arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1164日目と大根九耕とアーリア人⑮

2024/11/19火曜日

5時に起床。

まずは米麹の品温をチェック。

32度をヒット。

まずまず順調。

麹蓋2つに分けてから発酵機に入れた。

 

続いて、長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。

洗濯とベランダでの水遣りの合間に麻炭クッキー作り。

今回、バターを使用したら余りボロボロせずに作れた。

 

8時半に畑へ。

一応アオムシチェック。

手が悴む程の寒さ。

流石に居なかった。

この寒さの中、小松菜は元気だった。

心配なビーツはまずは草取り。

そして、株が枯れ死した3箇所に、新たに芽を出した株を移植。

ウクライナのような寒い所で育つビーツだからまだまだ期待したいところ。

大根九耕を済ませたら10時に買物へ。

11時過ぎに帰宅後、漸く読書。

 

昨日に引き続き青木健著「アーリア人

主役はソグド人からホラズム人へ。

 

5 ホラズム人ー民族発祥の地に最後までとどまった一派(前6〜後10世紀)

(1)ホラズムと研究資料

〈アム・ダリヤー河下流の豊穣の地〉

「ホラズム」とはアム・ダリヤー河の下流域一帯のアラル海に面した肥沃な低地を指す地名で現在のウズベキスタン共和国のホラズム州とトルクメニスタンのタシャウズ州に相当する。

ホラズムの歴史はアム・ダリヤー河の河流の変動に大きく左右されてきた。

水、大事だからね。

考古学遺跡から古代イラン系アーリア人の移動以前の前4000〜前3000年紀に狩猟生活を営んでいた先住民が居たがどのような民族だったかは不明。前2000年紀に古代イラン系アーリア人がアム・ダリヤー河下流に定住。

〈ホラズム研究の資料〉①旧ソ連の考古学者が1930年代から発掘した考古学遺跡、及びそこから出土する古銭、銀製品、オスアリ(納骨壺)代表的な遺跡は次の4つ。

㈠キュゼリ・ギル遺跡 前6〜前5世紀に比定される都市遺跡

㈡カラリ・ギル遺跡 前4世紀初頭に建設途中で放棄された城塞遺跡

㈢コイ・クリルガン・カラ遺跡 前4〜後3世紀に比定される円形神殿遺跡

㈣トプラク・カラ遺跡 3〜6世紀に比定される都城遺跡

②上述の遺跡から発掘された資料に記された古代ホラズム語、及び中世ホラズム語資料。

㈠古代ホラズム資料 1〜7世紀に属する貨幣、銀製食器、オスアリにアラム文字によって記された断片的な記録、トプラク・カラ遺跡出土の8世紀のホラズム語文書

㈡中世ホラズム語資料 13世紀のイスラーム法律文書におけるホラズム語引用。アラビア語文法学者ザマフシャリー(1144年没)著の写本(推定1200頃成立)の欄外に記されたホラズム語対訳。

いずれもアラビア文字での表記

ギリシア語資料 『アヴェスター』、古代ペルシア語碑文などの外在的な記録。

アラビア語文献 イスラーム時代のホラズム出身の大学者アブーライハーン・ビールーニー(1048年没)の2つのホラズム史書に代表される

㈠『古代年代記』1000年頃に執筆された古代諸民族の歴史と暦法に関する大部の著書。第11章と第12章がホラズムの紹介に当てられている。

㈡『マスゥーディーのカノン』 天文学や地理学に関する専門書。近年まで翻訳されなかったが実はホラズム史に関する重要な情報源と判明。

この他、ビールーニーによると7世紀の時点でホラズム語によるゾロアスター教文献が存在。

しかし、712年のアラブ人イスラーム教徒軍のホラズム侵攻の際に丸焼け。

〈クル大王によるホラズム征服とキュゼリ・ギル遺跡〉

ペルシア帝国の建国者クル大王はバビロニアを平定する紀元前539年以前に中央アジア遠征。

ホラズムを含む中央アジアを平定したクル大王は次男のバルディヤを東方諸州の総督に任命。

ちなみに長男のカンブジヤはバビロニア総督。

この頃ホラズムに約400の住居遺構があり代表的なのは外周3キロの城塞を誇るキュゼリ・ギルの要塞遺跡。

王宮南部に大量の白灰と共に拝火壇跡が見つかっている。

ということはメディアやペルシアで拝火神殿が形成されるずっと前にホラズムで拝火神殿が成立。

また、キュゼリ・ギル遺跡には土葬の痕跡が無い。

ホラズム全土で土葬跡は確認されていない。

恐らく曝葬。

ホラズムのメディア・ペルシア化が

起こっていたか。

〈ハカーマニシュ王朝ペルシア帝国とホラズム州〉

その後のホラズムはキュゼリ・ギルを州都としてハカーマニシュ王朝ペルシア帝国の州の一つに。

古代ペルシア語碑文などの断片的な情報によれば、前517年にダーラヤワウ1世の対「尖帽のサカ人」遠征基地になりスーシャーの宮殿建設の際は装飾用のトルコ石を供給。

クシャヤールシャン1世(在位前486〜前465)のギリシア遠征の際は兵士を供出。ペルセポリス宮殿造営でも駆り出されホラズム人の姿もレリーフにしっかり彫り込まれている。

