2024/8/23木曜日
4時20分に覚醒。
まだ腰が痛い。
何とか朝食作りを済ませ、5時半に畑へ。
家を出た瞬間、腰の痛みが無くなった。
魔法かよ。
恒例のミニトマト撮影。
7/24植え分。
7/30植え分。
↑まーた、緑色の液体が撒かれている。
枝豆は葉が黄色く枯れてきたので自家製Fe水を撒いた。
そして、竹酢液入りの水を振り掛け。
普通は大雨の次の日は畑で水遣りをしなくてもいい、となるがうちの畑は雨にかこつけてDS悪魔に何かしら撒かれるから栄養補給しないと枯れる。
だから、わいは毎日畑に行ってチェックしとるんよ。
わいに毎日畑に来て欲しく無いなら嫌がらせするのをやめれば良い。
が、多分出来ないんよ。
それを生業としているから。
6時半に帰宅後、シャワー&洗濯。
8時から読書。
昨日に引き続き、羽太雄平著「二河百道下巻 智将・本多正信」
信長と石山本願寺との和睦交渉が決裂したあと使者にも立った荒木村重が本願寺に兵糧を送った。下間頼純は弥八郎に似たような事が三河でも起きたのでは?と尋ねた。天正三年長篠に勝利後、信長は美濃岩村城を攻めた。その際岩村方は財貨を刈谷城下で食糧に変えた。それを知った信長は激怒。糾明の使者を刈谷へ。刈谷城主の水野信元(家康母於大の方の実兄)は釈明の使者を岐阜に送った。途中で双方の死者が喧嘩になり相果てるという椿事が。信長はますます激怒。家康に信元を殺させた。が、家康は殺すに偲びず大樹寺に禁足。止むなく切腹させようと平岩親吉を赴かせようとしたところ石川数正が先に行って殺害してしまった、と「参河志」が伝える。
水野信元は早くから織田家に属した。織田・徳川の同盟の際は立会人に。
半年後、荒木村重は謀反。居城の有岡城に立て籠もった。丹波の八上城と播磨・三木城も織田の大軍を引き付けていた。毛利家はこれを好機と見て石山本願寺への兵糧入れを敢行。天正6年11/6、「信長公記」で「西国の舟六百艘、木津表に乗り出し候」と記される。この日、木津川口で第二次木津川海戦が繰り広げられた。午前八時に開戦、毛利水軍が緒戦を有利に進めたが6隻の鉄の船が積んだ大鉄砲が火を吹くと形勢逆転。毛利方大敗北に。←そりゃそうだ。信長は南蛮人DSを味方につけとるな。
吉崎御坊を建てる為の木材を調達する為に山中村に滞在中の弥八郎の元へ多羅尾家の源内が情報提供に来た。
三河の元康遺児の信康が甲斐の武田と誼を通じた廉でお咎めに。信康の正室は信長娘の徳姫。徳姫から信長へ書状が遣わされ信長は立腹。家康へ信康切腹を命じた。母の瀬名姫(築山殿)は助命嘆願に浜松へ向う途中斬られる。←哀れな一生や。跡取りと思い嫁いだ元康は家康と家督を交代し出家。瀬名姫は岡崎の尼寺へ押し込められ一家で虜囚のような生活。
信康切腹の裏には酒井忠次や大久保忠世の暗躍があった模様。刈谷城主水野信元の一件での石川数正のように重臣層の権力は強い。
信長は信康が家康の嫡男では無いと知っていた。
家康は信康を遠州の堀江(浜松市舘山寺町)に移した。信康は二股城に移された。瀬名姫は8月末に浜松へ。8/29, 浜松の西にあたる佐鳴湖で船を降り冨塚(浜松市冨塚町)の谷間で殺された。浜松まで僅か半里(2キロ)野中重政と岡本時仲が命令を受け殺した。哀悼。
天正七(1579年)9/15, 次郎三郎信康が二股城で自害。享年21歳。二股城に介錯として服部半蔵正成、検使に天方山城守道綱が赴いた。始め渋河四郎左衛門という三河武士に介錯役を命じたが「3代相恩の主人の首は斬れない」と出奔。他国から仕えて間もない服部半蔵が指名された。ところがこの半蔵も「われに一点たりとも疚しいところはない。しかしながら信康潔く最期を遂げよう。このこと浜松に伝えよ」と見事に腹を掻き切った信康を討てず刀を投げ捨て泣き伏した。信康の苦痛を見かねた天方が首を斬り落とした。
