2024/9/2月曜日
5時に起床し洗濯。
ベランダの水遣りも済ませたら7時に畑へ。
7/24植えのミニトマト。

7/30植えのミニトマト。

荒ぶる冬瓜。

下がまだ泥濘んで足を取られまくり。
乾いたら修正する事に。
8時に帰宅後、シャワー。
9月に入ってもまだまだ暑い。
9時に買い物へ。
帰宅後、夫が親族のオレオレ詐欺被害の調査中。
自分もネットで法律等を検索。
すると、預金者保護法や金融商品取引法、振込詐欺救済法等が出てきた。
75歳以上の高齢者の金融取引には家族の同席が必要、とか制約があることが判明。
あとは、役席者の承認とか。
役席者て何かと思ったら、管理職なんだそう。
そういえば、証券会社の人間の名刺が四枚見つかったと言っていた。
預金者保護法はXで見つけたわかりやすい表を見た限り、どちらかと言うと銀行保護法やな。
預金者やなくて銀行を保護する為の法律。
https://x.com/nakachi2027/status/1550965096004079616?s=19
これを上手く使ってオレオレ詐欺やっとる。
国が銀行を守る為に法整備しとる。
世も末や。
夫は銀行と警察に2回ずつ電話していた。
自分は読書をスタート。
昨日に引き続きフロイス本。
1571年、フロイスの庇護者だった和田惟政は松永久秀に攻められ敗死。
フロイスは慟哭。
沖田畷の戦いは九州のキリシタンの命運を左右した。龍造寺隆信は大のキリスト教嫌い。この戦いで隆信は討死。鍋島直茂が龍造寺領を治める事に。
大友宗麟は20代でフランシスコ・ザビエルに面会。息子に家督を譲った48歳で改宗した。
大友領は九州六カ国に及び宗麟は日向国(宮崎)にキリシタン国家を作ろうとしていた。豊後の大友氏と薩摩の島津氏は良好な関係にあった。が、毛利氏の元に身を寄せていた足利義昭が島津氏に対し大友領に侵攻し大友勢が毛利領に侵攻するのをやめさせるよう命じた。
耳川の戦いで大友軍は大敗。
1582年正月、信長は光秀に最初に信長に拝謁する名誉を与える。フロイスは信長は奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いた。
↑歴史書では信長は光秀を禿と罵倒したり打擲したりして冷遇した、とあるがフロイスの記述は違う。
何でだろ?
元亀年間(1570〜1573)フロイスの布教活動は順調。が、一方で信長は信長包囲網で絶体絶命。1570年は上洛命令に従わなかった朝倉義景討伐に越前へ兵を進めた。ところが同盟者・浅井長政の裏切りに遭い撤退。更に、6月、湖南で六角義賢・義治父子が挙兵。信長はこれを撃退。更に同月末に徳川家康と共に姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った。
1571年、浅井・朝倉の退陣を許した廉で信長は比叡山を焼き討ちに。この所業に対し友好関係にあった武田信玄は信長を「天魔の変化」と非難。西上作戦を開始。徳川家康の領地を蹂躙し始めた。
信長は家康に三千の援軍しか派遣できなかった。家康は三方ヶ原の戦いで惨敗&敗走。
1573年、足利義昭も京都で挙兵。信長は素早く京へ派兵。
2月に野田城を陥した武田軍はぴたりと動きを止める。信玄が発病。甲斐へ戻る途中、信玄は逝去。その後の信長の行動は早かった。まず、足利義昭を攻め追放。足利幕府は滅亡。更に、1573年、三好三人衆の一人、岩成友通を討伐。
足利義昭による"信長包囲網"は武田信玄の死によって崩されていった。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
15時に孫達が来訪。
ホットケーキでもてなした。
17時に帰って行ったあと、夕食作り。

シシャモ、砂肝、鶏肉、サラダ、チーズ&ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
食後、読書中に寝落ち。
22時に覚醒。
ブログを投稿したら読書する事に。
歩数計は7767。
充実した一日だった。