arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1166日目とアーリア人⑰

2024/11/21木曜日

5時に起床し長女の朝食作り。

今日は畑に行けるかとベランダへ行くとザーザーの雨。

畑も洗濯も諦め。

気を取り直し、納豆作り。

圧力鍋で小粒大豆を蒸したら納豆菌を水で溶かしたものを混ぜてヨーグルトメーカーへ。

7時40分に長女を駅へ送るついでに買物。

9時半に帰宅後、読書。

 

昨日に引き続き青木健著「アーリア人

 

(2)ホータン・サカ王国史(前3〜後11世紀)

〈オアシス都市国家ホータン・サカの建国〉

チベット語「リー・ユル国史」によるとホータンは前253年にアショーカ王の王子クスタナによって建国。

前83年に仏教を受容。

より史実を反映している「漢書」によれば塞族(サカ人)は元来タクラカマン砂漠北方で遊牧生活を営んでいたものの前2世紀後半に大月氏に追われバクトリア、スィースターン、インド亜大陸を目指した。

他方、前漢武帝の時代(在位前141〜前87年)に于闐王の使節朝貢に訪れたとする記録がある。

果たしてホータン王国の住民は誰なのか。筆者はタクラカマン砂漠を追われたサカ人がバクトリア、スィースターンを経てインド亜大陸へ到達。

そこから反転北上しカラコルム山脈を越えホータンへ辿り着いた説を著述。

根拠は碑文や貨幣に残されたインド・サカ人のサカ語とホータンに定住したサカ人のサカ語との密接な関係。

ホータンで見つかる最初期の文献資料がガンダーラで話されていたガンダーリー語である事もカシミールとホータンの文化的な親和性を立証。

ホータンのサカ人はパミール高原ヒンドゥークシュ山脈カラコルム山脈を反時計回りに大迂回。

物凄い山越えをした挙句、結局は故地の崑崙山脈北麓に逆戻り。

サカ人はホータンを中心としたタリム盆地南部に定住。

〈ヴィジャ王朝の成立〉

3世紀以降のホータンではサカ人のヴィジャ王家によってサカ語で「フヴァタナ・クシーラ」と自称する王国が成立。

このホータン・サカ王国の経済は灌漑施設に頼った農業、絹織物、シルクロード交易、軟玉の産出に支えられた。

王家の使命は灌漑施設の整備と定期的な保守点検、シルクロードの保護。

毘沙門天の末裔〉ホータン・サカ王国では毘沙門天信仰が盛んでヴィジャ王家自ら毘沙門天の末裔を自称。

時たま武門としての面目を発揮。

唐の開国二十四功臣の1人尉遅敬徳(585〜685年)は洛陽出身ながら遠祖はヴィジャ王家。

また、ホータン・サカ王の尉遅勝は唐王朝の第6代玄宗皇帝(在位712〜756年)によって毘沙府都督に任じられその娘婿に。

彼は安禄山の乱に際し5000人のホータン軍を率い長安に入り唐王朝再興に尽くした。

更に長安毘沙門天信仰を広めた。

〈テュルク人イスラーム教徒の侵攻とホータンのイスラム化〉

近世ペルシア語で伝わる伝説によるとカラ・ハーン王朝の君主の兄弟か従兄弟に当たるユースフ・カドル・ハーンが1006年迄にホータン・サカ王国を制圧。

イスラームを信仰するテュルク系遊牧民が定住。

800年続いたヴィジャ王家は終焉を迎えた。

(3)仏教王国ホータンとイラン系アーリア化

〈インド系文化の影響力〉

ホータンは西域南道を西進する中国の勢力とカシミールからカラコルム山脈を越えてくるインドの文化が交わる地点にある。

更に7世紀にチベット系の吐蕃王国が強大化するとチベット文化も流入

よって、中国・インド・チベットの文化的影響が強く残る地となった。

中でもガンダーラカシミールを越えて齎されるインド仏教の影響は圧倒的。

前1世紀には上座部仏教が、後4世紀初頭には大乗仏教が到達し共に繁栄。

これらの影響は言語や文字でもわかる。

前2世紀から後4世紀まで崑崙山脈北麓一帯で書記言語として用いられたのはサカ人の言語ではなくガンダーラから齎されたインド系のガンダーリー語。

最古の仏典と言われる「法句経」もガンダーリー語の写本がホータンで発見されている。

サカ語の文献は5〜10世紀に集中的に著されている。

その多くはサンスクリット語やガンダーリー語から訳された仏典。

大唐西域記」によると7世紀のホータンでは各家の前にストゥーパが立ち並びストゥーパと寺院の数は1000, 僧侶の数は万を数えた。

ホータン・サカ王国は求道の中国人仏教僧にとってのメッカに。

第四章イスラーム時代以降のイラン系アーリア人

パシュトゥーン人ー生き残ったイラン系アーリア人遊牧民

(1)消え去った民族と生き残った民族

〈異民族支配下での存亡〉

西アジア中央アジアの歴史は7世紀のアラブ人イスラーム教徒による西アジア中央アジア征服と10世紀のテュルク系遊牧民中央アジア西アジア進出によって、宗教的・文化的にゾロアスター教に代わりイスラームが規範に。