天方道綱は天方城主の一族で徳川家の内部事情に疎かった。主命により信康の首を斬り落としながら予想もしない波紋に戸惑い、且つ後悔。紀州高野山に屏居。瀬名を殺害した野中重政も故郷の遠州堀口村に帰って蟄居。信康傅役の平岩親吉も家に閉じ籠もり信康付き家老の長沢松平の松平親宅は悲嘆の余り出家。同じく信康付属の榊原清政も弟(榊原康政)の家に蟄居。のち関東奉行として名が知られる伊奈忠次は父と共に三河を出奔。信康小姓の吉良於初は追い腹。
大須賀五郎左衛門康高は馬伏塚に詰めて知らされず。信長が徳姫からの書状を以て酒井忠次を問い詰めたのは7/16。8/1には信長へ「生害に及ぶべき」と決定した処分が伝えられる。8/3に家康は岡崎へ出向き信康と論争。血を分けていなくとも叔父と甥の仲。しかし、物別れとなり雨の中、信康を大浜へ移送。恐らく称名寺。で、9/15, 信康自害。
このような出来事があった為に、弟三弥は徳川家を見限って出てきた。他に、成瀬吉右衛門、本多彦二郎康重、岡部弥次郎長盛、西郷新太郎が同行。
本多彦二郎康重は徳川家の重鎮本多広孝の長男。
西郷新太郎は西郷清員の長男新太郎家員。父清員は嫡流家の兄が討死後、嫡男義勝の後見役に。正室に酒井忠次の妹を娶った。のちに義勝が討死した為、子の新太郎が養子となって嫡流を継いだ。その時17歳と若かった義勝未亡人のお愛は父清員の養女として暮らし家康の側室に召され天正七年4月に男子を出産。幼名長松。のちの秀忠である。酒井忠次からみれば妹が家康の子を生み、兄於義丸は父家康に嫌われている。次郎三郎信康が居なければ長松にお鉢が回ってくる?外伯父忠次の心ない行為が新太郎家員の出奔に関係していない、とも言えない。
家康の剣術仲間の戸塚四郎左の継母は若くして未亡人になり同じく剣術仲間だった服部平太夫が妻にした。その時の連れ子のお愛は西郷義勝に嫁ぎ母と同じく未亡人になったあと家康の側室に召され秀忠を生んだ。戸塚四郎左はお愛の方の親族たるをもって召し出され遂に忍城の城代に出世。お愛の義父の服部平太夫も猿楽の芸を以て家康のお伽衆になり簑笠之助の名を改めた。
本願寺は信長と和平を結んだ筈なのにその2日後突如柴田勝家が弥八郎の滞在する加賀に攻め込んできた。この時鏑木家人の水嶋庄蔵が飛火矢の使用を申し出た。竹筒の尻に火薬を仕掛けそれに点火して射るものでロケット砲に似たものと考えれば良い。
庄蔵は飛火隊を二手に分けて来襲に備えた。
その頃柴田軍は数千人の軍勢で手取川に迫りつつあった。
勝家は先陣と共に川に入って行った。そこへ一斉に飛火矢が飛んできた。馬達は驚き棹立ちに。先陣の数百が慌てて川岸に戻ろうと味方同士が入り乱れた。そこへ本願寺勢が突撃。柴田軍は這々の体で越前に逃げ帰った。
事態は尚、流動。閏3/13, 石山本願寺より一通の檄文が。新門主の光寿と強硬派の幹部数名が雑賀をはじめとした紀伊門徒に呼び掛け「徹底抗戦」叫び石山城を枕に討死にせんとする内容だった。
弥八郎は徳山五兵衛に勧められ安土城を訪問。そこで伴天連寺を目にした。信長がキリシタン僧に初めて面謁。ルイス・フロイス。
信長はキリシタン宗門を優遇。31回面謁。安土城下での布教を許可。
神学校まであった。賀茂在昌とも会った。摠見寺は賑わっていた。
信長の誕生日は5/12。この当時までユリウス暦を使用。西暦1582年は天正10年。
武田大打ち込みは天正10年2/12に開始。
坂本城下に来た弥八郎は日向守(光秀)の帰城に遭遇。これに先立ち南蛮簑を着た二人連れとすれ違っていた。豪雨に見舞われ唐崎神社で雨宿り。更に近衛家陪臣の湯浅掃部助を加えた南蛮簑3人衆を見送った。
光秀を近衛前久が訪れるのはおかしい。
信長は正親町天皇に譲位をせまった。二条の新御所を献上した誠仁親王へ譲位を促し猶子にした五宮(誠仁親王五男)を皇太子にしようと目論んだ?
