2024/11/25月曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。
6時半に畑へ。
まずはマルチを貼る作業。
その過程ですぐ横の一番歩道側のキャベツにアオムシが5匹も居て驚いた。
気温一桁やで。
今朝はいつもは脱いで作業するジャンパーも寒くて脱げなかった。

人参やコカブ、レタスの種を蒔いたら水遣り。
今日は米の研ぎ汁を薄めたもの。
発芽を促す為に上に不織布を掛けた。
8時15分に畑をあとに。
帰宅後、シャワーと洗濯。
その間に腐葉土作り。
ゴミ袋を使用しての腐葉土の作り方の動画を発見。
それによると、材料は2枚重ねの黒いゴミ袋と昨日集めた落ち葉と米の研ぎ汁。
2枚のゴミ袋の底側の角2箇所に穴を開けたら、落ち葉、米ぬか、水、落ち葉、米ぬか、水、と繰り返し、30リットルのゴミ袋を満杯にし結んだら1年間放置。
米ぬかの代わりに米の研ぎ汁でも良い、とあったので自分はそれにした。
たまにチェックして乾いていたら水を足せば良いそうだ。
合計4袋出来た。
10時半に買物へ。
11時過ぎに帰宅後、米麹作りを開始。
お米を蒸している間に買ってきた食材を収納。
そして、発酵機をセット。
お米は良い感じに蒸し上がった。

種麹をまぶし、晒し布に包んで発酵機に入れたら明日の朝まで放置。
12時半から昨夜以来の食事。
午後は、読書。
昨日に引き続き、海野弘著「秘密結社の世界史」
カタリは清浄を意味する。
東方の二元論宗教マニ教はキリスト教と融合しバルカン半島にボゴミル派と言われる異端を生んだ。
その刺激により北イタリアにカタリ派が現れた。
それはミラノ、オルヴィエト、リミニで勢力を得た。
やがてフランス南部でカタリ派が急激に広がった。
カタリ派が強力な運動となったのは厳格な教会組織を持っていたから。
禁欲的な生活を送る小さな階級の「完全者」(選ばれた者)と世俗的な生活が認められた大きな階級の「信者」(一般大衆)に分けた。
両者の境界に厳しい入社式を設け、内的で秘密の組織が作られた。
カタリ派はフランスのラングドック地方で特に強力。
ラングドックはトゥルーズ伯の領地でこの地のカタリ派はアルビジョア(アルビ派)と呼ばれた。
この地方は吟遊詩人の故郷として知られる。
明るくロマンティックな吟遊詩人と禁欲なカタリ派が同時代に同地域で活動していたのは謎。
カタリ派の進出に不安を抱いたカトリック教会はインノケンティウス3世が1198年に法王になると法王使節ピエール・ド・カステルノーにカタリ派の追放を命令。
しかし、トゥルーズ伯レモン6世は応じず、カステルノーは暗殺された。
インノケンティウス3世はアルビジョア十字軍を組織し1209年、モンペリエを出発。
ベジエでカタリ派の500名を含む一万人の住民を虐殺した。
インノケンティウス3世が亡くなると亡命していたレモン6世の息子レモン7世がトゥルーズに戻った。
今度はシモン・ド・モンフォールがトゥルーズを包囲するが彼は城中からの投石に当たり死亡。
ラングドックはトゥルーズ伯の支配に戻った。
今度はフランス王ルイ8世がラングドックに関心を持ち1226年、十字軍を組織。
アヴィニョンを包囲。
ルイ8世は途中で死ぬがトゥルーズは開城。
トゥルーズで教会会議が開かれカタリ派への残虐な裁判、「異端審問」の制度がここで確立。
カタリ派は聖なる山モンセギュールに籠もった。
1244年、この山は陥落。
そこに籠っていたカタリ派は火刑に処せられた。
モンセギュールが陥落する直前ある「宝」が運び出された、という伝説が始まった。宝とは金塊であるとも、ヨハネ福音書であるとも、聖杯てあるとも言われている。
モンセギュールは聖杯城であり聖堂騎士団によって守られていた。
更に、カタリ派をテンプル騎士団に結び付け、カタリ派ーテンプル騎士団ーフリーメーソンという系譜を主張する説もある。
異端審問は魔女裁判へ。
異端と魔術が混同されるように。
敗北したカタリ派の二元論的教義は新しい悪魔崇拝的魔術のモデルのなかに吸収されていった。(ユーリー・ストヤノフ「ヨーロッパ異端の源流ーカタリ派とボゴミール派」)
今日はここまで。
カタリ派とボゴミル派に関してはもう少し知識を得た方がいいと思い本を借りて読む事に。
17時半から夕食作り。

秋刀魚と大根おろし、焼き芋、サラダ、小松菜とモヤシの醪胡麻和え、お弁当のおかずの残り、残り物のモツ煮込みとガンボスープ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
歩数計は10923。
充実した一日だった。