arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1110日目と畑と信長と十字架⑥

2024/9/26木曜日

4時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

5時半に畑へ。

まずは、落花生一株の収穫。

殆ど実が成って無かった。

てか、土がコンクリートのように固くてびっくりした。

どのくらい固いかって?

スコップを入れる度に石にでもぶつかったようなカーンて音がするんよ。

これじゃあ、実、成らないわ、と納得。

種蒔く前にちゃんと耕起して元肥を施肥したのに。

今日はゴーヤの支柱も撤去。

後日、耕起する事に。

7時に帰宅後、シャワー&洗濯。

ベランダでの水遣りも済ませたら、読書。

9時に孫達と散歩。

そして、買い物へ。

帰宅後、12時に昨夜以来の食事。

午後は読書三昧。

 

昨日に引き続き立花京子著「信長と十字架 『天下布武』の真実を追う」

 

夏山うつす水の見なかみ 

藤孝

↑この句は天正9年(1581年)4/12に藤孝が光秀と女婿の明智秀満、子息の十五郎光慶を丹後の天橋立に招待して催した連歌会の脇句である。

この時の連衆は光秀父子と藤孝・忠興・興元の父子の他に、津田宗及・里村紹巴・山上宗二・平野道是。

この句は本能寺の変の3日前に催された愛宕百韻での威徳院住職行祐の脇句「水上まさる庭の夏山」に似ている。

藤孝は本能寺の変の1ヶ月余り後の7/11付け(笑)で秀吉から今後の同盟を確約する藤孝父子宛の誓書を受け取っている。秀吉は信長のブレーンだった藤孝の協力が、このあとの権力闘争に於いて必要だった。この誓書を書いたのは信長の右筆だった楠長諳だった。楠長諳はキリシタンの「チュウアン」と見られている。信長の右筆が直ちに秀吉の右筆に。→秀吉も南欧勢力の支援受けたな。

津田宗及の行動

天正9年(1581年)から10年に掛けて信長の御用商人津田宗及の行動はかなり忙しく怪しげだった。

天正9年4/7 平野道是と共に山崎の妙喜庵巧叔の茶会に臨席後、亀山城明智光秀を訪問

②4/10 丹波福知山城で明智秀満の歓待を受け、光秀父子と秀満と共に細川藤孝の丹後田辺城に到着。

➂12日に細川藤孝主催の連歌会に臨席

④14日、急遽安土城へ。信長側近の松井友閑と会談。

⑤15日、堅田明智半左衛門を訪問。

⑥17日、里村紹巴を訪問。

⑦18日、里村昌叱を訪問。

⑧5/4, 羽柴秀吉と松井友閑が宗及宅へ出向き供応を受ける。

⑨6/12姫路城に秀吉を見舞い、12/27に摂津茨木で秀吉の茶会に茶堂を務めるなど急速に秀吉と接近。

天正10年6月2日に本能寺の変が勃発するや光秀と秀吉が激突する山崎合戦の前日ラ6/12には秀吉の陣(場所はどこだ?姫路城?)に駆けつけ陣中見舞い。その後、光秀が討たれて首が本能寺に掛けられたのを見物している。

また、宗及は天正11年7/2に大坂城での茶会に千利休と共に招待される。

茶会と言えば、天正六年正月から近江坂本での光秀の茶会に度々参加。

朝廷の本能寺の変への関与は確か。にも拘わらず従来論議されて来なかったのは 羽柴秀吉によってその事実が完全に抹殺されたから。

6/13の山崎の戦い後、すぐさま光秀軍の残党狩りが始まった。本能寺の変後、安土城を陣取った光秀の下へ勅使となった吉田兼見が槍玉に。14日に織田信孝の使い津田越前が来宅しその行為と光秀からの銀献上について厳しく追求された。

この時兼見はまず誠仁親王に事の次第を報告。親王から弁明書を遣わされるよう申入れ、その足ですぐに秀吉側近の施薬院全宗に秀吉への執成しを頼んだ。全宗への執成しが効き間もなく信孝から津田越前の追求は自分の知らぬこととの一書が届けられ一件落着。

本能寺の変後に光秀と一体化していた誠仁親王が追求を受けなかったのは不審。朝廷は無傷に存続。

唯一人近衛前久は1年間浜松の徳川家康の元に身を寄せた。

他の本を読んで得た知識だが、近衛前久明智軍が信忠を討とうと二条御所を攻め入った際、自らの屋敷の屋根から鉄砲を撃ち込む事を許可している。そら、狙撃場所を提供しているから関与真っ黒。織田家にしてみれば仇同然。そら逃げるわな。

朝廷が羽柴秀吉に払った代償

羽柴秀吉により朝廷の信長打倒計画への関与が不問に付された事で朝廷は大きな代償を払うことに。

坂本を目指す明智光秀を追って6/14, 秀吉と信孝が京都南方の塔の森まで来た時、伝奏の勧修寺晴豊と広橋兼勝が正親町天皇誠仁親王からの勅使として待っていた。

彼らは秀吉と信孝に太刀を手渡した。←もしかして節刀?この朝廷側の行為によって秀吉は他の信長家臣を抜きん出て信孝と同等の地位に。そして、朝敵討伐者という認定を受けた。