信長は賀茂在昌を召し出している。正親町天皇も同じく召し出し地球の事を叡覧されている。
土御門久脩は「改暦」を引き寄せた事により5位から6位に降格。
暦は朝廷の専権事項。近衛の使者は唐崎神社に寄りそこで吉田兼和に仲介を頼んだか。
吉田家は洛東吉田山(左京区神楽岡町)の麓で細々と神社を営んでいたが4代前の兼倶が吉田神道を確立。足利義政や日野富子に取り入り「神祗官領長上」なる役職を室町幕府に認めさせ日本中の神職は吉田家の免許によって任命されるようになった。
元々吉田家は近衛家の家令。
光秀は御料所だった丹波山国荘を宇津頼重から回復し朝廷に差し上げた際、正親町天皇は酷く喜んで「あけち所へ馬鎧と掛け袋(香を入れる袋)廿とつかわす、、、めでたし々々」と褒賞をつかわした。
光秀は時の連歌師里村紹巴とも親交がある。里村紹巴は天皇や親王家も親しくしている。そして、吉田兼和は「兼見卿記」で坂本に光秀を訪ねた際里村昌叱らを交えて一折の連歌興行をした、と記している。
天文10年6/1, 京都・四条西洞院の本能寺では前日から宿泊の信長が盛大に茶会を催した。近衛前久、子信基、九条兼孝、一条内基、二条昭実、土御門久脩等40名が参集。
朝廷は三職(関白、太政大臣、将軍)推任を信長に提案。官位を受けさせ朝廷の機構秩序に引きずり込むことで「改暦」を思いとどまらせようとした。が、信長は進物は受け取らなかった。朝廷から何一つ受けるつもりは無かった。
暦問題勃発。信長は何でこんなに改暦にこだわってるんだ?DS宣教師フロイスに洗脳されとんのか?
本門法華宗宗本山としての本能寺は古くから瀬戸内海に布教を展開させその教線は種子島や屋久島まで延びていた。例えば種子島に伝来した鉄砲を本土に普及させるのに深く関わり、細川晴元が鉄砲を種子島から入手するについて斡旋した旨の「本能寺文書」がある。←マジかー。寺が鉄砲の斡旋しとったのな。
信長は商業と密接に関わる法華宗本山を手元に引き付ける事で三好衆に鉄砲その他の武器が渡らぬよう先手を打った。←寺が商業と密接に関わるとか、初耳や。
本能寺は所司代の村井貞勝に命じ大改造。四方に堀を巡らし内側に高い土居を築き木戸を設けた。信長の馬好きを反映して立派な厩舎まで造られた。←寺なのに立派な厩舎。
茶屋四郎次郎「光秀と紹巴とはいささか奇妙な組み合わせ。更に奇妙なのは何故玉林斎殿(三井寺)が知りたがるのか」弥八郎「改暦、キリシタン暦への御改となれば問題なのでは」←問題やな。何で欧米しないと駄目やねん。信長、おぬし、欧米か!
今日はここまで。
9時半に買い物へ。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
15時半に孫達が来訪。
癒しの時を過ごした。
17時から夕食作り。
鯖、焼き芋、もろみ蜆汁、ハムサラダ、チーズ&ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
これに残り物をプラス。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
ブログの編集をしていると俄に腰痛。
この腰痛は家から出ると治る不思議な腰痛よ。
そして、眠れ眠れ爆弾💣️攻撃。
何度も床にスマホを落とした。
投稿したら、読書の続きをする事に。
歩数計は7315。
充実した一日だった。