arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1165日目とアーリア人⑯

2024/11/20水曜日

4時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。

外は雨。

畑と洗濯はお休みに。

8時に孫達が到来。

嫁が用事があるので預かる事に。

嫁は10時半には帰って来た。

そのまま皆でお昼ご飯を食べて13時に帰って行った。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き青木健著「アーリア人

 

今日はホラズム人とホータンに定住したサカ人について。

 

〈「ホラズム第二王朝」の独立とトプラク・カラ遺跡〉

ホラズムでは2世紀に再び独立。

その証拠がトプラク・カラ遺跡。

旧ソ連の考古学者は、この遺跡はホラズムのクシャーナ王朝支配からの離脱を示すと考える。

ここは王宮と拝火神殿を含む都城跡。

数百点に及ぶアラム文字表記の古代ホラズム語文書の出土地として名高い。

発見されたタブレットには4人のホラズム貴族に雇われた戦士の名前が確認出来る。これらの戦士の大部分は奴隷。

3世紀末のホラズムでは偶像崇拝を禁止したサーサーン王朝の影響で諸神格をオフルマスド(アフラ・マスダのパフラヴィー語形)に統一し彫像型の骨壺を単なる骨壺に変えた。

〈アラブ人イスラーム教徒の侵攻とホラズムのイスラーム化〉

712年、当時の領主、ハーラズム・シャーがアラブ人イスラーム教徒軍のクタイバ将軍に援軍を要請した事によアラブ人イスラーム教徒軍がホラズムに到来。

ハーラズム・シャーは暗殺され、進駐したアラブ人イスラーム教徒軍とホラズム人の間で激しい戦闘が展開。

ビールーニーによれば、ホラズム語で書かれた貴重な文献はこの戦乱で失われホラズムの歴史や文化を伝える長老たちも皆殺しにされた。

ハーラズム・シャーがクタイバに協力したおかげでアフリーグ王朝はウマイヤ王朝ー後にアッバース王朝ーカリフ政権の傀儡として995年まで存続した。

〈テュルク化の進行とイラン系アーリア人ホラズム文化の消滅〉

アフリーグ王朝が臣下のマァムーン王朝に簒奪され、その直後にテュルク系のガズナ王朝に併合されてからホラズムの支配層のテュルク化が始まる。

これ以降、ホラズムでイラン系アーリア人の王朝が復活する事は二度と無い。

ホラズムの言語はホラズム語からテュルク語に変わり文化の基層はホラズム的ゾロアスター教からイスラームに変化。

13世紀には、前6世紀から1800年間続いたイラン系アーリア人のホラズム文化が消滅。

入れ替わりにテュルク系のホラズム文化が成立。

 

6ホータン・サカ人ー定住して仏教徒となったサカ人の末裔(前2〜後1世紀)

(1)サカ人とタリム盆地

崑崙山脈の北麓〉

ウクライナの草原地帯から白銀のコーカサスへ、モンゴル高原からインド亜大陸へと縦横にユーラシア大陸を踏破した感があるサカ人であるが彼らの一派は遥かに東流。タリム盆地崑崙山脈北麓にまで姿を現している。

タリム盆地とは中華人民共和国新疆ウイグル自治区に当たり、北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれ中央にタクラカマン砂漠が広がる。

面積は日本の4倍以上あるものの人間が住めそうなのは雪解け水が地表に湧出する崑崙山脈北麓と天山山脈南麓の限られた部分のみ。

崑崙山脈北麓では西から順にヤルカンド、ホータン、ニヤ、ミーランと続き、天山山脈南麓では西から順にアクス、クチャ、カラ・シャフル、トゥルファンと連なるオアシス国家群である。