通常の理解として秀吉が他の家臣に抜きん出たのは6/27の清須会議で信忠の遺児三法師丸を抱えた時とされているがそれより13日前に決定されていた。

秀吉は翌天正11年5月、太刀(節刀?)を下賜され柴田勝家を朝敵に認定させ撃ち果たしている。

更に天正12年11月に従三位権大納言に任官したのを始め天正13年七月に関白、天正14年12月に太政大臣に任官。これらを可能としたのが全て朝廷からの代償効果であった。

明智光秀の誤算

秀吉の中国大返しは秀吉が事前に本能寺の変を察知していたからこそ可能であった、とみる見解が多い。毛利氏との和睦の成功も上手く出来すぎ。6/8以前に藤孝が丹羽長秀を介して秀吉と結びついた可能性が極めて高い。

吉田兼見の役割

兼見は父兼右が信長と接近していた縁により家督を譲られた元亀元年(1570年)8/4前後から信長の元へ出仕。天正3年(1575年)以後は村井貞勝宅で将棋を指すなど頻繁に出入り。公武交渉では信長側の利益を図る役目を務めていた。本能寺の変の1ヶ月前の5/3に誠仁親王の推挙により従三位に。兼見は親王の恩を受けていた。変後は兼見は信長を朝敵と認定する明智光秀への勅使に。山崎合戦後は直ちに羽柴秀吉に接近し危機を脱し、朝廷と光秀の一体化行動を不問に付された。

兼見の二股どころかカメレオン的所業に驚くが、彼が足利義輝、義昭を上洛へと導いたキリシタン人脈であるなら不思議ではない。

戦勝祝賀として安土城に赴いた時の光秀との会話を自身の日記「兼見卿記」に「今度の謀反の存分を雑談した」と記述し、光秀の行動が謀反であるとの認識を示したのも光秀の最後を予知していた言葉とすれば納得。

尚、光秀本人は勅使から朝敵信長の追討を命ぜられているから謀反と思ってない。

高山右近の不審

本能寺の変当日、安土の教会に居たオルガンティーノが右近の留守を守る高槻城の家臣に明智光秀に味方しないよう強く働きかけていた。

オルガンティーノは変直後に混乱と略奪の巷となった安土城下から琵琶湖上の沖の嶋に脱出。そこから坂本へ。一行は光秀の「小姓」の家に宿泊。その小姓は光秀方に味方するよう要請した高山右近宛の伝言を持参する事になっていた。オルガンティーノは小姓から右近を説得するよう頼まれたので2通の手紙を書いた。一通は日本語でその場を繕うことを、もう一通はポルトガル語で「この暴君(光秀)に絶対に仕えないように」と書いた。

オルガンティーノは坂本城で光秀の息子を訪問。通行証を下付して貰い小姓の同行で無事に京都の教会に到着。

光秀は中国陣に居る右近は味方するものと確信。人質も取らなかった。しかし、右近は高槻城に戻ると光秀の敵である事を宣言。

これらの事実で判明したのは坂本城で光秀の子と会うほど明智一族と親しかった。

光秀はバテレンと右近が味方である事を疑わなかった。

右近とその家臣は最初から光秀に反する事を決めていた。

バテレンが右近の家族と留守の部下が光秀と同一行動を取らぬよう計った。

フロイスによる信長の評価

「彼は狂気と盲目に陥り自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、即ち信長以外に礼拝に価する者は誰も居ない、と言うに至った。信長は戦争に順調に成果を収め、坂東地方の諸国までが支配下に入ることを申し出た程であったが、それら全てが造物主からの恩恵と賜物であると謙虚に認めないでいよいよ傲慢となり、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。その実現の為に信長は安土山に摠見寺と称する寺院を建立し、寺院の一番高い所に盆山と言う石を神体として安置し、彼の誕生日に同寺と神体を礼拝しに来るように命じた。天正10年5月の信長の誕生日には遠方の諸国から莫大な数の人々が集合して礼拝した。同寺を礼拝すれば諸々の現世利益が得られるのであった。しかるに信長はデウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領する程の途方も無く狂気じみた言行と暴挙に及んだので我らの主なるデウスは彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が19日以上継続する事を許し給う事は無かった」

これ、犯行声明やないかー。

信長はイエスズ会の援助を受けて全国制覇にここまで成功したのに独力で達成したかのように傲慢になりイエスズ会への服従を拒否するようになったのでイエスズ会として信長を殺害せしめるに至った。

当に、裏切り者は消される、やな。

今日はここまで。

 

17時半から夕食作り。

秋刀魚と大根おろし、焼き春巻、昼の残り、コーンとハムのサラダ、玄米ご飯となめこの味噌汁、茹で生落花生、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら、秋の夜長を読書をして過ごす事に。

 

歩数計は9510。

充実した一日だった。