2024/8/31土曜日
5時に起床。
朝から雷雨。
畑はお休み。
雨は6時過ぎに止むようなので洗濯はやることに。
昨日もゲリラ豪雨のように雨が激しかったのでベランダの水遣りはお休み。
8時から読書。
昨日から時空旅人編集部編「ルイス・フロイスが見た異聞・織田信長」を読んでいる。
まずは、ルイス・フロイスの紹介。
ポルトガル王国王室秘書庁書紀見習の少年フロイスにとってインドで1ヶ月に一万人に洗礼を授けるフランシスコ・ザビエルは憧れの的だった。

1548年3月、フロイスはポルトガル艦隊の一員としてインドのゴアを目指す。

1563年、フロイスは肥前(長崎)横瀬浦にに到着。ザビエルは既に1552年に中国の上海で逝去。共に来日したトーレスが後を受け継ぎ布教。
九州各地を転々、平戸の大名・松浦隆信の庇護を受け、中国地方では山口の大名、大内義隆から布教の許可を得た。了斎という琵琶法師は山口の街角でザビエルに洗礼を受けて以来ロレンソ了斎と名を変え京都に赴き布教。日本人キリシタンの存在は布教の大きな力となった。
ところが大内義隆は配下の陶晴賢に謀反され自害。その陶も毛利元就に討たれた。毛利はキリシタンを認めず迫害。山口での布教は続けられなかった。
トーレス達は九州を活動の拠点に。豊後の大友宗麟や肥前の大村純忠はポルトガルとの交易で利益を上げるため領内での布教活動を許可。1562年、大村純忠は横瀬浦を提供。ポルトガル船を来航させた。
1563年、大村純忠はトーレスから洗礼を受け日本初のキリシタン大名に。横瀬浦に教会を建て家臣に統治させた。が、戦乱の世はここにも押し寄せ、純忠のキリスト教優遇政策に反発する家臣達が横瀬浦に押し寄せ町を焼き払った。
来日直後にこの災難に見舞われたフロイスは先輩の修道士フェルナンデスらと共に度島(たくしま)へ渡りそこで日本語や日本の風習について学んだ。
1564年末、フロイスは平戸を出発。豊後、伊予の堀江、塩飽、坂越と船を乗り継いで堺に到着。アルメイダ修道士と中国人、インド人数人が同行。40日間掛かり念願の京都へ。先輩修道士ヴィレラに迎えられた。

ヴィレラは1560年に13代将軍足利義輝に謁見。砂時計を献上。大友宗麟の助力もあり京都に於ける布教の許可を取り付けた。ヴィレラは四条の姥柳町に住みながらロレンソ了斎と地道な布教活動。
1565年、ヴィレラとフロイスは将軍義輝への年賀の挨拶で将軍御所へ。
年賀の挨拶から5ヶ月後、河内の飯盛城主・三好義継率いる1万2千の兵が突如将軍邸を取り囲む。当時、足利将軍家の権威は低下。実権を持っていたのはその配下の三好義継及び松永久秀だった。
足利義輝は最期を悟ると長刀を手に取り戦い始めた。義輝は剣豪・塚原卜伝から指導を受けるなど武芸に通じ歴代では珍しく「将軍」の名に相応しい人物だった。公方様は長刀で数名を傷つけ他の者達を殺害。彼は更に敵に近づこうと長刀を投げ捨て刀を抜き応戦。部下達は武装に欠けていた為、敵勢は胸に一槍、頭に一矢、顔面に刀傷二つ、地面に倒れると手当たり次第に斬りつけ殺害。
三好軍は予てよりフロイス達宣教師の存在を苦々しく感じていたので朝廷より勅許を出させ都からの立ち退きを迫った。
足利義輝が殺されフロイスが堺へ退去した頃、松永久秀に捕らわれていた義輝の弟の覚慶(のちの足利義昭)は細川藤孝と和田惟政の助けで近江へ脱出した。
近江で還俗し足利義昭と名乗ると三好・松永軍勢が近江に侵攻。北陸・越前の朝倉義景を頼って落ち延びた。が、朝倉はいつまでたっても上洛しようとしないので今度は美濃の織田信長を頼った。
ルイス・セルケイラは1614年まで布教活動。オルガンティーノは1609,年まで。ヴァリニャーノは1603年まで。

ザビエルは山口で大内義隆に謁見。望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃等の珍品を献上。布教の許可を得た。大道寺を住居兼教会として与えた。ザビエルはこの地で2ヶ月で500名の信徒を集めた。
イエスズ会による布教は江戸幕府が正式に禁教令を出す1612年まで続いた。
そして、幕府が倒された明治時代に再びイエスズ会はやって来た。
アジアの有力者を信者にすればカトリック教会への莫大な献金が期待できる。

1568年4月、信長は義昭を奉じ上洛。義昭を第15代将軍に擁立。三好義継・松永久秀らも観念し信長に臣従。足利義昭を保護して匿った功により信長から高槻城を与えられた和田惟政がフロイスを訪問。フロイスが仏僧の企みで京を追われたと聞き真偽を確かめに来た。

高山友照の頼みでもあり信長にも内諾を得ていた惟政はフロイス一行を京都に呼び戻した。
1569年3月、フロイスとロレンソ了斎は和田惟政の案内で京都にある信長の宿所の妙覚寺へ出向いた。信長は出てこずフロイス達を観察するに留まった。
フロイス達には食膳が出され和田惟政と佐久間信盛が接待した。大きな西洋の鏡、孔雀の尾、ベンガル産の藤杖、黒いビロードの帽子を持参。信長は帽子のみ受け取った。信長は気に入った物のみ受け取る主義だった。
信長がフロイス達と会うことに関し慎重な態度を取ったのは松永久秀からの助言があったから。『伴天連が説く、かの呪うべき教えが行き渡る所、常に、国も街も直ちに崩壊し、滅亡に至る事は身共が明らかに味わった所です』と警告した。
松永久秀が信長に謀反を起こし討伐されるのはこの8年後。
今日はここまで。
正直、足利義輝が三好軍に攻められた際に長刀で勇敢に戦って何人も斬り伏せる猛者だったとは知らなかった。
実弟であり最後の将軍である足利義昭の方が信長との絡みもあるから知名度が高い。
更に、義輝公の側室の小侍従の局は一度は逃げたものの、後に捕まり、殺害された。
女性ながら首を要求された事も興味深かった。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
トランプ大統領によるスピーチも少し聞いた。
16時に長男一家が来訪。
たこ焼きパーティーを開催した。

19時過ぎに帰って行った。
後片付けを済ませたら営業終了。
最新情報をチェックしたら読書の続きをする事に。
歩数計は6524。
充実した一日だった。