を受諾しなければキリシタンを断絶させる、と迫った。1578年の事であった。
信長はオルガンティーノを派遣したにも拘らず事態が動かない事に苛立ち一部のイエスズ会士を拘束。この混乱の中で右近は20代の若さで剃髪。キリシタンが剃髪というのもおかしな話だがこれにより村重は人質となっていた右近の妹と息子を解放。
本能寺の変の3日前に信忠が愛宕神社に願を掛けている。←愛宕神社て5/28に光秀が愛宕百韻の連歌会やったところ?ニアミスしとるやん!
信忠の愛宕神社祈願を調べていたら、信忠に対する犯行声明に遭遇。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/677567569/10264506/episode/1844460
なかなかキリスト教に靡かない信長父子への苛立ちが感じられた。
そういえば、この本能寺の変の後、光秀の女婿と言うことで信長の甥の津田信澄も殺害されている。
信長四男の信孝に。
信澄もフロイスから残酷な男と評価されていた。
ちなみに信孝は好評価。
親キリストだったようだ。
午後もお孫ちゃん達が来訪する予定だったが下の孫が体調不良になり中止に。
心配した夫がお見舞いに向かった。
そして、上の孫と共に帰宅。
17時半に長男が到来。
孫を引き取り18時に帰って行った。
そのまま夕食の準備。

鶏手羽元とゆで卵のさっぱり煮、豚の生姜焼き、カニカマサラダ。
ウォッカ梅酒ロックを呑みながら美味しく頂いた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書の続きをする事に。
歩数計は8077。
充実した一日だった、