勇猛果敢なサカ人はこの地の果てのようなタリム盆地南部にまで出現してこの地に最初の文明を拓いた。

ただ、タリム盆地南部は砂漠とオアシスの地形。

遊牧可能な大規模ステップが見当たらない。

サカ人は馬から下りてオアシスに定住せざるを得ない状況に。

このように定住したサカ人は、イラン系アーリア語文献としてはパフラヴィー語に次ぎソグド語を凌ぐ規模の資料を遺した。

現在の研究者がサカ語やサカ文化を研究できるのはこの定住したサカ人が膨大なサカ語文献を遺してくれたおかげ。

〈ホータン・サカ研究の資料〉

サカ人が住み着いた崑崙山脈北麓のオアシス諸都市の中で最大の繁栄を享受したのがホータン(漢文資料では「于闐(うてん)」と表記するが現代中国語では「和田(へーティアン)」と別記)

繁栄の理由はカラコルム山脈から流れる白玉河・黒玉河の水系を利用したオアシス農業、中国から導入した養蚕技術、白玉河・黒玉河流域で産出する翡翠、両河を遡上するルートで結ばれたカシミール交易等、恵まれた条件にあった。

崑崙山脈北麓に定住したサカ人関係の資料もホータンから集中的に発見。

彼らの言語を「ホータン・サカ語」と呼ぶ。

活用出来る資料は以下の4系統。

①前2世紀に漢の勢力が西域に伸びて以来ホータンは中国王朝の支配下に入る事が多く「漢書」「魏書」「唐書」に散発的に姿を現す。

また、5世紀の「法顕伝」6世紀の「宋雲行記」7世紀の「大唐西域記」など中国仏教僧の求法記でも言及されている

②ホータン・サカ語の文献はホータン近郊の遺跡と敦煌の2箇所で発見。

セム系の子音文字では無くインド系のブラーフミー文字で表記。

時代的には7〜10世紀で大部分は仏教文献

チベット語の「リー・ユル国史」(リー・ユルとはホータンのチベット語名)1183年に或るホータン・サカ人がチベットを訪れ、ホータン・サカ語の「ホータン国史」をチベット語に翻訳。

原文は失われチベット語訳のみ残存

④10〜11世紀にテュルク系イスラーム教徒によって滅ぼされる状況はカラ・ハーン王朝の初代王の伝説を纏めた「サトク・ボグラ・ハーン伝」など近世ペルシア語資料によって確かめられる

今日はここまで。

図らずも、以前読んだ日本人の起源についての本でも紹介されたホータン(コタン)が出てきた。

イラン系アーリア人遊牧民のサカ人が定住していたとは。

しかし、この本でも紹介されたが中国の文献に「于闐王から使節が来た」ともあり、この王国がサカ人建国の国なのか、それとも先住民によるものなのかわからない、とも書いてあった。

更に、著者はサカ人が大月氏に追われインド亜大陸へ南下しているから、そこから大迂回して再び中央アジアに戻って来た説も述べていた。

そこで、自分は、以前出雲王家の本を読んだ際に、出雲王家の祖先は四千年前にインドのクナ国からシベリアを通って到来した、と言う話を思い出した。

クナ国のクナト王はアーリア人が進出し現地のドラヴィダ人達を次々と奴隷にしていたのを苦慮。

交易に来ていたブリヤート人から東の果ての国の事を聞き移住を決意。

4千人を率い蛮族を警戒しシベリアから大迂回。

アムール河を下り北の方から日本へ向かった。

その途中、疲れ果ててホータンに住み着いた人々が居てもおかしくないわな。

サカ人がホータンに住み着いたのは約2200年前。

クナト王御一行がインドを出発したのは4000年前。

インド系アーリア人インド亜大陸に進出したのは3500年前。

ちなみに、クナト王御一行は最初、青森に住んだ説もあった。

確か三内丸山遺跡は4000年前の縄文遺跡じゃ無かったか。

けれど、砂鉄が多く産出する斐伊川を見つけ出雲に移動した、とも。

あくまで、推論。

点と点を結ぶ為にこれからも調べる事に。

 

17時半から夕食作り。

けんちん汁、サラダ、昼の残りの生姜焼き、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。

米麹はいつもは朝9時に出麹するが、ご覧の通り、麹菌の繁殖がイマイチだったので6時間も延長。

米一粒一粒を見ると、ちゃんと増殖しているので良しとする事に。

後片付けを済ませたら読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は5323。

充実した一日だった。