arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1093日目と畑と明智光秀の乱

2024/9/9月曜日

4時半に起床し朝食作り。

5時半に畑へ。

いつものように、DSにタゲられたミニトマト撮影。

7/24植え。

7/30植え。

何故、ミニトマトが7月からタゲられているか、と言うと、孫がミニトマトの収穫と採れたてを食べるのが好きなので8月の引っ越しに向けてせっせと育てていた。

その幸せを阻止する為だったんよ。

更に、キュウリと枝豆の収穫も阻止。

成長を阻害させた。

それは、わいが、嫁の両親が8月に訪れる前に電話で「枝豆とモロキュウでおもてなししますよー」と話していたのを盗聴/盗撮していたから。

わいの事、何でも知ってるんよ。

愛されキャラだからしゃーない。

 

6時半に帰宅後、シャワー&洗濯。

ベランダでの水遣りを済ませたら、長女を駅まで送迎。

孫達と一緒に公園で遊んで買い物行こうと思ったら、嫁の体調不良で中止に。

自分一人で買い物に。

帰宅後、10時から読書。

 

昨日に引き続き小林正信著「明智光秀の乱」本。

 

昨日は明智光秀は進士藤延だった、という説を紹介。

自分も同意している。

 

永禄七年(1564年)正月15日に将軍新年参賀の際、取り次いだ「奉公衆」の中に藤延の名前あり。この時、義輝から盃を与えられた人々→高伊予守、大館陸奥守、同十郎、細川藤孝、本郷興三郎、進士美作守、同藤延、摂津晴門など何れも有力者。藤延は義輝政権の一翼を担う人物。

光秀側近に進士作左衛門貞連。光秀の側近として最後まで共した七騎の一人。親は進士美作守。夫人は藤孝の妻光寿院(沼田麝香)の妹。兄は進士藤延。光寿院の弟が「奉公衆」の沼田光友(のちに直次)天正10年6/9に光秀の覚状を藤孝へ届けた2人の使者のうちの一人。光秀が藤孝に援軍を頼む書状を持たせたが拒否。後に、藤孝の家臣となる。

光秀が美濃に縁者が居た事は「兼見卿記」にも記述がある。また、光秀と美濃の「奉公衆」との関係では「山崎の戦い」で戦死した首藤山内(盛定)氏や、姻戚関係にある斎藤利三と兄石谷兵部少輔が知られる。

また、両者が重なる特質に将軍が重臣の邸宅を訪れる「御成」などに必要な武家故実を司る「武法」について両者が大家であった、という事実。

更に、進士氏には管領家である畠山氏が伝承した「畠山流」の包丁と儀礼故実に関する「武法」が伝授されていた。永禄2年(1559年)に御膳部の式として本願寺に伝わって「進士流式法」として伝わっている。足利義輝の時代に進士晴舎が室町将軍家の「武法」を司っていた事は「三好筑前守義長朝臣邸へ御成之記」「永禄四年三好亭御成記」(「続群書類従」二十三下、続群書類従完成会)にこの献立の担当が進士晴舎であったことからも確認できる。←これなんよ。こういうのを知る人は限られている。だから、尾張の田舎出の信長は光秀を頼ったんよ。

エスズ会の宣教師であるルイス・フロイスも晴舎を「内膳頭」としている。

そこで思い出されるのは明智光秀が反乱を起こす2週間前の天正10年(1582年)5/15からの安土城における家康への饗応役の件。光秀は信長から命じられた。光秀は信長が威信を掛けた天正9年の安土・京都での「馬揃え」イベントでも指名されている。更に、築城のプロでもあり坂本城亀山城を手掛けている。

かつて足利義晴と義輝父子は勝軍地蔵山城、中尾城、北白川城、霊山城等を次々造営。技術的にも鉄砲への備えを整備。或いは石垣・瓦を採用するなど天文年間より築城技術を発展させた。光秀が義輝の側近であれば造詣が深かったのも頷ける。←素晴らしい将軍父子!この頃、既に鉄砲は普及してたんか?そういえば、光秀は鉄砲の腕前を見せるよう言われた際、20のうち18の的に命中させた、というのもこの影響か?