政治的にアラブ人、次いでテュルク系遊牧民が覇権を握った。

イスラーム時代以降にテュルク系遊牧民が力を増した原因はサーサーン王朝以降に西アジアの農業生産力が衰退。

定住民が武装する余力を失い低額で雇えるテュルク系遊牧民に軍事力を委ねた為とも言われる。

押され気味のイラン系アーリア人イスラームに改宗し生き残った。

言語的に、という意味で形質的には混血が進みその特徴であった金髪でも碧眼でも無くなっている。

〈テュルク系遊牧民に同化されない遊牧民たち〉

イラン系アーリア人遊牧民は6世紀のエフタルを最後に姿を消したと先述した。

が、10世紀のイラン高原東部に「パシュトゥーン人」というイラン系アーリア人遊牧民が復活。

インド亜大陸西部に跨り居住。

〈テュルク系遊牧民に仕えるイスラーム教徒文人官僚たち〉

イラン系アーリア人定住民は彼らのイスラーム的教養を武器にテュルク系遊牧民に仕える文人官僚として生き残った。

エーラーン・シャフルが民族主義的理由からビザンティン帝国のヘレニズム文化や仏教文化を拒んでいたがイスラーム政権下で解放され、それがアラビア語という国際共通語で花開いた。

(2)パシュトゥーン人の歴史

アフガニスタン王国建国まで(10〜18世紀)〉テュルク系遊牧民によるデリー・スルターン諸王朝が倒れた最後に出現したロディー王朝(1451〜1526年)がパシュトゥーン人による自前の王朝。

テュルク系遊牧民に比べ部族間の平等主義が強い為、王朝支配が安定せず、土着のヒンドゥー教徒も懐かず、カブールから新手のモンゴル系ムガル王朝が侵攻してくると簡単に瓦解した。

アフガニスタン王国建国以降(18世紀〜現代)〉

パシュトゥーン人が初めて本拠地に建国したのがアフガニスタン王国(1747〜1973年)首都はカンダハール

イラン高原東部に新たに勃興したアフガニスタン王国は成立しただけでも奇跡。

地上から消滅した筈のイラン系アーリア人遊牧民による王朝が復活。

この奇跡の王国は

↓ここから先の【】の部分を電磁波攻撃で眠らされ指を動かされ消させられる。

 

【1973年にソ連が侵攻。

1989年までアフガン戦争が継続。

ソ連軍が撤退すると全土が無政府状態に。その中からイスラーム原理主義組織のターリバーンが出現。

2001年、嘘っぱちの同時多発テロで世界を騙し米軍が駐留開始。

(3)パシュトゥーン人の文化

イラン系アーリア人遊牧民の伝統とイスラームの結合〉

①パシュトゥーン語 イラン高原西部の言語よりもイラン高原東部や中央アジアの言語の方が古形を保ち格変化もジェンダーの区別もある。

現代から距離が遠い分だけ難解。

パシュトゥーン語はバクトリア語に近く近世ペルシア語より複雑な構造。

現代語の中でこれに近いのはアラン人の系譜を引くオセット人がコーカサス山脈の中で話すオセット語か、ホータン・サカ人の系譜を引く人々がワハーン回廊で話すワーヒー語がある。

②パシュトゥーンワリ パシュトゥーン人イスラームに改宗後も部族内で共通する「パシュトゥーンワリ」つまり、「パシュトゥーン人の掟」を強固に守って生活。

スペイン1980年の報告によると彼らが尊重する文化コードは①部族単位での復讐の掟、②窮地に陥った者への客人接待の掟(←映画になったやつ?)、③3つのZ(ザン=女性、ザル=金、ザミーン=土地)の保護の掟に集約。

現代の国際社会の秘境となってしまったイラン高原東部でイラン系アーリア人遊牧民の文化が最も良く保存されている。】

 

どうしてもブログにアップして欲しく無かったと思われる。

パシュトゥーン人に戻る。

 

