arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1092日目と畑と天正十年六月政変

2024/9/8日曜日

5時に起床。

5時半に畑へ。

畝を作り秋冬野菜の種蒔き。

土を耕しめっちゃ汗をかいた。

水遣りをしたら帰路に。

 

7時に帰宅後シャワー&洗濯。

ベランダの水遣りも済ませたら8時半から読書。

 

昨日に引き続き小林正信著「明智光秀の乱 天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊」

まず、知っておかないといけないのは、信長は桶狭間の戦いで数千の軍勢で二万超えの今川義元軍を破ったけれど、だからって、尾張から京都へ上洛して、今日から織田政権です!て言うても、京都の人々にしてみれば「誰?お前?」てなるわけよ。

なので、取り敢えず、足利幕府は存続しているからその流れで政権を運営するしかない状況。

更に、信長の時代にあっても室町幕府幕臣とは「御供衆」「奉公衆」「奉行衆」「同朋衆」「足軽衆」「御末男」「御小者」のように幕府に拠って身分的に裏付けられた職制と格式の範疇に必ず含まれなければならなかった。

ちなみに、明智光秀は「奉公衆」に属していた。だからこそ織田政権に於いても「奉公衆・奉行衆」を統括する存在として重きを成した。

織田政権における光秀の存在は事務方全体を取りまとめる官房副長官として幕府の官僚機構全体を取りまとめ信長の畿内統治を円滑に担う事にありました。また、信長の要請、或いは命令に応じて畿内の軍事力として室町幕府幕臣達を動員する事が織田政権内における光秀の高い地位を規定していた。

更に、明智光秀という人物は「奉公衆」「奉行衆」など将軍直臣としての信条、武家社会における名門としてのエリート意識、歴史的に形成された伝統・習慣に基づく室町幕府の文化を代表していた存在でもあった。

室町幕府も「応仁の乱」以降は将軍を補佐する管領や侍所の頭人の力が弱まり16世紀に入ると「御供衆」を中心に幕府政治は運営された。

御供衆には三好長慶、嫡子義興、松永久秀和田惟政等が着任。

「奉公衆」は世襲。将軍の直臣として強い身分意識や連帯意識を持っていた。更に、東山文化の担い手。古今集の秘伝を継承する「古今伝授」の祖である東常縁、その伝承者として細川藤孝がいる。

本能寺の変直前に催された「愛宕百韻」には常縁子孫の東六郎が参加。

奉公衆研究の第一人者福田豊東京工業大学名誉教授は「奉公衆は政治的にも経済的にも守護大名を牽制して将軍権力を支える直接の基盤たった」としている。

桶狭間の戦い後将軍足利義輝から上洛を命じられた信長だったが義輝は三好氏と松永久秀に暗殺される。義輝の遺臣達は信長の軍事力を頼り義輝の弟覚慶(足利義昭)を奉じて上洛。が、畿内には地縁も行政経験も無い事から天下人として統治を進める為に義輝の遺臣達の支援を必要とした。

光秀が将軍足利義昭から与えられていた知行地(東寺の所有地)が違乱(権利侵害)があったと幕府に抗議した文書が存在。→光秀は義昭の直臣。

美濃の「奉公衆・奉行衆」の斎藤利三石谷頼辰、蜷川親俊等は土佐の長宗我部氏と多重に婚姻。←義輝の思惑で阿波の三好氏を背後から牽制か。

義輝の代に光秀と同等の地位に就いていた「申次衆」が居た。進士美作守晴舎(はるいえ)という人物。

光秀がこの地位を継承していたとするならば進士氏との関連が考えられる。尚、明智氏は四番衆。御部屋衆や申次衆等幕府中枢に位置した事は無い。

明智光秀となりうる人物が明智光秀と名乗っていた事が判明するのは永禄11年(1568年)11/14付けの「山城上賀茂惣中宛村井貞勝明智光秀連署状写」

更に、11/15に信長祐筆(秘書・文書を代筆)である明院良政の連歌会に出席。

この連歌会出席者は連歌師里村紹巴、近衛家出身の天台宗高僧聖護院道澄、細川藤孝等。

光秀の戒名は「輝雲道琇禅定門」

足利義輝辞世の句「五月雨は露か涙かほととぎす 我が名をあげよ雲の上まで」

義輝の初名は義藤。「藤」の一字を偏諱として授かった人々 細川藤孝、細川藤賢、一色藤長、三淵藤英など。

勧修寺晴石の日記によると、永禄8年(1565年)3/29, 進士源十郎藤延が大原に出向いた義輝の窓口になって対応。 

わいが、何を言いたいかと言うと、明智光秀は決してぽっと出の出自不明の男やない、ということ。

室町幕府幕臣は代々世襲の出自のはっきりした者が幕臣・幕吏になる、と言うこと。

光秀は幕臣だった事がハッキリしている。

しかも、書状によると足利幕府にとっても将軍にとっても信長にとっても重要なポジション。

ぶっちゃけ、信長が足利義昭を追放したあとは「信長・光秀政権」と言っても過言ではない程に田舎出の信長にとって京都を、東山文化を、幕政を知り尽くした光秀は代わりが効かないほどの重要人物だった。

秀吉とライバルだった、とする説もあるが、むしろ、家康と競合する立場だったらしい。

光秀が進士藤延だとすると、光秀は決して私利私欲で動く人物では無かった。

足利幕府と足利義昭織田信長の間に立って非常に苦しい立場だった。

尾張に本拠地を置く信長にとって、京都を始めとする畿内で朝廷や幕府と折衝出来る家臣である光秀は貴重で頼りになる存在だったと思われる。

まだ172ページしか読んでいない。

このあと楽しみにして読むことに。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書。

15時に長男一家が来訪。

夕食を食べ、19時に帰って行った。

自分は長男一家が帰ってから食事。

さつまいもとごぼうと鶏肉のミネストローネ、チーズinハンバーグ、生ハムサラダ、玄米ご飯、でお腹を満たした。

食後はウォッカ梅酒ロックを呑みながらブログ編集。

投稿し終えたら、読書の続きを楽しむ事に。

 

歩数計は8597。

充実した一日だった。