築城技術は厳重な軍事機密。容易に伝授されにくい性質がある。

進士晴舎の子として生き残った進士作左衛門貞連は義昭政権下で「奉公衆」としての記録無し。「細川家記」によると作左衛門は関ケ原の戦いで藤孝と共に田辺城に篭城。作左衛門は「山崎の戦い」後細川氏の庇護のもと豊臣期を、江戸期には前田氏に属し家督を継続。作左衛門夫人は沼田氏。

永禄八年五月政変は本能寺の変と並ぶ大事件。←足利将軍による室町幕府の再生を不能にした。

ここから下剋上が始まるわけで、めっちゃイエスズ会の策略を感じる。

奴らは侵略しやすいよう旧支配者層を排除するのが戦略だから。

フランス革命明治維新もそう。

「言継卿記」は400年以上の歳月を越えて「永禄八年五月の政変」を生々しく、我々に事の重大さを伝え今、尚、発信している。「辰の刻(午前八時)三好人数松永右衛門佐(久通)等一万ばかり俄に武家御所(将軍御所)へ乱入、これを取り巻く、戦しばらく云々、奉公衆数多討死云々、大樹(将軍)後午初(十一時)つく(果てる)御生涯、説くべからす、説くべからす、前代未聞の儀なり、阿州(阿波)の武家(義栄、あるいはその父義継)ご上洛あるべし云々、、、、」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%A4%89#:~:text=%E6%B0%B8%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%A4%89%EF%BC%88%E3%81%88%E3%81%84,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

義輝の政敵阿波の公方足利義維か子の義親(十四代将軍義栄)を奉じるに違いないという山科言継の見通しが示されている事からも偶発的では無く予見された政変か。

予言されていたからこそ義輝は将軍御所の要塞化に努めていた。

永禄八年五月政変は義輝の要請に応じた信長の上洛を阻止。三好三人衆三好長逸三好宗渭・石成友通)と松永久秀・久通父子にとっては自衛権の行使。

この政変の首謀者達は将軍だけでなくその生母、愛妾の小侍従、近臣ばかりか義輝の末弟で鹿苑院僧侶の周暠をも殺害。

義輝は器量人として当時の人々から嘱望されていた。前日には政変に気付き次期将軍を弟の覚慶、または周暠と定め、信長にもその旨を連絡。小侍従と子供達を逃す手筈を整えた。

義輝側近の進士知法師は明智光秀の登場と共に消える。

わいの計算によると光秀は1540年生まれ。

永禄八年五月の政変で義輝の面前で腹を切った進士晴舎の最期について「足利季世記」「続応仁後記」などの邦文献とフロイスの「日本記」の記事は一致。藤延について邦文献は戦死を記すに止まった。

フロイスは「ところでかの老いた美作守の長男である一子(藤延)はさっそく出かけていったが戦い始めると最初の合戦でたちまち殺されてしまった」という奇妙な逸話を載せている。

当時、藤延は将軍を直接警護する「走衆」の常連。事件14日前義輝が父義晴の命日に焼香に出かけた際も「走衆」を務めている。本来、この職にある者は信長側近の森蘭丸のように最後まで将軍の側に居るのが本分。それなのに藤延は持ち場を離れて不覚を取ったという内容の記事。

フロイスは進士親子と面識あり。→ありゃー、バレちゃったねー。

フロイスは「美作進士殿は甚だ高位の殿で宮廷で最も有力者の一人である内膳頭の邸へ直行した。彼は公方様の舅であった。、、、(中略)、、、(留守であったので)その長男が来て一行を出迎えて応対した。その後、父が来席した。、、、(中略)、、、彼はともに宮殿に赴いた」美作守は「申次衆」であり、不在の場合は長男の藤延が代行を勤めることがあったのは「晴右卿記」にもある。

次に掲げる東寺八幡宮への義秋(義昭)の願文は還俗して凶徒(三好・松永)を退治し必ず帰洛する、という決意表明の最重要文書。進士家の相続人が義輝死後も義昭の亡命政権の中で関与していた事を伺わせる。

義輝は政変前日から色々手配。①足利家重代の宝の「御小袖の鎧」を伊勢貞助と大和晴完に持たせ禁中へ退避させている。②末弟の周暠を逃亡させようと護衛を送る。➂側室の小侍従と子供達を脱出させる。④信長に自分の死後、生き残った弟の一人を奉じて上洛するようとの遺命を伝える使者を尾張に派遣。⑤小侍従とその子供達の養育。

義昭は実子が居たにもかかわらず後を継がせて居ない。義輝の遺命により一代限りの将軍だったか。

光秀が反乱の後、細川藤孝に宛てた天正十年六月九日付の「明智光秀覚状」の中で光秀は子の光慶を奉じる、と記している。

生駒親孝が著した『讃羽綴遺録』によると、細川藤孝(幽斎)は足利義晴の四男。尾池の祖も足利の氏族。

フロイスは光秀の子供達について『非常に上品でヨーロッパの王子を思わせるほどであった』と記述。

フロイス君は進士藤延から明智光秀になってからも仲良しなのな。

本当は親キリスト教足利義輝を利用して日本を侵略しようとしたけれど暗殺されたから傀儡を信長に変えた、と。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

 

17時半から夕食作り。

鯖、焼き芋、焼きじゃがいも、麻婆茄子、モロヘイヤ、モヤシサラダ、なめこと蜆の味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をしてから寝ることに。

 

歩数計は7659。

充実した一日だった。