2イスラーム教徒ペルシア人ー生き残ったイラン系アーリア人定住民

(1)イスラーム教徒ペルシア人の歴史と文化

〈近世ペルシア語文化圏の成立〉

バクトリア語やソグド語、ホラズム語などがペルシア語に取って代わり独自の言語を消失するのはペルシア帝国時代でもエーラーン・シャフル時代でも無くイスラーム時代初期。

イラン高原東部〜中央アジアの政治的発展〉

750年のアッバース革命を主導したのはメルヴで挙兵したアブー・ムスリム将軍。

アッバース王朝イスラーム帝国の宰相の座は803年まではバルフの仏教僧院の院長出身のバルマク家が独占。

813〜818年のアッバース王朝の内乱の際は一時的にメルヴがアッバース王朝イスラームの首都に。

9世紀以降はイラン系アーリア人の地方王朝も勃興。

820〜872年にはニーシャープールを首都にターヒル王朝が。

867〜903年にはスィースターンにサッファール王朝が。

874〜999年にはブハーラーを首都にサーマーン王朝が成立。

これらは旧バクトリアや旧ソグディアナに限定されている。

イラン高原東北部〜中央アジアの文化的発展〉

イスラーム時代になってバクトリア人やソグド人の後裔達は文化面で異常な活力を示した。

ブハーラー出身のスンナ派六大ハディース学者の1人ムハンマド・ブハーリー(870年没)、同じくニーシャープール出身のムスリム・ニーシャープーリー(875年没)、バルフ出身の占星術師アブー・マァシャル・バルヒー(886年没)ホラズム出身の数学者・天文学者アブー・アブドゥッラー・ハーラズミー(9世紀)、トゥース出身の詩人フェルドゥスィ(1020年又は1025年没)、ブハーラー近郊出身の哲学者イブン・スィーナー(1037年没)、ホラズム出身の博物学者アブー・ライハーン・ビールーニー(1050年頃没)、トゥース出身の神学者アブー・ハーミド・ガザーリー(1111没)、バルフ出身の神秘主義者ジャラールッディーン・ルーミー・バルヒー(1273年没)など。

アラビア語化された名前を名乗るも出身地から判断するとバクトリア人やソグド人、ホラズム人。

イスラーム到来前からそれなりの文化を持っていたが花開いたのは初期イスラーム時代。

〈テュルク系遊牧民に仕える文官として〉テュルク系遊牧民が本格的にイラン高原中央アジアを支配するとイスラーム教徒ペルシア人は彼らにイスラーム法学の知識を持って仕える文人官僚として仕えた。

その代表がトゥース出身でセルジューク王朝宰相を務めたニザーム・ル・ムルク(1017〜10923年)イラン高原各地にニザーミヤ学院を創設。

スンナ派イスラーム諸学を基盤に神学者や官僚の育成とイスラーム教徒ペルシア人官僚を組織的に養成するシステムの先鞭を付けた。

前6世紀には新興のペルシア人が文書行政をアラム人やエラム人に代行させたが1500年の時を経て今度はペルシア人自身がテュルク人の文書行政を代行する立場に至った。

〈モンゴル系遊牧民による「イーラーン・ザミーン」の復活〉

14世紀にテュルク系に代わりモンゴル系遊牧民イラン高原を支配。

イル・ハーン王朝は支配領域を近世ペルシア語で「イーラーン・ザミーン(アーリア人の土地)」と称した。

今日はここまで。

 

昼食を挟んで16時まで読書と調べ物。

特にホータンの部分はインドからシベリアに抜けて行ったクナ国クナト王御一行の人々の痕跡が無いか注意して読んだ。

ホータンがインド文化の影響を強く受けている、というのは興味深かった。

パシュトゥーン人に関する記述も興味深かった。

以前読んだ失われた10部族の本でも出てきた。

その本ではパシュトゥーン人はそのうちの一つの部族、と紹介されていたが、使用している言語はイラン系アーリア語の系統なのだそう。

あと、パシュトゥーン人に関しては米軍特殊部隊でただ1人生き残った話でパシュトゥーンワーリーが出てきたので少し知っていた。

兎に角、アフガニスタンの鉱山資源を狙うアメリカDSには長年酷い目に遭わされている、と思う。

今日もハッキングによる編集妨害がしつこかった。

犯人は粘着質。

それ以外は幸せな一時を過ごした。

 

16時半から夕食作り。

ブリあらのトマト煮込み、真鱈子と人参と白滝の炒め煮、蓮根と鶏と牛蒡の甘酢炒め、サラダ、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。

 

19時にご飯を食べる事に。

 

歩数計は5094。

充実した一日だった。