ハカーマニシュ王朝からは搾取されてばかりだったのかもしれない。

ただ、文化的なメリットはあった。

ハカーマニシュ王朝が公用語に採用したアラム語とアラム文字の影響で前4世紀初頭にホラズム語をアラム文字で表記する習慣が始まった。

〈ハカーマニシュ王朝支配からの離脱とカラリ・ギル遺跡〉

アルタクシャ2世(在位前404〜前359年)の古代ペルシア語碑文における言及を最後にホラズムはハカーマニシュ王朝関係の記録から姿を消す。

ホラズムは前4世紀初頭に独立したと推測される。独立後もハカーマニシュ王朝とは同盟したらしく軍事的な紛争の記録は無い。

(3)アレクサンダー大王の到来と「ホラズム第一王朝」(前4〜前2世紀)

アレクサンダー大王の到来〉

前330にアレクサンダー大王がハカーマニシュ王朝を撃破。

その勢いで中央アジアへ進軍。

バクトリア総督ベッソスがアレクサンダー大王に捕まり処刑された後も、ホラズム王フラタフェルネスはマッサゲタイ族と同盟し抵抗。

ギリシア軍を苦しめた。

他方、彼の息子ファラスマネスは大王に対し恭順の意を表し、黒海沿岸までの案内役を申し出た。ソグド人に手を焼いたアレクサンダー大王はファラスマネスと同盟を結びそれ以上ホラズムに侵攻せずバビロンへ撤収した。

〈コイ・クリルガン・カラ遺跡とオスアリの出現〉

「ホラズム第一王朝」の時代に直径100mの円形をしたコイ・クリルガ

ン・カラ神殿が建てられた。

①特徴の一つはオスアリ(納骨壺)の出現。

メディア人・ペルシア人は曝葬が一般的。属州時代のホラズムもこの方式だったが独立した前4世紀以降オスアリ葬に変化。

遺骨は陶器のオスアリに納め地下に埋葬。ホラズム人はこれ以降イスラーム時代までの1300年間このオスアリ葬を固守。

メディア・ペルシア風の宗教概念の退潮に伴いホラズム独特の宗教観念が台頭。

ホラズムのオスアリ葬はその形式に従って前期と後期に区別。

㈠前期 前4〜後2世紀 納骨壺の蓋部分の上に人物像が造形、外見的に納骨壺の上に人物像が座っている観を呈す。

㈡後期 上部の人物像が消滅し下部の壺だけのシンプルな形に。

天文学への異常な関心。コイ・クリルガン・カラ神殿は天文台としての機能も有する。

日月星辰を観測した痕跡が残される。

イラン系アーリア人に特有の太陽崇拝やシリウス崇拝の便を図る宗教目的の他に暦法を決めるという実用目的も。

前1世紀に独自のホラズム暦を導入。

(4)遊牧民支配から「ホラズム第二王朝」の独立まで(前2〜後4世紀)

〈サカ人・康居・クシャーナ王朝による遊牧民支配〉

ホラズムはイラン高原中央アジアの定住民の中でもとりわけ北方に位置。

遊牧民世界の大洋に浮かぶ孤島の観を呈した。

コイ・クリルガン・カラを含む広範囲のホラズムの遺跡が前2世紀に集中的に破壊されたのはサカ人の大侵攻を受けたと推測される。

サカ人がそのまま南方に移動したあと、今度は康居(イラン系又はテュルク系の遊牧民)がシル・ダリヤー河流域に都を置いた遊牧国家を形成。

ホラズムはこの支配下に。

遊牧民支配時代の文化〉

前1世紀にはホラズムで最初のギリシア文字銘文入りのコインが発行された。

1世紀半ばには銘文がギリシア文字からアラム文字に変化するがコインは切れ目なく発行。

前40年〜前30年頃はゾロアスター教暦から派生したホラズム暦が採用。

アラブ人イスラーム教徒の侵攻でヒジュラ暦が普及するまで800年間ホラズムで実用された。

最後の使用例は西暦753年に該当するトク・カラ遺跡出土のオスアリの日付である。

今日はここまで。

「オスアリ」とは納骨壺の事。

日本も骨壺を使用するから親近感湧くなあ。

オスアリで検索してみたけど画像は出てこなかった。

残念。

 

12時過ぎに昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

16時に夫が孫を連れて帰宅。

いつの間にか公園で一緒に遊んでいたらしい。

17時半に孫が帰ったあと、夕食作り。

鶏胸肉でチキンナゲット、大根と竹輪麩の塩麹煮物、キャベツとモヤシのピーナッツ醪和え、ハムサラダ、玄米ご飯、あさりと大根菜と油揚げの味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

最新情報をチェックしてから寝ることに。

 

歩数計は9477。

充実した一日だった。